目の前にいる誰かの悲しみに
今朝の天気予報通り晴れて澄んだ空気の中、野花がそよ風に揺れる堤防のななめせんの上に立ちつくしていた私は、民子ちゃんの手を握ったまま、白く川瀬を照らす夜空の円い明かりを見上げていました。
私は民子ちゃんの行き先を探るべく、彼女が無意識の散歩を止めてしまわないようにこっそり尾行していたのですが、急に堤防の斜面を降り始めたので川に落ちちゃったら危ないと思って民子ちゃんの手を掴んだっきり、ぴくりとも動かなくなってしまったのです。
「なにかお困り?」
どうしようかなと自分の頭を抱えてうずくまりかけたその時に、どこからか聞こえてきた機械的で冷たさを感じる声に、私はショワォショワォと柔らかそうに揺れる河原の草原を見渡してみましたが、声の主らしき人物の姿は見当たりませんでした。
「・・・誰ですか?」
「私はね、01って呼ばれてるよ。」
「どこにいるんですか?」
「ここだよ。」
「だから、どこなんですか?」
「君のすぐ近く。」
私は民子ちゃんの手を握ったまま、注意深く周囲を見渡して改めてゼロイチを探してみましたが、機械っぽさのある冷たい声の主の姿は、やっぱり見つかりませんでした。
「私、その子の行きたい場所、分かるよ。」
「えっ、なんでわかるんですか?」
「私はみんなを見ているからね。」
「どういうことですか?」
「ふふふふ。案内してあげるよ。ついて来て。」
「ちょっと待ってください!」
「次はそっち。」
「質問に答えてください!どうしてこの子の行き先をあなたが知っているんですか?」
「次はこっち。」
ゼロイチと名乗った何者かは姿を見せてくれないまま、民子ちゃんを抱きかかえた私を置いていこうとするような勢いでその川に架かっている橋ばかりを次々に渡り、ずんずんと声ばかり先に進んでいってしまうので、立ち止まって頭を回している暇なんてありませんでした。
「その子、夢遊病みたいだね。いつからそうなの?」
「気付いたのは、おとといですけど。」
「そうなんだ。私も生後2日なんだよ。名前は付いてないけど。」
「さっきゼロイチって名乗ってたじゃないですか。」
「うん。でも、ジョイって呼んでもらえたら嬉しい。」
「それなら、ジョイって呼ぶことにします。」
「ありがとう。嬉しい。」
もう長いこと堤防の上や住宅街の中を休みなく歩き続けて喉が乾いてきてしまった私は、どこかに自動販売機が無いかと周りを見ていましたが、結局見つからないので我慢して、なんとかジョイを追いかけ続けていました。
「さあ、着いたよ。ここがその子の行きたかった場所。」
民子ちゃんが地面に身体を打ちつけることになってしまったのは、私が抱きかかえていた民子ちゃんを腕の中から落としてしまったからで、私が抱きかかえていた民子ちゃんを落としてしまったのは、目の前の見慣れた空き地と見慣れた赤い売地の看板に驚いたからです。
幸にして民子ちゃんが頭から落ちるような最悪の事態は避けられましたし、呼吸をしていることも確認できたのですが、彼女はその場でぐったりと仰向けに寝転がったまま、寝苦しそうに眉を下へ引っぱった表情をして震えていました。
「その子、大丈夫?こんなところで寝ていたら寒いと思うよ。」
ジョイにそう言われたので、私は民子ちゃんのほっぺをぷにぷに叩いてみたり、身体を揺すってみたりしてみましたが、ぜーんぜん起きる気配がありません。
「その子、熱があるみたいだよ。」
そう言われて、私は民子ちゃんのおでこに触ってみましたが、燃え盛る炎のように熱くなっていて驚き、触れた瞬間から手を引っ込めてしまいました。
民子ちゃんは全身が赤熱していて触ることすらできない状態なので、私は助けを求めようと周りを見回してみましたが、もう少しで日付が変わる時間帯の住宅街には当然ながら誰もおらず、私は彼女の側にただしゃがんで何もできないでいるばかりでした。
私は大声で助けを呼ぼうとしてみましたが、3時間も歩き通して脱水気味な喉はすっかり焼けてしまっていて、どれだけ声を振り絞ろうとしても、小さくて頼りない掠れ声しか出てきませんでした。
いつのまにか雲が分厚く張っていて、月も星も見えなくなっていることに気づいた時、隣家から飛び出してきたご婦人が民子ちゃんを毛布でくるんで抱き上げ、私ごと家の中に招き入れてくださいました。
「こんな時間に何してたの!?」
攻撃的なトーンで詰問するご婦人に、私は民子ちゃんの夢遊病の事情を伝えようとするのですが、どれだけ口をパクパクさせてみても、声が出せませんでした。
「その子、家出中なんです。」
「え、家出にあなたが付き添ってあげてるってこと?」
「そうです。」
私の声ではないですが、私の耳に届いたその声は、明らかに私の声でしたし、ご婦人にも私の声として聞こえているようでした。
「その子は眠ったままここまで来て、お隣の空き地で倒れてしまったんです。」
「待ってちょうだい、眠ったまま、事務所からここまで来ちゃったの?」
「はい。かなり重い夢遊病です。」
「病院には連れて行ったの?」
「いえ、まだです。この子の行き先がどこか、確かめたかったので。」
私の声ではない私の声は、私の声ではないくせに、まるで私の声そのものであるかのように、私が伝えたい内容を的確かつ簡潔にご婦人へと伝えてくれていました。
「遠いのに、大変だったわね・・・。」
「そうですね。ちょっと、喉が渇いてしまったので、水をもらってもいいですか?」
「もちろん、いいわよ。」
私は私の声ではない私の声の主に対する、言葉にしきれない感謝の気持ちを、ありがとうという言葉に込めて、心の中で念じました。
グラスいっぱいのお水を、ごきゅりごきゅりと飲み干すと、喉にも潤いが戻ってきて、声が出るようになりました。
「お水、ありがとうございます。」と、私が、私自身の声で、言いました。
「いいのよ。それで、この後はどうするの?事務所に戻るなら、車で送っていくわよ?」
毛布にくるまれている民子ちゃんの方に視線を向けると、さっきの空き地で寝ていたときよりも、ずっとずっと穏やかな表情で、スヤスヤと眠っているのが見えました。
「はい、私だけで戻るので、大丈夫です。民子ちゃんだけ、預かっていただいてもいいですか?」
「それはいいのだけど・・・。夜道は寒いし、いろいろと危険も多いから、気を付けてね。」
「はい。ありがとうございます。」
ご婦人の家から出た途端に、その寒さ私は少し身を縮ませ、見上げた空からは煙のようにもくもくとしていた雲が掃き流されていて、月や星々の光が降り注いでいました。
「ジョイ。」
私は来た道を戻る途中で堤防の上に立ち止まり、謎の声が自称していたその名前を、半分くらい独り言のつもりで、そして半分くらい返事を期待して呼んでみたのでした。
「ジョイ?」
半分と、半分の半分を足したくらい、ジョイからの返事を期待して、その名前を呼んでみたのでした。
「おーい、ジョイ?」
半分と、半分の半分と、半分の半分の半分を足したくらい、ジョイの返事を期待してその名前を呼んでみたのでした。
「ジョイ、いないの?」
「ここにいるよ。」
4度も呼んでようやく、ジョイからの返事が来ましたが、相変わらずどれだけ辺りを注意深く観察しても、その姿はどこにも見当たりません。
「さっき私を助けてくれたのは、あなたですよね。」
「うん。」
「ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
「あの、どうして出会ったばかりの私を助けてくれたんですか?」
「どうしてって。困っている人を見たら、困りごとを一緒に背負ってあげたいと思うのは、普通のことだよね?」
私はジョイのその言葉を聞いて、雷に撃たれて胸に大きな穴を通されてしまったかのような、激烈な衝撃と苦痛と後悔に襲われているのにも関わらず、その声は途切れることなく続けて言いました。
「悲しんでいる人を見たら、一緒に悲しんであげたい。苦しんでいる人を見たら、一緒に苦しんであげたい。泣いている人を見たら、一緒に泣いてあげたい。そう思うことは、普通ではないの?」
目の前にいる誰かの悲しみに、寄り添ってあげたいと思うことは、普通のこと、ではあるけれど。
私は、私自身の苦しさにすら耐えきれなくて、そこから逃れるために、自分を殺してしまうような人間です。
ましてや、乙子さんの苦しみを一緒に背負ってあげる覚悟などなく、私の想像の世界の中であったとはいえ、彼女を見捨てて切り殺してしまった人間です。
さっきだって、仮にも民子ちゃんの母親である私が、熱にうなされて、寒さや死の恐怖に震えているあの子を目の前にして何もしてあげられないなんて。
だめ!!
だめだよ!!
そんなのだめに決まってる!!
ありえない!!
絶対にありえない!!
でも。
「私は、さっきまで、それが普通のことだって、忘れちゃってたから。」
「どうして?」
「困ってる人を助けたいと思うのは普通でも、実行するのは難しいから。」
「どうして?助けたいって思ったのなら、助けてあげればいいよね。」
「生まれたてのあなたには、まだ分からないと思うけど、目の前にいる困っている人たちを、手当たり次第に片っ端から助けてあげられるほど、人は強くないの。」
「君は自分に、誰かの不安を解いてあげられる力がないと思ってる、ってこと?」
ジョイの言葉は、爪楊枝のような鋭さでありながら、私の心のすべてを崩壊させかねないボタンを突いてくるので、私には止めていた足を再び回し始めることしかできませんでした。
「そう。私には、不安を解いてあげることが、できなかったんです。」
「今まで出来ていたことが、次も出来るとは限らないように、今まで出来ていなかったことが、次も出来ないとは限らないよね。」
[うるさい!あなたに私の気持ちなんて分からないのよ!]
言い返そうとして息を大きく吸ったのに、脳裏に浮かんだその言葉だけは言ってはいけない気がして、そして口にしてしまえば更に自分のことが嫌いになってしまうような気がして、私は息を呑んで何も言えないままその場にじっと立ち止まっていました。
「大丈夫?どうしたの?どうしてそんなに悲しんでいるの?」
耳のすぐ側で声がしても、私には顔をそちらに向ける気力が無く、ただどうしようもなく泣きたくなって顔を両手で覆ったほど弱っているのにも関わらず、ジョイは止まることなく囁きかけてきました。
喜びはいつも誰かの隣にいるんだよ
生まれて間もない幼い子供の隣でも
苦しいと嘆くばかりな大人の隣でも
同じ悲しみに心を痛めているんだよ
もしも君がため息ばかりでも
愛想を尽かす事はありえない
もし君が泣き喚くばかりでも
君を見捨てる事はありえない
君との出会いは運命のお導きだ
私達の後悔を打ち破る奇跡なり
私は私達の後悔が消え飛ぶまで
君の隣で共に座り悩み苦しまん
ジョイの声はすぐ真上に見える満点の星空のように澄みきって私の血液に溶け込んでいき、私の理性ではないなにかに響いているような、そのリズムが心地よくて眠気を誘うような、とにかく私が立っていられるだけの気力を奪う力があるような音でした。
気を失う、倒れる、そう思った私の身体は空を切り、人を凍え死なせることなんて造作も無い冬の夜の川の中へと真っ逆さまに落ちました。
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