演繹的推理入門演習ⅠA

今日は朝から曇っていて、ダイニングには鈍い陽の光が1筋差し込んでいるなか、探偵さんはテレビのリモコンを手にとって、ポチポチとチャンネルを変えていきます。


探偵さんは天気予報を探しているのですが、画面に映るのは占いコーナーばかりで、私はその間に沸騰したてのお湯を少し注いだマグを揺すって、器を温めるまでの工程を終えてしまいました。


最近買ったばかりのそのマグカップには、前脚も後脚もすーんと真っ直ぐに伸ばしたシェパードの立ち姿が描かれていて、とっても頼もしそうで威厳のある様子がかわいいので、すっかり私のお気に入りになっています。


私はトワイニングのブリキ缶からティーバッグを取り出して、お湯を張ったシェパードのマグカップに浸して茶葉を蒸らして待っている間に、私は自分のスマホを取り出してニュースアプリを開いて、今日の天気はずっと曇りの予報であることを探偵さんに伝えました。


「ごめんなさい!最下位は牡羊座のあなた。なんだか気分がどんより沈んだ日になっちゃうかも。ラッキーアイテムは紅茶。身近な人の力を借りると運気アップ!」


私はペパーミント・ティーの穏やかで爽やかな香りによって気分を和らげつつ、探偵さんに頼んで特に罪のないアナウンサーの顔を画面から消してもらった直後、テレビの上にある壁掛け時計が目に入ったことで見たいドラマの開始時刻になっていると気づいたので、慌てて探偵さんの手からリモコンを奪い取ってテレビをつけ直して国営放送のチャンネルに合わせました。


戦前から戦後の世界を生き抜いたとある作曲家のを描いている、私が半年間追いかけ続けてきたそのドラマは、ついに今月の末頃に最終回を迎えてしまうということで、ほんのりと寂しさを感じているところです。


「・・・まだ調子が悪いのか。」

「えっ、と。なんでそう思ったんですか?」

「だって、様子がおかしい。占いを信じるなんて君らしくないじゃないか。」

「別に信じてませんけど。」

「おや、そこで反駁をくらうとは思ってなかった。まあいいよ。まず、君も牡羊座だったよね。」

「まあはい、そうです。2日です。それがどうかしたんですか?」

「今日のラッキーアイテムは紅茶。そして君はちょうど紅茶を飲んでいた。」

「占いの結果を見たから紅茶を飲んでる訳じゃありません。順序が逆です。私が占いの結果を信じていたと言える証拠にはなりません。」

「でも占いの理論に従えば、君の運勢は上向くことになる。」

「それは、そうです。占いの理論に従えば。」

「偶然にもラッキーアイテムを飲んでいた君は、さらなる運気アップを図ろうとした。」

「してません。」

「僕を使ってテレビを消させたのは、僕の力を借りるためだった。」

「違います。占いの結果にちょっとムカついただけです。私は都合よく占いを信じちゃうような人たちとは違いますから。」

「都合のいい情報ばかりって、無意識のうちに受け入れてしまうものだよ。君に限った話じゃない。僕にだってそういう側面はある。君が僕の助手であり、同時にただの人間でもあるように、僕は常に名探偵らしくあろうとしている訳じゃない。それに、演繹や推理を意味する deduction という言葉には、差し引くという意味もある。あえて誤った憶測を論理的に展開して、念のためにそれを検証して、確実に可能性を潰すというのも、演繹的推理においてはとても役に立つテクニックだ。」

「えっと、ちょっと待ってくださいね。ちょっと整理させてください。つまり探偵さんは、わざと結論を急いだ誤った推理をして、私の様子がおかしいかどうかの検証をしていたってことですか?」

「そう受け取ってもらっても構わないよ。」

「なんですかその言い方。」

「根拠として弱い仮説を材料として、僕が君を心配するに至った思考のレシピを説明しただけに過ぎない。こんなものは推理じゃない。自分が同じ状況に置かれたら、こう考えるだろうという妄想に過ぎない。なーんの意味もない。結論を急げばどんな風にでも答えをひねり出すことができるだろうけど、それでは解決のコンセンサスを得られない。前にも言ったと思うけど、探偵にとって最も重要な資質は、謎を謎のままとして対峙し、見つめ続けていられる忍耐強さなんだよ。」

「はい。」


私は半分くらい探偵さんの言葉を聞いていて、残り半分の集中力はテレビに注いでいたのですが、あぶはち取らずで結局どちらからも何を言われているのかよく分からないままに、気が付いたら壁掛け時計の長い針が3を指していました。


ドラマの次の番組が始まったので私はテレビを切り、静かにペパーミント・ティーを啜って、探偵さんの方に向き直り、訊いてみました。


「それで、検証した結果はどうだったんですか?私、やっぱりおかしいですか?」

「おかしい。」

「どう、おかしいっていうんですか。」

「僕たちは、都合のいい情報ばかりを受け入れてしまうようにできている。逆に、人は無意識のうちに都合の悪い情報を拒絶してしまっている、ということでもある。今の君のように。」


探偵さんは、私たちが乙子さんたちを火葬したあの日以降、私が乙子さんの名を口にしていないという事実や、私が甲野家事件の調査資料を読んでいないし読もうともしていないことを指摘しました。


確かに事務所のお片付けの時に探偵さんから渡されたファイルを開いてみて、甲野家事件の調査資料だと分かるやいなやそれを閉じてしまったことは、あの事件についてあれこれと掘り返すことを、無意識的に拒絶していた証拠なのかもしれません。


「別に、僕ももうあの事件は終わりにしてもいいと考えているし、過ぎたことは過ぎたこととして割り切るのも悪くないと思う。事件を終わりにしたいからと結論を急いでいるとか、事件から逃げている君は卑怯者だとか、そう咎めることはしないよ。そんなことよりも、僕たちにはもっと喫緊の問題がある。」

「もっと喫緊の問題、ですか。」

「うん。民子ちゃんが、家出未遂をした。」

「えっ。」

「昨日の夜の遅く、日付が変わるくらいだったかな、彼女が入口のドアへ向かっていくのを見たんだ。でも、呼びかけても応答しなかったし、捕まえて抱き上げても全く抵抗しなかった。眠りながら家出をしてしまいそうな状況だったんだよ。」

「それって、夢遊病ですか?」

「恐らくその通り。それと、民子ちゃん本人にはまだこのことを伝えていない。」


私は4本脚をピンと伸ばして屹立しているシェパードを見つめて、おおーきく息を吸って、ゆっくーりと吐いて、それから根拠のない思い付きを口に出してみました。


「やっぱり、子どもたちはお母さんたちに会いたいんでしょうか。」

「・・・もちろん、その可能性もありうる。ありうるけども・・・?」

「謎を謎のままとして対峙する。そうでした。結論を急いじゃだめなんでしたね。」

「まずは問題を正しく捉えよう。民子ちゃんの家出未遂について、現時点で確実に事実と言えることは?」

「民子ちゃんが家出未遂を図ったことです。」

「そうそう、その調子だよ。そして、その当時、恐らく彼女は夢遊病の症状が出ていた。」

「あの子が本当に夢遊病だったとしたら、病院に連れて行った方がいいんでしょうか?」

「まあ、連れて行くに越したことはないでしょ。精神科に行って、お薬をもらって、それをきちんと飲んだら症状が治まって、医療の力を借りて一件落着。そういうシナリオもいいと思うよ。」

「他に解決への筋道があるんですか?」

「さっき僕が提案したシナリオでは、なぜ無意識の民子ちゃんは家出をしようとしたのかという謎に触れることなく事件を解決してしまうよ。それでいいの?」


 [あえて誤った憶測を論理的に展開して、念のためにそれを検証して、確実に可能性を潰すというのも、演繹的推理においてはとても役に立つテクニックだ。]


「根拠のない、ただの思い付きですけど、私はやっぱり、民子ちゃんが家出しようとしたのは、親に会いたい気持ちが溢れてしまったことが原因だと思います。」

「じゃあ、それを検証する方法を考えないとだ。さて、僕もたまには紅茶を淹れるとしようかな。」


探偵さんは席を立ってキッチンへとまっすぐ入っていき、水を入れたヤカンをコンロで火にかけると、お湯が沸くまでの暇な時間を持て余すことになったので、冷蔵庫にメモを貼り付けているマグネットをポチポチと付けたり外したりして遊び始めました。


なんてことないダイニングの中で、ゆったりと平和な時間が流れているのを感じながら、私はふと、探偵さんも牡羊座であることを思い出しました。

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