探偵さんの未練・和枝ちゃんの未練
「あの、花奈さんはミユキさんって誰なのか知ってますか?」
暖房がよく効いていて暖かい喫茶ヨムの店内にて、いつものように、届いたばかりのソーダフロートを飲んでいる花奈さんに尋ねたら、花奈さんはストローを口に咥えながらむせました。
「大丈夫ですか。」
「うん、大丈夫だけど。ねえ由加ちゃん、その名前、どこで聞いたの。」
「えっと、探偵さんが寝言で呟いてました。」
由加さんは、いかにもあちゃーという感じで、右手の手首をおでこに当てて、ふかーい溜め息をつきました。
「あんまり話したい気分にならないし、由加ちゃんも聞かない方がいい話だと思う、けど、気になるよね、由加ちゃんのことだから。」
「それは、そうです。私、気になります。」
「どこかで聞いたことあるセリフだね、それ。うーん、どう話そうかなあ。」
「まず、ミユキさんって誰なんですか?」
「お兄ちゃんが大学生だった時に好きだった女の子。美しい雪で、ミユキちゃん。」
「探偵さん、大学行ってたんですか。」
「そりゃあ、まあ。今は事務所から出られない感じになってるけど、昔はそんなこともなかったし。」
「いつ頃から探偵さんは呪われてるんですか?」
「ごめんね、それはあんまり覚えてない。」
「そうですか。」
花奈さんは私の顔をじっと見つめて、それからストローに口をつけて、ソーダフロートを飲み干してから、思い出したように言いました。
「初めて由加ちゃんを見た時、かわいい子だなあ、お兄ちゃんが好きになるのも分かるかもって、思ってたんだけど、いま改めて由加ちゃんを見てると、そういえば美雪ちゃんにそっくりなんだよね。写鏡なんじゃないかってくらい。ちょっと鳥肌が立ってるもん、今。」
鳥肌が立っているのはこの11月下旬にソーダフロートなんて飲んでいるからでは、と言おうとして、でも私の開いた口の奥から代わりに出てきたのは、緑色の目の怪物の呻きでした。
「それじゃあ、探偵さんが私をパートナーにしてくれたのは、私が美雪さんに似てるから。ってことですか。」
考えてみれば、私のことが好きとか愛しているだとか、そういう探偵さんの言葉を私は聞いたことがありません、もし探偵さんがそんな言葉を発したとしたらそれはそれで解釈違いなんですけど。
でも探偵さんが私にそういった言葉を手向けてくれないのは、もしかしたら探偵さんの傍にいる私ではなく私を通じて見えている美雪さんと、探偵さんの助手である私が違っているから。
「もしそうだったら、お兄ちゃんはむかーし好きだった女の子に未練たらたらってことになるね。」
「違うんですか?」
「違うって言ったらそれは嘘だけど、違わないって言ってもそれは嘘になっちゃうかな。だって人の気持ちなんて、理解しようとしたって無駄だもん。少なくとも、お兄ちゃんが寝言で美雪ちゃんの名前を呼んだのが本当なら、お兄ちゃんは美雪ちゃんのことを少なからず未練に思ってるってこと。でも同じくらい、お兄ちゃんは由加のことを由加ちゃんとして、好きだと思うよ。」
「なんでそう思うんですか?」
「私はお兄ちゃんの妹だから。」
「根拠になってないです。」
「私は由加ちゃんのこと好きだから、お兄ちゃんも由加ちゃんのこと好きに決まってるもん。」
「余計に意味不明ですけど。」
「人の心なんて、始めから意味不明じゃん。」
「それはそうですけど、因果関係が繋がってないです。」
「私は怒ってるんだよ、由加ちゃん。」
ソーダフロートを飲み干した花奈さんは、ネガティブな感情を一切思い起こさせない表情、つまり朗らかで穏やかで友好的なニコニコ笑顔でそう言って、更に続けました。
「って言ったら、私が怒ってると思うのは普通でしょ。」
「それは、そうですね。」
「でも私は怒ってないの。怒ってないけど、怒ってるんだぞって宣言できちゃう。そうすると、無数にある私の気持ち中で、怒ってる私の心だけが相手に伝わっちゃう。それに、別に怒ってるつもりがなくても、怒ってるんだぞって言ってみちゃうと、怒ってることになっちゃう。」
「特に理由がなくっても、笑ってみたら気分が上を向くようなものですか。」
「そう、かな。まあ、自分の気持ちを自分の好きなように決めちゃっていいのは当たり前だけど、実は他の人の気持ちだって言ったもの勝ち、思ったもの勝ちなんだよ、ってこと。」
言い終えると花奈さんは唐突に控えめな音を立てて机を叩き、それから眉をしかめて怒ったような表情をして、更に声をぐーんと低くして、さっき同じ言葉とその続きを言いました。
「私は怒ってるよ。私は怒ってるんだよ、由加ちゃん。1週間も音沙汰がないなんて。無事でよかったけど、私も、お兄ちゃんも、みんな心配してたんだから。どれだけ心配してたか。由加ちゃんには分からないでしょ。」
「・・・今のも、別に怒ってないんですか。」
「怒ってないよ。どう、説得力ないでしょ。」
「ええ、まあ、すっごい怒っていることが伝わってきました。」
「本当に、別に怒ってないよ。」
「説得力ないですよ。」
「うん、でも、怒ってるだけじゃないというか、むしろ怒り以外の感情に心を支配されているというか。由加ちゃんとこういう話をしてること自体が楽しいし、こうして一緒にお茶できてることが嬉しいし。他にもね、私はもっともっとたくさん、言葉にしていったらキリが無い、数え切れないほどの心を持ってるのを知ってる。」
すっかり顔なじみになった店員さんが来て、花奈さんのソーダフロートのグラスを下げていき、私たちは2人してありがとうございますと彼女の背中に伝えて、それから花奈さんが続きを話し始めました。
「心が迷子になりそうな人には、私から私なりの言葉を届けて、元気で明るくて前向きな気持ちの1つに日の目を当ててあげるの。心が迷子になっちゃった人には、陰気で暗くて苦しくて辛い気持ちを1つ1つ、寄り添いながら一緒に拾い上げていくの。」
「・・・そういえば、花奈さんって、何の仕事をしてるんですか?たしか以前に、バイトしているとは聞いた気がするんですけど。」
「言ってなかったっけ。コンビニで働いてるよ。」
「え、コンビニなんですか、カウンセラーとかじゃなくて。」
「私がカウンセラーに向いてると思う?」
「えっと、思わないです。あいや、今はちょっと向きすぎてるんじゃないかなって見直してるところなんですけど、でも、コンビニで働いてて、そう人の悩みとかを聞くこととかあるんですか?」
「んまあ、無くはないけど、お客さんの少ない時間に来る常連さんくらいかな。あ、道に迷っちゃった人に行き方を教えることは結構あるかな。まあ、さっきのは仕事とは関係なく、どんな風になりたいかっていう、私の目標なだけだけどね。」
「そうなんですか。」
「とにかく、お兄ちゃんが花奈ちゃんのことをどう思ってるのかなんて、どうだっていいんだよ。由加ちゃんがお兄ちゃんにとって何者でありたいのか、何者でありたくないのか、それが重要なんだよ。その気持ちを言葉にすれば、きっと、それはちゃんと聞いてもらえるし、うまくいけばお兄ちゃんの心を操れちゃうかもしれない。人の気持ちなんて、言葉にしたもの勝ちだし、思い込んだものの勝ちなんだから。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これからバイトがある花奈さんとはお別れして、1人帰路についた私は、通りすがった公園で和枝ちゃんがまた、アリの行列を眺めてしゃがんでいる所を見つけました。
[人は特に理由なく嘘を付くこともできる。]
[人の気持ちなんて、言葉にしたもの勝ち、思い込んだものの勝ちなんだから。]
私はしばらく何も言わないで和枝ちゃんのすぐ傍に座って、一緒にアリを眺めながら、この子たちは右往左往しているように見えて、実は見えないレールの上を進んでいるだけであることに思いを馳せました。
「和枝ちゃん、アリの行列をじっとみてるの、おもしろいね。」
「あ、うん、おもしろい」
「私、アリさんたちが並んで歩いてるところを眺めるの、好きだよ。」
「うん、私も、好き」
この前と言っていることが違うじゃん、という文句が飛び出しそうになった口をつぐんで、これが花奈さんの話術の威力なのだと自分に言い聞かせた上で、次の言葉を探しました。
「アリさんって、夜はどうやってならぶのかな まっくらで、まっくろじゃ、まえの子が見えないのに」
「ホタルさんがピカピカ光って、こっちだよ、って教えてくれるのかも。」
「でも、アリさんは目が見えないってきいたよ」
「じゃあ、テントウ虫さんが来て、その羽をブブブブって鳴らして、こっちだよって教えてくれるのかも。」
「でも、アリさんには耳もきこえないってきいたよ」
「・・・それなら、ちょっと調べてみよっか。」
「うん」
私は買いたてのスマホを取り出して、国営放送の教育映像アーカイブにアクセスし、2分弱程度の長さの、アリの行列ができる仕組みを解説した動画を流しました。
( https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005400443_00000 )
アリが行列を作ります。この行列はどのようにしてできるのでしょうか。
アリがエサをみつけました。アリは、巣への帰り道のところどころで、おしりを地面に擦りつけます。においをつけているのです。エサのありかをにおいで他の仲間に伝えるためです。
このアリに、思いどおりの行列を作らせてみましょう。アリの体から出るにおいと同じ成分の液体を用意します。この透明な液体で紙に線を書きます。
アリを渡らせる橋にも、液体をぬります。橋をセットすると、アリたちがすぐに渡り始めました。アリが歩いている所は、液体を塗った所です。アリは、においを使って、仲間にエサへの道筋を教えているのです。
「アリさんは、においを頼りに行列をつくるんだよ。」
「におい」
「そう、におい。」
和枝ちゃんは自分の鼻を両手で触って、私の方をにっこり振り向いて、「アリさんはお鼻でならぶんだね」と、私に嬉しそうに話してくれました。
「本当は知ってたんでしょ。アリさんが行列を作る仕組みのこと。」
「うん」
「図鑑とかで読んだの?」
「うん」
じゃあどうして和枝ちゃんは知っているのに分からないフリをして、アリさんが行列を作る仕組みの解明に私を突き合わせたのかな、という質問を投げかけるのはグッと我慢して、私は嘘をつくことにしました。
「・・・私も、よくひとりぼっちの時に虫さんを観察するんだよね。今のね、アリの行列みたいにね、寂しくなったときに虫さんを観察するの。」
「うん 虫さんを見てると、さみしいとか、わすれちゃうから 虫すき」
和枝ちゃんはまっすぐ迷いのない視線を私に向けたまま、必死に言葉を探しながら、詰まりながら止まりながら、胸の内を打ち明けてくれました。
「お父さんも、お母さんも、いっつも民子おねえちゃんのことばっかり。恵子おねえちゃんも、べんきょうとか、どくしょとかばっかり。いえの中でも、わたし、いっつもひとりぼっち。だから、わたし、外がすき。外でいろんなものを見てたら、さみしいきもちなんて、分からなくなっちゃうから、すき。」
私はそんな和枝ちゃんを、ぎゅっと抱きしめないではいられませんでしたし、和枝ちゃんの寂しさに気づいてあげられなかった今までの自分や乙子さんたちのことが、たまらなく切なく思えて来ました。
「教えてくれてありがとう。ずっと寂しかったよね。ごめんね。」
「ううん。わたしも、ごめんなさい。わたしも。えっと。ありがとう。」
嘘から始まったはずの涙が頬を伝って落ちていくうちに、いつしか美しくカットされた証明書付きの宝石のような、大量に持ってる心の中の嘘のないひとつの気持ちだけが、滲み出して流れる涙に変わったのが私には分かりました。
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