その翌日の月曜日

「どこに行ってたんだ!?ずっと探したんだぞ!」


私が事務所のドアを潜った途端、扉のすぐ向こうに立っていた探偵さんは怖い顔をしていて、その大きな両手でがっしりと私の両肩を掴み、私に強い声で言い放ちました。


「どこに居たんだ!?急にいなくなってどれだけ心配したか!!」

「あの!落ち着いてください!大丈夫ですから!無事ですから!」

「それは見たら分かる!1週間もどこに居たのかを聞いてるんだ!」

「・・・はい?」


私のスマホは水没して壊れていたので、私は探偵さんの両腕を払い退けて事務所の奥まで進み、事務机の上に置かれていた夕刊を手に取って一面右上の日付を確認した時、その新聞は私の手から滑り落ちていきました。


「本当に1週間も経ってる!?」


眠ったまま家出する民子ちゃんを尾行していた1週間前の日曜日の夜、いろいろあって到着した甲野宅の火災跡地にて高熱を出した彼女を、タイミングよく駆けつけてくれたご婦人に預かってもらった帰り道の途中で気を失って川に落ちて、陸に上がって家に帰ってきただけなのに。


「それで、1週間もどこに居たんだ?」

「えっと、川の底に、沈んでいました、ん、で、しょうか。」

「なんで自信なさげなんだ。君自身の居場所を君が知らないことはないだろ。」

「だって、1週間も川の底に沈んでたとしたら、私死んじゃってるじゃないですか。」


探偵さんはしばらく、人の嘘を疑うような厳しい目で私の全身を観察した後、事務机の引き出しから1組の手袋を取り出して、私に投げ渡してきました。


「なんですか、これ。」

「特注の手袋だよ。僕がしているものと同じ。」

「はあ、ありがとうございます。」

「念の為にね。現時刻を以て君にこの手袋の着用を義務付ける。現時刻を以て僕の許可なく手袋を脱ぐ事を禁ず。」

「・・・分かりました。」


その手袋はまるで初めから私の皮膚そのものであったかのように馴染み、手袋をしていることすら忘れてしまいそうな着け心地でした。


「さあ、君が帰ってきたお祝いに、久しぶりにコーヒーでも淹れようか。」


探偵さんの険しい態度は急に和らいで、いつもの優しい探偵さんの声色が戻ってきたおかげで、緊張が解れた私は体をソファーの上にだらんと投げ出し、怠惰な声量で探偵さんへの質問を投げました。


「そういえば民子ちゃんはあの後どうなったんですか?」


寝言のような私の声は、キッチンから聞こえる戸棚をパタンパタンと開けたり閉めたりする音や、ガサゴソと何やら探しているような物音に押し負けてしまったようで、探偵さんからの返事が返って来ませんでした。


私はソファーから起き上がってキッチンに行き、まだ戸棚を開け閉めして何かを探している様子の探偵さんの脇に立ち、ついでにいつものコーヒーが特別においしい秘密を見抜いてしまおうと、観察の意識を呼び起こして目をカッと見開きました。


「珍しいな。君もキッチンに入ってくるなんて。」

「たぶん、探偵さんがコーヒーを淹れるところを見るのは初めてだと思います。」

「別に見学するのは構わないけど、特に面白いことはしてないよ。」

「コーヒーが美味しくなるかどうかが大事ですから。出来上がるまでの過程が面白いかどうかなんてどうでもいいです。」

「やっぱり、急に思想強くなるよね。君らしくて安心するけども。うーんと、どこやったっけ。」

「あの、それで、民子ちゃんはどこにいるんですか?」

「え、ああ、民子ちゃんなら今は家にはいないよ。お、あった。」

「え!?それってどういうことですか!?民子ちゃんはど――」

ガガガ、ガガガ、ガガガ、ガガガ!


コーヒーの豆を粉に挽いてくれる機械って、日の当たる場所で気持ちよさそうに寝ていた猫ちゃんたちを叩き起こして飛び散らせるような、天まで届く子どもたちの歌声や幾筋もの雷が空気を切り裂く音のような、人の注意を否応なく攫っていく音を立てるんですよね。


あ、コーヒーミルは手動で粉を挽く道具のことだから違うなとは思っていたんですけど、ようやく電動の粉挽機の名前を思い出しましたよ、グラインダーです。


グラインダーのよく響く音のせいで私の言葉は遮られてしまったので、機械が沈黙した後に、私はまた同じ質問を、これで4度目になる同様な質問をしなければなりませんでした。


「あの、民子ちゃんは今、どこにいるんですか?」

「曜日感覚を失ってるみたいだね。今日は月曜日。子どもたちは普通に学校に行ってるよ。」

「あ、たし、かに。そうですね。」

「急に落ち着くね。」

「安否が分かっているのなら、騒ぐ必要ないですから。」

「安否不明の君のために僕たちがどれだけ焦ったか。」

「すみませんでした。」

「謝ることはない。僕は君が帰ってきてくれて嬉しいんだ。これは嘘のない本当の言葉だよ。」


探偵さんはフィルターに粉を入れ、氷をいっぱいに入れた2杯のグラスの口に被せて、沸騰したてのお湯が入ったヤカンをそれぞれの器へ傾け、私の方を全く見ないままにドリップをし始めました。


「ちょっ、ちょぉっと待ってください!何してるんですか!?」

「なんだい急にまた。」

「もう冬なのに。なんでもう寒いのにトールグラスのアイスコーヒーなんですか。」

「ホットの方がよかったのか。」

「まあ、はい。川の底で沈んでた訳ですし、身体が冷えてるので。」

「暖房を付けよう。」

「あ、それは、ありがとうございます。それで、なんでアイスなんですか?」

「お言葉ですが、あなたの身体が冷えているのは、服がびしょ濡れだからだと思います。その格好でここまで歩いて帰って来たのも驚きだけど、風邪をひいてしまいそうだっていう心配の方が強い。早く着替えて来たらどうだい。」


厚手で熱にも強いアイスコーヒー用の容器には、湯気を立てているアツアツのお湯が注がれていき、氷は溶かされて次々に浮き上がって熱水を冷やし、結露したグラスの中は八分目ほどまでコーヒーで満たされていきます。


「というか!!何してるんですか!?」

「びっくりした。もうなんなのさ。急になんなのさ。」

「なんで沸騰したばかりのお湯でコーヒーを淹れ始めちゃったんですか!?温度が高すぎるお湯でドリップしちゃったら、雑味も一緒にいっぱい抽出されちゃうじゃないですか!沸騰してから1分ちょっと放置して、94度くらいまで冷まさないとだめですよ!」


探偵さんは不敵に笑い、ドリップを終えて置いたヤカンから手を離し、ようやく私の方を向いて、にっこりと笑って言い返して来ました。


「これが僕の淹れ方なんだ。」

「そ、そうなんですか。」

「お湯が熱ければ熱いほど蒸らしの時間は短く済む。それに、この方法じゃないと僕好みの風味が出ないんだ。」

「信じられません。美味しくなかったらだめじゃないですか。」

「美味しいかどうかは、飲んでみないと分からない。さあ、早く着替えなよ。」


探偵さんは川のつめたーい水でぐしょぐしょに濡れている私の背中を押して、私をキッチンから追い出し、私の声はキッチンから聞こえる片付けの物音に対抗して、歌を歌い始めました。


「先の聖なる木曜の事よ♪

 朗らかな表情の子供達♪

 2列にならんだ赤青緑♪

 先頭を歩く白髪の人は♪

 雪色の杖握る牧師さま♪」

「それは何の歌だ。僕に教えてくれ。」


私が着替えている間に私の声がそう口ずさんでいると、探偵さんがキッチンから割かし大きな声で、半ば荒げている様にも感じられる声で、私に尋ねてきました。


「えっと、知らないです。たぶん、何かの詩だと思います。」

「そっか。まあ、単なる詩なのなら別に構わない。今の質問は忘れてくれ。」


私が着替のお洋服として選んだのは、マグカップと同じシェパードが左胸にポイント刺繍されたウール100%のセーターに着替えたのですが、実は私は汗を吸わないし重くて動きにくいこの服が苦手でなので、できるだけ着ないように避けていたのですが、今はそれよりも暖かさとずっしりとした安心感が欲しかったのでした。


私が白地にシェパードのいるセーターへ着替え終わって応接スペースに戻ると、探偵さんもちょうどお盆の上にコースター2枚とストロー2本、そしてアイスコーヒーの入ったグラス2杯も載せて、机まで運んできてくれているところでした。


「さあ、飲んでみてよ。」


私は恐る恐るストローをさし、恐る恐る恐る吸ってみて、案の定コーヒーのエグみが強くなっていたので、顔をしかめて言い放ちました。


「嘘つきましたね!!こんなの全然いつもの探偵さんのコーヒーじゃ無いです!なんか、もう、テムズ川の水みたいな味がします!」

「飲んだことあるのか。」

「無いですよ!無いですけど!あるわけ無いじゃないですか!ですけど!それくらい不味かったってことです!」


探偵さんは自分のストローから、世界屈指の汚なさを誇る川の水のような色に見えなくもないその液体を何でもないように吸い上げて、とてもおいしそうな表情で、雑味だらけなはずのコーヒーを幸せそうに味わっていました。


「飲んでみるかい?」


探偵さんは自分のストローの口を私に向けて、グラスごと私に差し出してきたので、私は恐る恐る恐る恐るながら、チューっと1口だけ飲んでみました。


「えっ、おいしい。いつもの、探偵さんのコーヒー、です・・・!なんで!?」

「ふふふふ。なんでだと思う?」

「分からないから聞いてるんですよ。」


ガチャリと事務所の扉が開いて、恵子ちゃんと、民子ちゃんと、和枝ちゃんが学校から帰ってきました。


「あっ!由加さん、お帰りなさい!!どこに行ってたんですか?」


最初にドアを潜ったのは恵子ちゃんで、彼女は私の足元まで駆け寄ってきて、嬉しくてしっぽを振っている子犬を幻を見たような気がした私は、思わず恵子ちゃんの頭を撫でていました。


どういう答えを返せば、この子に余計な不安をかけずに済むかなあという問題に対して、いいアイデアが浮かばず静かなパニックに陥ってしまった私の頭の中で、私の声が響きました。


子供たちは美しい花束♪

輝く笑顔の似合う花々♪

子羊たちの歌声が響き♪

喜び高まり両腕上げる♪


「恵子ちゃんバンザイしてっ!」

「えっ!?」

「ハイターッチ!いえーい!」

「い、いえーい?」

「民子ちゃんも!」

「あっ、えっ?はっ、はい!いぇーい?」


両腕を上げた恵子ちゃんの両手に、イエーイ!と掛け声を付けたハイタッチをして、民子ちゃんとも、同様にテンション高くハイタッチ。


キッチンの方に入って行きそうだった和枝ちゃんを抱き上げて、あとの2人が口を開けてその場でポカンと呆けている場所に戻って、私は3人一緒にまとめてギュッと抱きしめました。


「ただいま、会いたかったよ。」


ちょっと泣きそうになっている自分に気付きながら、私は子どもたちを抱きしめる腕の力を少し緩め、すると子どもたちの方から私にギュッと抱きついてくれる力が強くなるのを感じて、私は幸せな気持ちが顔からにじみ出てくるのを止められませんでした。。


子どもたちにはその後で探偵さんから、急な出張で家をしばらく空けていただけなんだよという趣旨の説明をしてもらって、若干事を濁したような空気になっているのを感じながらも、私の失踪騒動はひとまず終息しました。


お客さんなんて来ない探偵事務所の応接スペースは、もはや私たち家族にとってのリビングのような空間になっていて、子どもたち3人はそこで宿題をしたり、一緒にテレビを見たりしています。


私たちはダイニングの椅子に座って、余計な雑味のまったくない、探偵さんの美味しいアイスコーヒーを味わっていながら、子どもたちの様子を眺めていました。


沸騰したばかりのお湯でドリップするなんて、喫茶店じゃまずやらないことだし、ここまで苦味や酸味を豊かに引き出した味わいを十全に楽しむのなら、確かにホットではなくてアイスの方が向いているのかもです。


「それにしても、強引なごまかし方だったね。」

「強引で悪かったですね。」

「ううん、からかってる訳でも責めてる訳でもない。いい判断だったと思う。母親が急に『1週間ほど川に沈んでたんだよ。』だなんて言い出したら、誰だって精神の病を心配する。」

「ですよね。えっと、私も1週間川に沈んでたとは思ってないですけど。」

「君がそう思うなら、僕はどこを探させたら君を見つけることができたのか教えて欲しいね。」


私たちの会話とは何の関係もなしに、恵子ちゃんが突然に何かを思い出したように立ち上がって、ランドセルから何か紙を1枚取り出して、私たちの居る食卓の方へ歩いて来ました。


「恵子ちゃんどうしたの?」

「今日、もらったんです。このプリント。」

「えっと、何のプリント?」

「学年通信です。」


恵子ちゃんから手渡された紙を私は手袋を着用した両手で受け取り、私が恵子ちゃんたちの母親代理になってから初めての連絡プリントであることを思うと、急に母親になることの実感と責任がのしかかってくるような気がしましたが、さほど重圧に感じることもありませんでした。


学年通信の始まりは学年主任の先生のご挨拶で、もう11月半ばで少しすると冬休みとクリスマスと年末と年始はすぐに来てしまうこと、次の学年への準備期間にあたる1月と2月と3月がやってくること、恵子ちゃんたちは進級すると最高学年になることが言及されていました。


「そっかあ。恵子ちゃん、来年は6年生だもんね。」

「たぶんそこじゃないです。」

「えっ、どこどこ?」

「下のほうです。」


 保護者の方へ

 12月の中旬に授業参観を実施します。お子さんの頑張りを見にぜひいらしてください。詳細な日程は後日、別紙にてお知らせします。


「・・・授業参観、見に来て欲しいの?」

「いえ、お時間があればで大丈夫です」

「それなら大丈夫だ。僕たちには仕事がない代わりに、時間がいっぱいある。」

「あなたは黙っててください!」


私は探偵さんを攻撃的に鋭く睨んで、バンッと強く机を叩いて、その衝撃で倒れそうになったグラスを掴んで支え、それから恵子ちゃんを安心させるべく言いました。


「もちろん、恵子ちゃんの頑張り、見に行くよ。」

「・・・そうですか」

「うん。私たちは忙しくない訳じゃないし、全然、仕事が無くて暇ってわけじゃいけど、それでも時間はたっぷりあるから。」


探偵さんが小さくフッと吹き出して、私はその探偵さんを再び厳しく睨んで、彼が申し訳なさそうに肩をすくめるのを視界の端に捉えながら、私は恵子ちゃんと指切りげんまんをしました。

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