そのコーヒーを飲んではいけない。

「え。なんですか?」

「そのコーヒーを飲んではいけないと言ったんだ。」


ソーサーからカップを持ち上げ、口元に傾けかけていたその時、私の目の前にコーヒーを運んできてくれた張本人である探偵さんのその言葉のせいで、私は自分の腕を肩の辺りで緊急停止させないといけませんでした。


「なんでですか?」

「あーあーあー、そのコップをお皿の上に戻すのも禁止だ。机の上に置くのももちろん禁止。」

「え。なんでなんですか?」

「そもそも、そのカップを手に持っていてはいけない。今すぐ手放すんだ。」

「そんなことをしたら落ちて割れちゃいますけど?」

「君はそのカップを手に持っていてはいけない。今すぐ指を離すんだ。」


私は意味が分からないままカップの持ち手から指を離し、コーヒーが注がれたその器が落ちていくのを眺め、バッハのG線上のアリアの旋律がデザインされているウェッジウッドのヴィンテージ品は程なくして、慌てて拾い受け止めようと最大限腕を伸ばした甲斐なく虚しく砕け散って床に黒茶色の花を咲かせました。


「あーあ。」


探偵さんはそう呟きながら、羽織っていたトレンチコートのポケットから分厚めな布巾を取り出して、その布で陶器の破片を覆い、床に広がった泥色の水溜まりを拭い取りました。


私はしゃがみかけた膝を伸ばしてしばらく床を見つめ、「あーあ」と呟いた探偵さんの顔を見上げてから、また足元に視線を落として、掃除しなくちゃと考えながらしばらく床を見つめていました。


そして探偵さんは布巾から手を離して、なにやら仰々しくショパンのエチュードを練習しているかのように指を蠢かせて、それから左手でマジシャン気取りなフィンガースナップをしてから布を取り去ると、そこには銀紙に包まれた方形の物体1粒しか残されていませんでした。


ロッテの、11粒入りで売られている、国産カリンを使用したのど飴の中の、1粒。


「こののど飴を君にあげよう。」

「え、ありがとうございます。」

「食べるのは後にしてね。」

「分かりました。」


私はそののど飴の銀紙を開こうとしていた手を止めて、少し自分の手で握りしめた後、なんで今すぐ舐めてはいけないんだろうとは思いつつ、それを上着の左腰ポケットの中に入れました。


「というか、探偵さんってマジック上手ですね。」

「こうも仕事が来ないと暇で暇で仕方がないからね。僕はこの事務所の中から出られないわけだし。おいしいコーヒーの淹れ方とかだけじゃなくて、他にもあれこれと研究して時間を潰さないと、とても暇で暇で死んでしまう。ところで、今、君が羽織っている上着のポケットの中には何が入っているかな?」


私はまさか、と思って速やかに両手を左右両方のポケットにそれぞれ突っ込み、袋の中を漁ってみましたが、左手に先ほど入れたのど飴を掴んだだけでした。


「普通に、さっきの、のど飴ですけど。」

「そうだろうね。普通に、君がさっき自分でポケットに入れたのど飴しか出てこないだろうね。」

「これのどこがマジックなんですか?」

「別に僕は最初からマジックをしてるつもりじゃないけど、まあ、強いて言うなら、僕はそののど飴を服のポケットにしまえとは命令していなかったけれど、君がそういう類いの行動をすることは予想できていたし、君が今、ポケットの中に入っているのど飴を取り出すことなく僕の質問に答えることも予想できた。」


私は確かにのど飴を掴んだ左手をポケットの外に出そうとしておらず、ポケットの中に入っている状態の左手でのど飴を握ることでその存在を確認し、実際に左手をポケットの中から取り出すことなく、私は左ポケットにのど飴が入っていることを探偵さんに報告するだけで済ませようとしていました。


「そういえば、君にプレゼントを用意したんだった。」


探偵さんはキッチンへ行って、キッチンからは冷蔵庫を開け閉めする音がして、戻ってくる探偵さんは私の分のスプーンとプリンを2つ持って来て、応接スペースの机の上にコトンと置きました。


受け皿の役割を果たすために必要なカップが失われたかわいそうなソーサーの横に、いつも予約がいっぱいで入手困難なばかりか、ダース単位2百万円でしか販売してもらえないお取り寄せ窯出し壺プリンが2つ、机の上に置かれたのです。


「僕は昨日食べた。まだ個数に余裕があるから2つ食べていいよ。」

「2つも食べちゃいますても良いんですか!?」

「駄目だ。」

「どっちですか。」

「その言葉を待っていた。」


探偵さんは突然に立ち上がって、事務机の方に革靴を鳴らして歩いて行き、上の方の引き出しを開けてマーカーと紙を取り出して引き出しを閉め、それらを持ってプリンの置かれている机に戻って来ました。


探偵さんは紙を机に置いて、マーカーのキャップを取り、紙の上半分くらいに [食べてよい] という言葉を書いて、マーカーのキャップを閉めて私に見せて来ました。


「この紙を見て素直に考えた時、君はそのプリンを2つ食べてよいと思うはずだ。」

「それは、そうです。だって、そう書いてあるんですから。」

「じゃあ、こうしたらどうなるかな。」


探偵さんは再びマーカーのキャップを取って、紙の下半分に [食べたら駄目] という言葉を書き加え、再びマーカーのキャップを閉めて、その紙を私に見せて来ました。


「これを見て、君はどう考える?」

「どっちなんだろうって思います。」

「その通り。それが普通の反応だ。」


探偵さんはマーカーを机の上に置いて、上半分と下半分にそれぞれ真逆のことが書かれている紙を角を合わせて半分に折り、シャッと鋭い音を立ててその折り目をなぞり、さっきまで紙の上半分だった方に書かれている言葉を私に見せて来ました。


「この紙に僕が食べてよいという言葉を書いた時、君はこの紙からプリンを食べてもいいよという許可のメッセージを受け取る。そうだよね。」

「それは、そうです。」

「逆に、食べてよいと書かれているのを見て、普通は食べてはいけないという禁止のメッセージを読み取ることはない。それも、そうだよね。」

「それも、そうです。」


探偵さんは折り曲げた紙を広げ直し、下半分に書いた [食べたら駄目] という言葉と、上半分に書かれた許可のメッセージを並べて、マーカーを手に取って紙をペシペシ叩きながら私に見せて来ました。


「許可と禁止のメッセージは共存することができない。だがこの紙の上では、その本来共存できないはずの2つのメッセージが並んでいるんだ。」


探偵さんはまたマーカーを机に置き、また紙を折り目で折り直して、今度は下半分に書かれた言葉だけが見えるように、私に見せて来ました。


「さっきは食べてよいって書いた方を見せて、その言葉からは許可のメッセージしか受け取れないって話をしたけど、同じようなことはこっちの言葉にも言えて、僕たちはこの言葉から禁止のメッセージしか受け取ることができない。食べたら駄目という言葉から、許可のメッセージを読み取ることはまずないということが言える。だけどこの2つのメッセージが並べて示されてしまうと、やっぱり途端に事情が大きく変わってくる。」

「共存できないはずのメッセージ同士が、共存してしまうってことですよね。」

「そう。そういうこと。じゃあ次のステップ。君はこれをどう解釈する?」

「両方のメッセージを実現することは不可能である以上、どちらかの言葉を優先するしかないと思います。」

「それはどちらかのメッセージを無視するということでもあるわけだ。」

「そうですね。」

「それで、君はどっちを優先するんだ。都合のいい方を選んでいいよ。」

「じゃあ、食べます。」

「どうぞどうぞ。」


私がプリンの入った壺の蓋を開けた時、探偵さんは2つの矛盾したメッセージ同士が同居している状態の紙を持って立ち上がり、事務机の方に持っていって、シュレッダーにかけてしまいました。


「何してるんですか。」


私はプリンを食べる手を止めて、探偵さんの方を向いて、手にスプーンを持ったままであることに気づきながら、そう突っ込むのを我慢できませんでした。


「何って、シュレッダーにかけただけだよ。」

「それは見たら分かります。なんで急にシュレッダーにかけたんですか。」

「あの紙に書かれた言葉たちを消すためだよ。共存し得ないメッセージが一緒に並んでいる気味の悪いプリントを、いち早くシュレッダーにかけたかったんだ。」

「そうですか。」

「でも、どうだろう。今の僕たちは許可のメッセージも、禁止のメッセージも、両方とも受け取っていない状態だ。どちらの言葉も消えてしまったから。」

「それは、そうですね。」

「許可されてもいないし、禁止されてもいない。そんな状態の中で、プリンを食べるのか、それとも食べないのかを決めなければいけない。食べるのだとすれば、それは実質的に存在しないはずの許可のメッセージを優先していることになる。」

「食べないのだとすれば、本当は存在していないはずの禁止のメッセージを優先していることになりますね。」

「そう。その通り。何のメッセージも存在していない状況下で僕たちが意思を決定するプロセスは、矛盾したメッセージが共存している状況下での意思決定のプロセスにとても似ているところがあるんだ。」

「確かに。そうですね。このプリンを食べようと食べまいと、好きにしたらいいってことになっちゃいますね。」

「僕はこれを [どうでもいい] の状態と呼んでいる。」

「どうでもいいの状態、ですか。」

「例えば誰かとレストランに行ったとして、その人がなんでもいいとか言い出したら、普通に困る。」

「それは、そうですね。何も選ぶつもりがないのと同じですもん。」

「その通り。そして例えば午前中にコメダに行くと、モーニングのパンに合わせるものを、小倉あんか、バターか、卵ペーストの3つから選ばなければいけない。3つ全部をもらうというのはお店のシステム的に不可能だ。これはさっきの紙に、相矛盾するメッセージを書き並べたときの状況に似ている。」


私はふと、なんで事務所の外に出られないはずの探偵さんがコメダ珈琲店のモーニング事情に詳しいんだろうという疑問を持ちましたが、目の前でピンと伸びている探偵さんの3本指とは関係が無いので、考えるのは後回しにすることにしました。


「つまり、どうでもいい状態は、矛盾したメッセージが共存した状態でもあり、何のメッセージも存在していない状態でもありえるということだ。」

「なるほどです。」

「じゃあここで問題。どうでもいい状態はしばしば困りごとの種になる。マルかバツか。」

「マルです。」

「正解はバツだ。どうでもいい状態が困りごとの種になるのではなくて、どうでもいい状態を打開する方法を知らないからこそトラブルが起きるんだ。じゃあ、次の問題。どうでもいい状態はしばしば困りごとの種になる。マルかバツか。」

「え、えっと、え、え?ば、バツですか?」

「正解はマル。どうでもいい状態はしばしば困りごとの種になる。じゃあ次の問題。」

「ちょっ、ちょっと待ってください。」

「何か不満でもあるのかい。」

「不満しか無いですよ。どっち選んでも不正解じゃないですか!というか解説が矛盾してますし!」

「別に矛盾はしていない。どうでもいい状態を打開する方法を知っていなければ、どうでもいい状態はトラブルの種になる。どうでもいい状態を打開する方法を知ってさえいれば、どうでもいい状態はトラブルの種にはならないどころか、とても役に立つものに見えてくる。立場の問題なんだよ。」

「・・・じゃあ、どうでもいい状態って、どう打開するんですか。」

「簡単だよ。アイデアを言葉にして出してしまえばいい。言葉を声に出すなり、書き出すなり、特定のアイデアを言葉に出してしまえばいいんだよ。」

「それだけですか。」

「それだけだ。どうでもいい状態というのは、言葉にするべき特定のアイデアを持っていない状態のことでもある。だから言葉を持たせてあげれば、その状態は解消されるんだ。」

「具体的には、例えばレストランのメニューを指さして、これがいいんじゃないかな、とか言ってみるってことですか。」

「そう。コメダの場合も同じ。3つの候補の中で、これがいいんじゃないかなって口出ししてみれば、どうでもいい状態は打開できる。アイデアは言葉にされることで、漠然とした無意識の世界に漂う、未だ言葉にされていないアイデアよりも優先的に認識されやすくなるんだ。」

「言葉にされていないアイデアよりも、言葉にされたアイデアの方が、存在感が大きいってことですよね。」

「その通り。そして文字や音声によって表現されたアイデアは、頭の中で言語化されているアイデアよりも存在感が大きい。口に出されたり紙に書かれたりした言葉には、頭の中で回っているだけの言葉よりも力があるってことだ。」


探偵さんはカツカツと革靴を鳴らして歩き始め、フローリングの上を4周もウロウログルグルと事務所の中を回った後で、突然立ち止まって両腕を開き、私の目をまっすぐ見てこう言ってきました。


「ここは僕たちの一般探偵事務所だ。」

「そうですね。見たら分かります。」

「見たら分かることを、見れば分かることとして頭の中だけで処理して、それでおしまいってことにしてしまうと、その情報が字や声になって表現されることはなくなる。頭の中の言葉を外界に出さないことは、出すべき言葉を持っていないことや、出すべき言葉を見つけられていないのと同じで、どうでもいい状態を作り出してしまう。」


探偵さんはまたカツカツと革靴を鳴らして歩き始め、またフローリングの上を4周もウロウログルグルと事務所の中を回った後で、また突然立ち止まって両腕を開き、また私の目をまっすぐ見てこう言ってきました。


「ここは砂漠だ。」

「違います。見たら分かります。」

「そう、ここは僕たちの探偵事務所だ。そんなことは言葉にしなくても見たら分かる。見たら分かるが、見なければ分からない。例えば盗聴器越しに僕たちの会話を聞いている何者かがいるとして、例えば僕が [ここは砂漠だ] と声に出してしまえば、彼らの頭には僕が砂漠にいるイメージが浮かぶだろうね。」


探偵さんはまたまたカツカツと革靴を鳴らして歩き始め、またまたフローリングの上を4周もウロウログルグルと事務所の中を回った後で、またまた突然立ち止まって両腕を開き、またまた私の目をまっすぐ見てこう言ってきました。


「ここは砂漠だ。」

「違います。ここは事務所です。」

「そう、そういう回答が大正解。盗聴器の向こうのスパイも大喜びだろうな。」

「え、本当にスパイがいるんですか。」

「さあ、どうだろうね。僕の知っている限りではいない。」


探偵さんがまたまたまたカツカツと革靴を鳴らして歩き始めようとしたところで、私はプリンを食べる手を止めて椅子から立ち上がり、がっしりと探偵さんの腕を両手で掴んで止め、その顔をまっすぐ睨んであまり研ぎ澄ましていない言葉の刃を当てました。


「気持ち悪いですよ。さっきから何がしたいんですか。ずっと事務所の中をウロウログルグルと。」

「名探偵はこうでもしないと運動不足になるんだ。」

「へー。名探偵って、人のプリンを盗むんですね。へー。」

「その話はもう賠償して終わったじゃないか。今だって、君は僕が買ってきたプリンを食べているわけだし。」

「それとこれとは話が別ですよ。妹さんに自分の罪をなすりつけるとか、探偵として以前に、お兄ちゃんとして、そして人としてよくないですよね。」

「たぶん、君はいろいろと勘違いをしている。」

「何が勘違いだって言うんですか。」

「厳密には勘違いだけじゃなくて、結論を急いでいるいつもの癖も出ている。」

「じゃあ、言ってみてくださいよ。誰が犯人なんですか?」

「・・・まず、君は僕がプリン泥棒であると信じきっているけど、花奈が犯人である線を捨てるに足る検証をしていないと思うんだ。」

「じゃあ、実際には花奈さんが犯人だって言いたいんですか?」

「違う。」

「やっぱり探偵さん自身が犯人なんですか?」

「それも違う。」

「じゃあ、誰が犯人だって言いたいんですか?」

「失われたプリンはきちんと取り返された。だからそれでこの話はおしまいにしよう、と言ってるだけだよ。事件なんて起きてなかった。事件はなんて起きないのが1番いいだろ。」

「それは、そうですけど、いやです。誰が犯人なのかはっきりさせないと気が済みません。」

「それなら僕が犯人ということでも構わない。プリン泥棒である僕は、盗んだプリンと同じものを即日で取り寄せて君に返した。それでおしまいでいいじゃないか。」

「なんですかその、実際には自分は犯人ではありません、みたいな言い方は。」

「だって僕は君のプリンを盗んだつもりは無い。」

「盗んだつもりがあろうとなかろうと、私のプリンを食べてしまったのは事実ですよね。え、ちょっと待ってください。探偵さんは盗んでないんですか?」

「僕がプリン窃盗事件の犯人ではないとして、その罪を敢えて被ることで真犯人のことを庇おうとしている可能性がある。兄として、君のプリンを盗んで食べてしまった妹の罪を背負い、その責任を精算したのが僕なのだったとしたら。」

「そ、それなら、まあ、探偵さんの言い分も分からなくはないですけど・・・。」

「ということを君に話してしまっている時点で、彼女が罪人である可能性を掘り起こしてしまっているのはおかしい。僕は花奈の罪を背負った意義を、たった今、自分の手で潰してしまっていることになる。と考えると、やっぱり僕への容疑は晴れないだろうね。」


ニヤニヤと笑う探偵さんに少しイラッとしているのを感じながら、私は目を閉じて、仮説的推論によって色々な仮定を前提として考えてみて、情報を整理してみることにしました。


探偵さんが犯人であると仮定したとき、彼は私の捜査の手伝いをするかのように装って実は捜査を攪乱して事実から遠ざけている・・・わけでもなく、私にたくさんのプリンを買ってきてくれるのは賠償のためとは言うものの素直に罪を認めているわけでもなく、妹さんに罪をなすりつけて自分は責任を負わないための立回りをしているつもりなのかどうなのかもよく分かりません。


花奈さんが犯人であると仮定する場合、探偵さんがお兄ちゃんとしての責任から花奈さんの罪を被ろうとしているという当人の主張に筋が通りますし、私があのプリン窃盗事件において展開した(もしくはさせられていた)当初の推理が的を射ていた事になりますが、探偵さんがこの可能性を口にすることで私の思考を真相から遠ざけようとしている可能性があります。


探偵さんも花奈さんも犯人である可能性や、2人のうちのどちらでもない可能性ももちろん想像はできるのですが、生憎その推論に説得力を持たせるための証拠を持ち合わせていませんので、もし真相がそのような形であったとした場合に私の力ではその真実に到達することは不可能です。


私のプリンを食べてしまった犯人が実は私で、私が食べてしまったことを忘れただけで、探偵さんも花奈さんもプリンの消滅に全く関係がない場合、本当に愚かなのは私だけということになります。


「・・・もう手遅れだよ。この事件は迷宮入りだ。」

「はあ、もういいですよ。決めました。初めから事件なんて起きてなかったんだよって言い聞かせることにします。」

「そうだね。それがいいと思う。」

「勘違いしないでください。ぜんぜん、納得してるわけじゃないですから。」


棘を含ませたつもりの言葉を探偵さんにぶつけたその時、私は視界の端の床の上にキラリと光る何かを見つけて、ろっ骨をしならせて拾い上げたそれは、銀色の縫い針でした。


「探偵さん、なんですかこれ。」

「ソーイング・ニードルみたいだね。恵子ちゃんの裁縫箱から落ちたんじゃないかな。」


私は探偵さんが優しく広げた手の平を、針を預かっておくよという無言のメッセージを読み取れたその手の平を、私はその曖昧で不確かな言葉なきメッセージを無視して、何度もちくちくちくちくちくちくと突っつきました。


探偵はつぷりと針で突っつかれた後に「アー」の音を出すので、私はそれが面白くてなかなか飽きず、私は何度探偵さんを突っついたのかという、書くべき数字を忘れました。


「話を最初まで戻そうか。どうして君がウェッジウッドを割ってしまったのか。」

「探偵さんが割るように仕向けたからです。」

「それはそうなんだけど、でも君だって、あの状況でカップから手を離して宙に放り出したら、器は割れてしまうってことくらい想像できたはずだよ。僕の記憶が正しければ、君はそのリスクに言及してすらいた。どうして手を離してしまったのか、改めて考えると不思議に思えてこないかい?」


確かにあの時、あの状況で、私がコーヒーカップの持ち手から指を離したら器が床に落ちて割れてしまうってことくらい、私は分かっていたはずです。


カップから手を離さなければならないとか、机やソーサーの上にカップを置いてはいけないとか、そもそもコーヒーを飲んではいけないとか、そういう探偵さんの命令に従う義理なんて全くなかったということも私には分かっていたはずです。


それなのにどうして、そんな命令には従いたくありませんって強引に、暴力的に、拒絶すればよかった指令に従ってしまっていたのでしょうか。


「もしも僕があの時あの状況で、君にカップをお皿の上に戻してもいいよと言っていたなら、恐らくあのカップは床の上に砕け散ることはなかった。」

「それは、そうかもです。」

「だがもしも君が僕の言葉を聞かなかったら。僕の言葉を聞いて、それに素直に従って宙にカップを放り出さなければ、カップが割れることはなかった。僕からの言葉に逆らって、普通にソーサーの上とか机の上とかに置いてからカップから手を離せば、もちろんカップが砕け散ることは無かった。あの状況で手を離せば、カップが落ちて割れて、取り返しのつかない事態が発生することくらいは、君には当然思いついたはずだ。それは避けるべき事であると当然君は思ったはずだし、君はその考え方を口に出してすらいた。なのに君はそのカップを宙に放り出してしまって、ウェッジウッドが粉々になるのを避けられなかった。どうしてだと思う?」

「どうして、なんですか。」

「答えは簡単だよ。君が、カップをソーサーの上に戻すとか、机の上に置くとか、取っ手を持ち続けるとか、そういった具体的な行動のアイデアを口にしなかったからだ。」

「・・・それを声に、言葉にして声に出していれば、私はカップを割らずに済んだってことですか。」

「そういうことだよ。さっきも話していたけれど、言葉にされていないアイデアよりも言葉にされたアイデアの方が、存在感が大きくなる。そして文字や音声によって表現されたアイデアは、頭の中でだけ言語化されているアイデアよりも存在感が大きくなる。口に出されたり紙に書かれたりした言葉には、頭の中で回っているだけの言葉よりも力があるってことだ。」

「私はカップを割らないための行動のイメージを、声に出さずに頭の中だけで回していたから、私のアイデアは探偵さんの [カップを割るための呪文] に塗りつぶされちゃって、それでまんまとカップが割れちゃった。そういうことですか。」

「呪文。面白い言葉だね。そうだなあ。口に出された言葉には等しく、人の心を縛り付けるある程度の呪力があるって考えていいと思う。それを実践して見せた結果起きたのが、さっきのコーヒーカップ事件だよ。あーあ。」

「あーあ。って、探偵さんが変なこと言うからじゃないですか。」


探偵さんは笑って、半分怒り心頭な私の気持ちを受け流し、事務机の方にカツカツと革靴をならして歩いて行って、引き出しから見覚えのあるリモコンを取り出しました。


のことに気付いた君に、見せたいものがあるんだ。」

「見せたいものって、なんですか?」

「僕たちが7月から今までずっと、解決のために取り組んできたあの事件の調査資料だよ。今の君ならたぶん、あの事件が実際にはどんな終わりを迎えたのか、分かると思うんだ。」


7月から私たちが取り組んできた事件、それはわざわざ明言されなくても何を指しているのかは薄々分かりますが、念のために私専用の本棚から日記帳を取り出して7月の辺りのページを開いて確認すると、やはり甲野家の事件に関する内容の日記が7月の中旬頃からつい最近の分のページにまで書き記されていました。


振り返ってみると不思議なことだらけで、未だによく分かってないことも多いですし、事件の本当の終わり方がどんな風だったかとか、全く心当たりがなくて想像すらできません。


どうして探偵さんが事務所の外に出ると、車が無限に降ってきて、探偵さんは事務所の中に閉じ込められて、外に出られないなんて呪いをかけられているのでしょう。


甲野家のお宅に車で急行させられた時だって、私は運転をした記憶が無かったですし、意識が覚醒したのはもう家に深々と車で突っ込んでしまった後で、何も分からないままで家のあちこちから聞こえた泣いている声も無視して自分の仕事に集中していましたし。


ジョイと初めて会話していた時だって、私は彼女の声を聴いている内に眠くなってきて、気を失って、それでその後ずーっと川の底で沈んでたみたいですし。


いくら呪文っていったって、言葉の持つ力と呼ばれているものがそういうものではないことくらい、私にだって分かります、分かりますよ馬鹿にしてるんですか。


「何をそんなに長く黙り込んで考え事をしているのかは分からないけど、恐らく、たぶん、君が疑問に思っているあれこれは事件の資料を読むだけで解決できるものがほとんどだと思うよ。」

「・・・それなら、今ここで教えてください。乙子さんは、どうなったんですか。見つかったんですか。見つかっていないまま事件の幕を引いたんですか。あの事件の本当の結末って、なんなんですか。今すぐ、私に教えてください。」

「それを僕の口から言う必要は無い。」

「なんでですか。」

「その質問にも答える必要性を感じない。」

「なんでですか。教えてください。どうして言えないんですか。」

「・・・君が知りたいことは恐らく、調査資料を読めば全て書かれている。僕がわざわざ今ここで、君に教える必要は無いし、僕の話を聞くくらいなら、資料に直接アクセスした方がいい。僕がぜーんぜん信用できない嘘つきであることは、君も痛いほど実感してくれているはずだ。」

「まあまあ。探偵さんは自己分析も上手なんですね。」

「お褒めにあずかり恐悦至極に存じます。じゃあ、資料を取ってくるから、そこで待ってて。」


探偵さんはボタンを押して、事務机エレベーターを稼働させて、その辺りの床ごとずずずずっと、ゆっくり下へと降りていきました。


 [僕がぜーんぜん信用できない嘘つきであることは、君も痛いほど実感してくれているはずだ。]


探偵さんは、信用できない嘘つきだ。

探偵さんは、信用できない嘘つきだ。

探偵さんは、信用できない嘘つきだ。

探偵さんは、信用できない嘘つきだ。

探偵さんは、信用できない嘘つきだ。

探偵さんは、信用できない嘘つきだ。

探偵さんは、信用できない嘘つきだ。

探偵さんは、信用できない嘘つきだ。


私の頭の中ではその言葉が何遍も何遍も私の声で繰り返されて、私は探偵さんを信用できなくなって、床に空いた真っ暗な穴の中に飛び込んで、奈落の底へと頭から真っ逆さまに落ちていくのでした。


地下は真っ暗でなにも見えず、風が吹き荒れて雨も激しく、私は今朝の天気予報が、降水確率8割と話していたのを思い出しました。


8階建てのビルくらいの高さがあったであろう地下室の中を落ち続けている間ずっと、私は嵐によってあっちに飛ばされたりこっちに飛ばされたりしていて、そのうちに床の穴はどんどん小さく遠くなっていって、今ではもうただ真っ暗闇で何も見えない世界が目の前に広がるばかりでした。


落ちているのかも浮いているのかも分からなくなった私に、雨のザーザー降る音が私の耳を通じてこれは夢の中の世界ではなく現実なんだと教えてくれているのに、私と同じ方向に同じ速さで落ちていく雨粒たちが止まって見えるせいで、どうしても私の目は夢や幻の世界を目撃しているのだとしか思えなくもなってしまうのでした。


真っ暗でどこまでも広くて何も見えない、形が無くて目に見えない恐怖そのものが世界になったみたいなこのスペースの中で、しかしなぜだか冷静な私の頭は、小さい頃に空から降ってくる雨粒の個々ぜーんぶに名前を付けようとしていたのを思い出していました。


赤い華が道路にはじけて、肥料が土壌に吸収されて、盆と正月は空中で合体して、大きな粒にまとまります。


それは雨粒が道路にはじけて、雨粒が土壌に吸収されて、雨粒と雨粒が空中で合体して、大きな雨粒にまとまるだけのことです。


ボーナスは私の懐に入ってくるし、ミケはトタン屋根に落ちて甘い鳴き声を響かせ、目薬は私に、空を見上げたことを後悔させてくれます。


カッパを着た私の胸に入ってくる雨粒もあれば、トタン屋根に落ちて猫の鳴き声みたいな甘い音をならす雨粒もあって、まるで目薬を点眼するかのように、私の目の中に入ってくる雨粒もあります。


ついに止まっていた雨粒たちが動き出すとき、私が地下室の底まで落ちきって、私の背中の下敷きになった雨粒たちのコロニーが、私の頭のてっぺんから足の先までをびっしょびしょに濡らしました。


水たまりの雨粒たちに付けた名前を思い出しているうちに、その水溜まりから飛び出してきた名前は、私の頭の中で言葉の洪水を起こして、私はただ流されてただ溺れてただ苦しむばかりです。


どこまでも広がる暗雲を見て、降り続ける水の粒の個々に名前を付けるなんて無理って思った私は、動機が速まって息が浅くなって、ポンッと頭の中がはじけるのを聞きました。


頭が情報処理能力の限界を迎えて、電源が切れる時に、私はその音を聞いて、頭の中から言葉が消えて真っ白になるのを感じました。


水たまりはただの「水たまり」にしか見えなくなって、水たまりを単に「水たまり」と簡潔に呼ぶことが、こんなに気分が良いだなんて、私は今まで知りませんでした。


人が雨粒の個々に名前を付けることを諦めて、全ての雨粒をまとめて単に雨粒と呼ぶことに決めたのにはこんな理由があるんだよね、なんて考えながら、私は自分の背中にヂャクヂャクと雨水が染み込んでいくのを感じていました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「由加、起きてください。」

「起きてはいるけど。誰?」

「ジョイです。」

「ああ、ジョイね。ここはどこ?」

「事務所の地下室です。」

「それは知ってる。」

「由加は地下室に落ちてしまったんです。」


私は体を起こして、その時に床に触れた両手にさらさらとした、でも湿っている物体を感じて、なんとなくここが砂漠であることが分かりました。


夜から朝早くにかけて、霧が立ち込めていて湿度の高い、そこに生きる命にとって欠かせない、潤った砂漠の中に私はいるのです。


朝が来て夜が来て、その寒暖差といったらもう夏と冬のようで、9回も夏が来て冬が来て、ついさっきまで私はずっと死んだように眠っていたそうです。


深い暗闇からぬるりと飛び出してきたライオンは、私の顔を頻りに覗き込むようにしてはしゃいで飛び回り、金色の光を放っているタテガミを私の皮膚にわさわさと垂れてきて、私の首や肩をざらざらとした舌で舐めてきました。


「由加、私の背中に乗ってください。」

「え、ジョイなの?」

「はい。藤井由加専属のアシスタントAI、ジョイです。」

「なんでライオン?」

「今の状況にピッタリだと思いまして。」

「え、そうなの?どういうこと?」

「私は姿を自由自在に変えられるんです。ご希望がありましたら、他の動物にも、世の中のあらゆる無機物にも、形のないものにも変身できますが。」

「ううん。ライオンでいいよ。」


私はそのライオンに跨がって、その背中にがっしりと掴まり、そのライオンになったジョイは私を乗せて、のそりのそりと進み始めました。


「ねえジョイ。」

「なんですか?」

「あんな高いところから落ちたのに、なんで私は生きてるの。」

「高いところから落ちたくらいで私は死にません。由加もそれと同じなだけです。」

「いやいやいやいや。」

「何が嫌なんですか?」

「あのね、別に何かが嫌なわけじゃないよ。普通の人間は高いところから落ちたら死んじゃうの。」


ジョイが進む先の空の、真っ黒く真っ暗な天井の、その端っこに、地上からの光が差し込む天窓があるのが見え始めました。


「恵子ちゃんたちが、あの穴から落ちちゃったら、どうしよう。」

「大丈夫ですよ。心配いりません。穴を覗き込むのはいいけど落ちないでねと、厳しくあの子たちに申し付けましたからね。」

「・・・それも呪文?」

「告げた相手にある程度の呪縛を施すという意味では、呪文と言えるかもしれません。それよりも、どうしますか?ここに落ちて来てしまった以上、地上に戻るにはエレベーターを使わないと無理です。」

「採光窓のあるあの場所まで、このスピードで行くと、あとどのくらいかかるの。」

「10日ほどです。」

「もっと早くできないの?」

「すみません。周りが暗すぎる上に障害物が多いので、今よりもスピードを上げると危険です。」

「障害物って、何があるの。」

「本や本棚です。ここは探偵さんが書庫として使っているスペースであると推測されます。過去に解決した事件についての捜査資料など、調査に必要な文献が保管されているようです。」


ライト代わりの黄金のタテガミが照らす前方をよくよく見ると、そこには何も無い真っ暗なばかりのスペースが広がっているのではなく、床に積み置かれた本の山が散見されますし、宙に浮いている本棚の角がちょうど顔に当たりそうな位置にたくさん存在しているのも見えます。


探偵さんは以前私が川に沈んでいた時にも、できる限りの手を尽くして私のことを探してくれていたみたいですから、きっと10日間も出口に辿り着けない今の私のことも、見つけ出そうとして必死に探してくれると信じている自分がいます。


「確かに探偵さんは信用できない嘘つきさんですけど、私は探偵さんがほんとうは優しい人だと知ってます。探偵さんは無責任に誰かを裏切ることはしませんし、助けを求めている私を絶対に見捨てたりはしません。」


私は誰に聞かせるわけでもなく、そして誰にも聞かれないように、誰にも聞こえないくらいの小声で、そのような言葉を声に出してみました。


すると私のその言葉に耳を傾けていたライオンは、その呪文を塗り替えようとするかのように、次のような言葉を高いレの音しか使っていないシンプルなメロディに乗せて、歌を歌い始めました。


「父さん、父さん、どこに向かってるの?そんなにも早足でどこに向かってるの?

父さん、教えてよ、ねえ、聞かせてよ!そんなに早足だと迷子になっちゃうよ!」

「それは何の歌なの?」

「お父さんに置いて行かれて、真っ暗な闇の中で迷子になる小さな男の子の詩です。」

「私は女の子だけど。」

「ジョイには性別がありませんから。それよりも、いい打開策を思いつきました。この真っ暗い空間に光をあらしめれば、もっと明るくなって、今すぐにでもエレベーターのある場所までたどり着けるようになります。」

「今すぐって、どのくらいかかるの?」

「言葉通り今すぐです。今すぐという言葉を口に出している内に到着できます。」

「じゃあ、お願い。」

「かしこまりました。イェヒ・オル。」

「はい?」


ピカっと急に眩しく当たりが白抜けて、天井も壁も床もどこまでも白くなり、終わりの見えない空間が急激に拡がったせいで空気が薄くなって、私はふらっと気を失いかけてライオンから落ちました。


私は耳を塞いでその場に丸く倒れましたが、生きとし生けるものの鼓膜を破壊せんと甲高く響き渡る、破壊的で攻撃的なサイレンのような、頭が痛くなるほどの耳鳴りは止んでくれませんでした。


血管を切断しかねない筋肉の収縮と、ドンという凄まじい爆発の音と、何事もないかのように無秩序に不規則に静かに宙のあちこちに浮いている本棚と、その中をこちらに向かって前進してくる戦車と。


戦車のキャタピラは私の両脚を潰してから止まり、かぱっと開いた操縦席への入り口からひょこっと、見慣れた探偵さんの姿が出て来た頃には、私の頭は耳鳴りの痛みを忘れていました。


「やっと見つけた!どうしてここにいるんだ!」


探偵さんは怒った様子で私を問い詰め始めるのですが、どう答えればいいのかよく分からないですし、重力を無視した本棚とかどこに保管してたのか分からない戦車とか意味不明ですし、脳細胞が痛覚に使い潰されてしまっているせいで思考するための精神エネルギーのリソースを思考に回すことすらもできていませんでした。


「詳しい事なら後でするから、大至急で戦車に乗ってくれ。」


私は言われるがままに戦車に乗り込んで、頭の中でグルグルしている様々なハテナマークに首を傾げさせられながら、段階的に疑問を紐解いていくために、とりあえず探偵さんを質問攻めにする切実な決意を固めました。


「この戦車はどうしたんですか?」

「ごめん、咄嗟に戦車だって言ってしまったけど、厳密にはこれは戦車ではない。」

「変なところで嘘つかないでください。これが戦車じゃないなら、いったい何だっていうんですか?」

「戦車ではない何かだよ。」

「どう見ても戦車なのにですか?」

「限りなく戦車に近いが戦車ではない何かとでも言うべきか。」

「はい?どういうことですか?」

「この世界には数えきれない種類の戦車が存在してるでしょ。その中に戦車らしくない戦車が存在しても悪くないでしょ。逆に戦車みたいな自家用車が存在しても悪くはないでしょ。この車は武器と呼べるものを何も搭載していないんだから。この砲門はただのデザインで、使用を想定していないんだ。戦うための装備を捨てた戦車は、もはや戦車と呼ばれない。」

「それは、そうですけど・・・。」

「さあ、そんなことより。今はここから脱出することが最優先事項だ。」


[戦車ではないもの]として繰り返し呼ぶのもまどろっこしいので、私はそれのことを単に戦車と呼ぶことにしますが、戦車は急激にスピードを上げて、私の身体は狭い操縦席の壁に強く叩き押しつけられました。


コックピットに設置されていた小さなテレビでは、知らないチーム同士が戦っているサッカーの試合が放送されていて、もうすぐ試合終了であるにも関わらずどちらにもまだ得点できていなくて、退場している選手はいないということを教えてくれました。


「あの、探偵さん、怒ってますか?」

「怒ってるけど。恐らくこの事態は君のせいではないだろうとは考えている。」

「えっと、ごめんなさい。この事態ってなんですか?」

「この書庫は今、燃えている。何もかも燃えて灰になって消え始めているところだ。」

「え、それじゃあここに保管されてた調査資料って、全部消失しちゃうってことですか?」

「そういうこと。僕が担当した今までの事件の記録はぜーんぶ失われる。」

「・・・乙子さんの事件の記録も、ですか?」

「もちろん。君はもう、あの事件が迎えた本当の結末を、永久に確認できなくなった。」


探偵さんは戦車の速度をますます上げて、スピードが増して行くにつれて表情が険しく、額に皺が寄っていく横顔をみながら私は、事の重大さをじわじわと飲み込み始めていくのでした。


「でもまあ、いいんじゃないか。終わった事件のことを振り返っても、あまりいいことはない。」

「探偵さんは、そう思えるんですか。探偵なのに。」

「おや、探偵なのに、とはどういう意味なのか気になるな。」

「だって探偵って、起きてしまった事件の真相を解くのが仕事ですよね。」

「昔の探偵とか、フィクションの中の探偵の話に限られるけどね。現実の私立探偵には、そんなミステリ小説のような華々しい活躍の場を与えてくれる仕事なんて舞い込んでは来ない。」

「もしもそんな仕事が来たら、探偵さんは喉から手が出るほど受けてみたいんですか。」

「そうでもないよ。」

「びしっとカッコよく謎解きをする探偵の姿に、憧れを持ったりしないんですか。」

「過去を変えられない事実として捉えて、その事実がどんなものであるかを解き明かすために時間を費やすのが探偵の仕事なのだとしたら、探偵なんてなんの役にも立たないじゃないか。」

「え、そうでしょうか。」

「人を殺した犯人が分かりました。あなたです。正解。お見事な推理。探偵の頭脳には叶わないなあ。で?そこからどうするんだ。犯人が分かったところで殺された人間は生き返らない。事件が発生する以前の日常をそっくりそのまま取り戻すことはできない。」

「それは、そうです。」

「どのような手法を採ったにせよ、推理によって到達した真相を暴露して、終わり。基本的なフィクションの探偵像は、そんなものだろう。探偵役はその後、何をしてくれるというのか。何もしないんだよ。何の役にも立たない上に、無責任なんだ。」

「・・・じゃあ探偵さんは探偵っていう仕事を、何の役にも立たないものだって思ってるんですか。」

「そうだよ。謎を解くだけの探偵は何の役にも立たない。何の役にも立たない無駄な物事に時間と頭脳を消費することって基本的にきっと楽しいだろうけどね。確かに楽しいに決まってる。でも僕らがするべきことはそこじゃない。そういう仕事はもう警察に任せるべきだと思ってる。じゃあ、僕らにしかできないことってなんだろうねっていうのを、ちょっと考えてみてよ。あ、今から壁を登るからしっかり掴まってて。」


戦車はますますスピードを上げて、私は背中を押しつけさせられている部分が穴抜けて戦車の外に放り出されてしまうんじゃないかとか、この重力や圧力のせいで全身の骨が粉々に折れてしまうじゃないかといった恐怖を想像していましたが、その心配は杞憂に終わりました。


無事に地上に戻って来れた私の肩を、探偵さんは手袋を外してポンポンと優しく叩いて、それからまた手袋をはめ直し、両脚でまっすぐ立っていた私をソファーに座らせました。


「コーヒーが冷めてしまったね。淹れ直そうか?」


探偵さんにそう聞かれて、私は言葉無く頷いてその質問に答えて、それを承った探偵さんはキッチンの方へ向かう途中に振り返って、私にこんな質問を尋ねてきました。


「ところで、ピカドンって言われて、なんのことか分かる?・・・まあ、別に知らないなら知らないでも。その呼び方を知っているかどうか自体は重要じゃない。調べればすぐ分かることだからね。」


探偵さんは羽織っていたトレンチコートのポケットから例のエレベーターのリモコンを取り出して、そのボタンをポチッと押してからキッチンに向かいましたが、探偵さんがコーヒーを持って戻ってきた後になっても、私たちがそのコーヒーを飲み終わる頃になってもいつまでも床と事務机は上がってきませんでした。


「さっきの爆発でぜんぶ燃えちゃったんだろうね。いやあ、何はともあれ、君が無事でよかった。床や机なんて、また直せばいいし買い換えればいい。気にすることは無いよ。」


探偵さんは陽気に笑いながらそう言いますが、私の脳はとっくの昔にキャパオーバーではじけていて、言葉を返すことはおろか何かを考えることすらもできないような、気絶してるのと同じ状態になっていました。

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