恵子ちゃんの未練

ピピピッと計測終了を報せる音が鳴り、恵子ちゃんから受け取った体温計の画面を見ると38.9度、そんな高熱があるようには見えない薄いピンクの顔色ですが、マスク着用必須のインフルエンザです。


そんな高熱を出しているのにも関わらず、ふらつくこともない確かな足取りでいつも通りに学校へ行こうとする恵子ちゃんを全力で説得して、病院まで10分ほどの道のりを一緒に歩いて行き、学校にはきちんとお休みの連絡をいれました。


その日の夕方頃、ソファーの上で眠っている恵子ちゃんを傍で看病しているときに、ランドセルを背負ったポニーテールの女の子が、事務所のインターホンを押しました。


「あ!あの、恵子、ちゃんの、お家は、ここ、ですか?」

「はーい。今行きますねー。」


開いたドアのすぐ目の前に立っていた彼女は、扉におでこをぶつけてしまって、私との謝りあいっこをしたあとで、走ってきた後らしい息切れをした赤い顔で私を見上げました。


「あの、恵子、ちゃんの、えっと、新しい、お母さん、ですよね。」

「そうだよ。クラスメイトの子?」

「はい。あの、今日、の、プリントを、もっ、持って、きました。」

「ありがとうね。・・・ちょっと、休憩していったらどう?」

「いえ、あの、だいじょぶ、です・・・。宿題、しなきゃ、なので・・・。」


桜の花びらのような色のダウンジャケットを着たその女の子は、お辞儀をして走り去っていき、私の視界から消える交差点で曲がる前に何かを思い出したようで、また走って戻ってきました。


「あ!あの、その、かみ、紙の、はーっ。」

「落ち着いて、息を整えてから話した方が早いと思うよ。」


はき出す息の白さが上着と同じ色をしているなあとか、どことなく恵子ちゃんに似てるなあとか様々なことを考えながら、息切れが収まらないうちから拳を握って、掠れた小さな声でまくしたてるその女の子の言葉を聞きました。


「その、学年通信に、あの、授業参観の、お知らせが、書いてあるんです。」

「あ、本当だ。今週の土曜日ね。うん。」

「恵子ちゃん、授業参観に来てくれるの、お母さんが、来るの、初めてだから、楽しみにしてるって、言ってました。それだけ、です。あっ、だから絶対に、絶対に見に、行ってあげてください。それだけ、です。」

「うん。もちろん見に行くよ。ありがとうね。」


その子は深くふかーくお辞儀をして、それからランドセルの肩紐をぎゅっと握って、ガシャリガシャリと音を立てて走って行って、ついに交差点で曲がって見えなくなりました。


今週の土曜日、2時間目、公共交通機関や徒歩での来校にご協力願います、などなどチラシ上の文字を拾いながら事務所のドアを閉めました。


「何をもらったんだい。」

「今日の恵子ちゃんが受け取るはずだったプリントたちだそうです。」


私はソファー前の机に置かれている書類の山の上に今し方もらったプリントたちを乗せて、新しく届いた事務机の上に上半身を載せてだらけている探偵さんを視界の端に捉えながら、恵子ちゃんが心地よさそうな寝息を立てて眠っているソファーの向かいの、いつもは探偵さんが座っている安楽椅子に慎重に腰掛けました。


「探偵さんは授業参観、行きたいですか?」

「行けるなら、喜んで行ってる。」

「つまり行けないんですね。」

「申し訳ないね。」

「その、家の中から出られないのって、なんとかならないんですか?」

「別に学校の校舎の中まで辿り着くことは造作も無い。降ってくる車を全部避けながら行けばいいだけだ。避けられなくても、僕が潰されることはまずない。他の通行人の安全だとか、校舎の安全の方が問題だ。」

「事務所の他の建物の中に入っても、車は降り続けてくるんですか?」

「そうだね。」

「ちなみに1秒間に何台くらいとか・・・。」

「さあね。数えたことない。」


車を小学校の屋上にとめどなく注ぐなんてことが、校舎をデザインした人に想定できたとは思えませんし、その衝撃や重さに耐えうる設計ではなかった時に犠牲となるのは誰か、私はそんなことを想像してしまっていました。


「・・・とりあえず、探偵さんは役に立たないってことですね。」

「言葉の棘が痛い。まあ、そういうことだよ。仕方がない。これも君に任せるべき仕事だ。」


私は深くてわざとらしいため息をつきながら、机の上のプリントの山から民子ちゃんと和枝ちゃんの学年の通信を引き出して、恵子ちゃんの学年通信の隣に並べたところを、探偵さんが私の肩の上から覗き込んできました。


「ああ。全学年で同じ時間に実施するんだね。土曜日の2時間目。」

「そうなんです。どうやって3人とも全員の授業参観に行こうか、悩んでます。」

「・・・この前のコメダのモーニングの話を忘れたのかい。」


 [例えば午前中にコメダに行くと、モーニングのパンに合わせるものを、小倉あんか、バターか、卵ペーストの3つから選ばなければいけない。3つ全部をもらうというのはお店のシステム的に不可能だ。]


「覚えてますよ。でも、授業中の移動は物理的に可能ですし、禁止されてもいません。」

「ちょっと無理がある。」

「何が無理なんですか?」

「授業1コマが45分であるとしたら、君はそれぞれの授業を最長で何分ずつ参観できるかな?」

「15分ずつですね。」

「それぞれの授業を参観してない時間は最短で何分ずつになる?」

「最短でも30分ずつです。」

「そう。参観をしている時間よりも、していない時間の方が確実に長くなる。君が教室の中にいる時間よりも、いない時間の方が長くなるんだよ。教室の中で君を探しても、君を見つけられない可能性の方が高い。」


探偵さんがそう言ったところで、ソファーでむくりと起き上がった恵子ちゃんは、近くに寄っただけで分かってしまうほどの燃えるような熱を出しているというのに、そんなことを忘れてしまいそうなくらいはっきりとした声でマスク越しに話し始めました。


「由加さん」

「どうしたの恵子ちゃん、寝てないとダメだよ。」

「和枝の授業を見に行ってあげてください」

「和枝ちゃんの授業を観に行ってあげればいいの?」

「民子は私ですから。」

「え?」

「間違えました」

「え、うん。」

「民子は私が説得しますから」


そして恵子ちゃんは目を閉じて、熱があるなんて微塵も思わせない平然とした表情で、寝苦しさを全く感じさせない穏やかな寝息を立てて、またすぐに眠りへと落ちていきました。


「だそうだよ。恵子ちゃんは君に、和枝ちゃんのクラスへ行って欲しいらしい。君は和枝ちゃんの授業を参観して、恵子ちゃんと民子ちゃんのクラスには行かない。それでいいなら、問題は解決したことになるね。」

「・・・つまり、恵子ちゃんは自分の授業参観には来て欲しくないってことなんでしょうか。」

「そんなことは言っていない。そして、来て欲しいとも言っていない。彼女が言葉にしたのは、和枝ちゃんの授業を見に行ってあげて、と。それだけだ。」

「でも、私が恵子ちゃんの言った通りにしたら、私は和枝ちゃんの授業しか参観しないことになります。それは恵子ちゃんの授業を見に行かないことと同じですよね。」

「そうだね。そして彼女はそれをまるっと望んでいるように思える。」

「何ですかその言い方。実はそう思えてしまうだけで、本当はそうじゃないんだって言いたいんですか。」

「結論を急がない。」

「はい。」

「僕がさっきから言っているのは、恵子ちゃんは自分のクラスに君が来て欲しいかどうかについては何も言ってないってことだよ。」


事務机とセットで新調したふかふかなボスチェアに座り直した探偵さんは、右手の人差し指を宙にクルクルと回し、そこに左手を横切らせる謎の手遊びを、何回も何回も繰り返しました。


「なんですか、その動き。」

「君の注意を引くための、探偵の抽象的なイメージを表現した動きだよ。気になる?」

「そりゃあ、嫌でも気になっちゃいますけど。」

「そして僕の変なモーションは、恵子ちゃんの心の様相とはなんの関係もない。」

「それは、そうだと思いますけど。」

「しかし君の注意は僕の手の動きに向いた。まんまと意識を逸らさせられている。」

「はあ。」

「マジシャンは客の注意を逸らして時間を稼いでいる間にトリックを仕込んで客を欺く。肝心な何かしらを隠すためにまた別の事柄に目を逸らさせる。話題をずらすテクニックは人を騙すのにとても役立つんだ。」

「恵子ちゃんが私を騙そうとしてたって言いたいんですか?」

「無意識のうちに自分の願いを隠してしまえるくらい、恵子ちゃんはしっかりしていて、賢くて、強い心を持っているってことだよ。今朝からの彼女の様子を思い返してごらん。」


そう言われて私は、恵子ちゃんが普通に学校に行こうとしていたことや、高熱を出しているようには見えない普通さで病院まで歩いて行ったことを、薄々ながら変だと感じていたのを思い出しました。


「熱が出ていても、それを表に出さない。辛そうな様子は見せない。この寒い中、39度弱の高熱を出した子どもが、最寄りの耳鼻科まで片道10分くらいも歩いて行くなんて、異常だよ。」

「・・・恵子ちゃんは、ぜんぶ我慢してたってことですか。」

「本人は我慢だなんて思っていないだろうね。長女としての責任という名の、無意識の抑圧。僕も長男だから、なんとなくその気持ちは分かる。かの有名な竈門炭治郎も同じようなことを言っているしね。」

「途中までなるほどって思ってたのに、最後の最後で信憑性ゼロゼロです。」

「まあ、冗談は置いといて、恵子ちゃんは実に、自分の願望や気持ちを抑圧して我慢することに慣れているし、その無理を悟られないように無理をするのが上手だ。」

「それは、そうですね。今までの話を踏まえると。」

「彼女自身もそれが何なのかを見失ってしまうくらいに、自分の声を隠すことに長けている。自分自身でも嘘と気付かない嘘をつく。彼女は、そういう子なんだよ。」

「じゃあ、さっきの、和枝ちゃんのクラスを観に行ってくださいっていうのも・・・。」

「そう。自分の願望を隠して、君を騙すためのトリック、なのかもしれない。」


思えば幸雄さんと乙子さんが行方不明になってからも、恵子ちゃんはそれ以前と変わらずに、しっかりしていて、賢いお利口さんのまんまでした。


極端に元気になることもなければ極端に暗くなっちゃうこともなく、まだ小学5年生の子どもが、両親を火事で失ってしまうなんて、そんな惨たらしい事件があって何も感じないわけないのに。


自分の気持ちに見て見ぬふりをし続けらいてれる、そんな心の強さを持ち合わせてしまっていたせいで、恵子ちゃんがそう望んでいるか望んでいないかは別として、私たち大人に甘えられなくなってしまっているのです。


「恵子ちゃんは私に、本当は、自分の授業を見に来て欲しい、っていうことですか?」

「また結論を急いでいる。」

「あ、ごめんなさい。」

「もういいよ。仮にそうだとすると、君にはまだ解決すべき、というか解決しかかってたのに、むしろ解決したのにまた振り出しに戻されてしまった問題が立ち上がってくるよね。」

「授業参観をどう見に行くべきか、ですよね。」

「僕が余計な口を出さなければ、恵子ちゃんは我慢して、民子ちゃんは説得されて、君は和枝ちゃんの授業だけを観に行くだけでよかった。」

「それならどうして、余計な口、を出したんですか?」

「長女だからといって、不必要な我慢をしようとする彼女に我慢ができなかったんだ。それだけだよ。」

「はいはい。それで、探偵さんからは解決方法の提案とか、なんかないんですか。」

「ない。僕の出る幕はない。これは君に任せるべき仕事だ。」

「・・・はぁ。はいはい。」


あーあ、もしも体が3つもあったなら、私はみんなの授業を見に行けるのになぁって、強く強く苦虫を噛み潰しました。

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