第4章 焦げついた未練事件

4つの主題を解くイントロダクション

既に探偵さんは調査資料が豪快に流れ落ちている滝壺の中に飲み込まれていて、まるで水しぶきのような埃や塵のせいで空気が白く淀んで煙たく、夕陽の差し込んでいる事務所のあちこちから私の耳を叩きにくる書類の山が崩落する音を聞き流しながら、そんな混沌とした状況でも感じ取れる程に強いコーヒーの匂いに気づきました。


「どうしてこんなことになってるんですか?私がいない数時間の間に。」

「見ての通り、今までの調査資料を全部引っ張り出してみてたんだ。」

「なんのためにですか?」

「恵子ちゃんのためだよ。親の仕事について調べる課題があったはず。」

「でもこんなにいっぱい出さなくても。面白かった事件とか覚えてないんですか?」

「生憎ね。探偵の仕事って地味なんだよ。人探し。物探し。この前みたいに人が死ぬ事件なんて取り扱ったことがない。ましてや殺人事件なんて。今時、普通に警察が担当するべきだよ。まあ、殺人なんて凡人のすることだし、僕の出る幕なんてないけどね。」

「はいはい。それで、こんなに資料を引っ張り出してどうするんですか。ぜんぶ学校に持っていくなんて言いませんよね。」

「それはいいアイデアだね。」

「小学生じゃないんですから。」

「小学生だよ。」

「恵子ちゃんは馬鹿な男子小学生じゃないです。」

「子どもっぽい無秩序な思い付きを馬鹿馬鹿と言うのはよくないよ。」

「その状態で言われても説得力ないです。」

「全くだね。引っ張り出してほしい。」

「はいはい。」

「ありがとう。」

「それで、こんなにたくさんの資料、どうするんですか?」

「うーん。とりあえずは地下に戻そうと思う。」

「地下があったんですか!?」

「お金が余ると、人はロマンに無駄遣いをするからね。」

「地下室ってロマンなんですか?」

「僕は小学生の頃に地下室が欲しいって親にねだったことがある。僕に限らず、そういう男子は少なくないはずだよ。」

「え、作ってもらえるんですか?」

「ぜんぜん。普通に必要ないから。」

「それは、そうです。」


探偵さんが床に散らばった調査資料を踏み付けながら事務机まで歩いて近寄り、周辺の書類を机の上に載せたり近くに積んだりと集めて、そして引き出しから取り出された謎のボタンを押して机や床ごとエレベーター仕掛けで沈んでいく様子を、見つめていた私の背中で入り口のドアが開きました。


「あっ、恵子ちゃんお帰りなさい。」

「ただいまです、けど、どうしたんですか?何があったんですか?」

「今までの調査資料を整理してたら、こうなったんだって。」

「そうなんですか。片付けないとですね。」

「そうだね。あっ、部屋の奥の方、今、床が抜けてるから気を付けてね。」

「あ、本当ですね。・・・ここで何があったんですか?」


どこから説明したらいいのかなと考えているところに、探偵さんと事務机と床が戻ってきて、探偵さんは机の上に部屋中に散り散りになっている調査書類たちを集めて机の上に積んでいき、ある程度溜まったらまた降りていくのでした。


「・・・何ですか、あれは。」

「分かんない。」

「そうですか。」


私たちは次に探偵さんが戻る前に床が抜けている場所の近くに書類を運んで山を積み直す作業を終え、恵子ちゃんは調査資料の谷を歩きながらリコーダーでメリーさんの羊の練習をし始め、その明るくて楽しそうな音色の持ち主が咳き込むのを、私はこの雲たい部屋の中で見下ろしていました。


「・・・けほっ、けほっ。あの、窓、開けませんか?」

「そうだね、換気しよっか。」


私が入り口の扉を開けている間に恵子ちゃんは窓を開けてくれていて、半時間ほど扉と窓を開け放ち続けて茜色に染まっていた埃の煙が追い出されていくと、比較的に新鮮ながら都市の淀みと11月の冷える空気が入ってきたので、私たちは半ば慌てて窓と扉を閉めてエアコンを付けました。


「暖かくなるまで時間がかかるから、少し待っててね。」

「はい、大丈夫です。」


私たちの沈黙の中に戻ってきた探偵さんは、ありがとうと私たちに伝わる声で言い、書類の山をエレベーターの中に乗せて、ボタンを押してまた地下へと降りていきました。


「あの、由加さん、あの人って何者なんですか?」

「それは私にもよく分かんない。」

「まず、探偵ではあるんですよね。」

「そうだね。探偵さんだね。」

「探偵っていうのは、依頼人さんの相談事を解決することが仕事なんですよね。」

「そうだね。」

「あの人が仕事してるところ、見たことないんですけど。」

「それは、そう。」


私たちの一般探偵事務所はお客さんが滅多に来ませんし、探偵さんは建物の外に出ることができませんし、もうカフェとして開業し直すべきなのではと常連のご婦人から言われてしまう始末ですし、いろいろと思い出していたら部屋の中のコーヒーの香りも相まって飲みたくなってきちゃいましたし。


「恵子ちゃんは、探偵さんの条件って何だと思う?」

「依頼人さんからの相談事を解決することです。」

「それは、そうなんだけどね。じゃあ、事件を解決できなかったら探偵失格ってこと?」

「事件を解決しようとしてさえいれば、探偵だと思います。」

「例えばプリンを盗んだ犯人を探し当てようとする人は探偵ってこと?」

「そうですね。」

「じゃあ、プリンを盗んだ犯人を探し当てようとする探偵さんがプリンを盗んだ犯人だとしたら、その人は探偵なのかな?その場合、探偵役の人が推理を展開すればするほど、探偵さん自身が犯人っていう事実から遠ざかっていっちゃうかも。」

「探偵役の人が犯人なら、その人に探偵の資格は無いと思います。推理をするふりをして真実から遠ざかろうとするなら、それは事件を解決しようとしていないことになりますから。」

「じゃあ、犯人さんが自分から名乗り出て事件を解決させちゃったら、それはその犯人さんに探偵の資格があるってことになっちゃうの?」


恵子ちゃんは目をカッと開いて私を数秒見つめた後に頭を抱え、応接スペースの床に敷かれた絨毯の上で丸くうずくまってしまったところに探偵さんが戻ってきて、私たちに改めて感謝を伝えてから、私の方を睨んで咎めるようなトーンで言いました。


「全部聞こえてたよ。ソクラテスの真似は嫌われるからやめたほうがいい。」


自分の大人げなさに恥じ入る私を余所に、探偵さんは調査資料を1冊だけ恵子ちゃんに渡し、分厚くて重たいそれは小学5年生の女の子の手から滑り落ちて足を圧し潰し、その痛みに耐えかねて彼女は泣きだしてしまいました。


「・・・女の子を泣かせるなんて最低ですね。」

「申し訳ないとは思うけど、事故じゃないか。君も見てたとおり、事故じゃないか。でもとりあえずすまない。そんなに重いとは思わなかった。」

「小学生の子どもを成人済みの大人と同等なものとして考えるのも大人げ無いんじゃないですか?」

「だから、悪かったって。ごめんなさい。」


恵子ちゃんは唇をぎゅっと噛んで泣くのを我慢しながらソファーに座り、その隣に腰掛けた私は凶器となった調査資料を拾って、探偵さんが申し訳なさそうに肩をすくめて謝りながら後ろ向き歩きでキッチンへ向かう様子を見つめているうちに、私は30分以上も換気をしたはずなのに尚も室内に充満しているコーヒーの匂いに気がつきました。


先日の甲野家事件に関わる書類が綴じられたファイルだと分かると私はその本を閉じて、事務机の上に運んで置き直し、その後は恵子ちゃんと言葉を交わすことなく、探偵さんのコーヒーが来るまで沈黙の中で待っていました。


やがて探偵さんがコーヒー2杯とココア1杯を持って戻ってくると、私は換気をしたにも関わらずコーヒーの匂いが部屋に残り続けていることを伝え、協力してそれまで私たちが踏んでいた絨毯を取り払うと、ふんだんに撒かれていた黒褐色の粉の一部が宙に舞い上がりました。


「砕いたコーヒーをマットの下に敷いておいたんだ。」

「なぜそんなことを?」

「大抵の喫茶店では注文を受けてから豆を挽くよね。コーヒーの粉は空気と接する表面積が増えているから香り成分が揮発しやすい。時間が立つとコーヒーの味が悪くなる理由の1つなんだよ。」

「それで、どうして絨毯の下に?」

「コーヒーには消臭効果がある。おまけに、おいしいコーヒーの香りがすれば、人はそれを飲みたくなる。カフェを開店するのであれば、参考になるかと思って実験していたんだ。」


探偵さんは笑いながら、私にコーヒーが飲みたくなったかどうかを聞いてきて、私は何だか癪だったので、何も答えずに運ばれてきたコップをすすりました。

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