やわらかいいのち

[きっと、あなたに私の気持ちなんて分からない。]


あの日に言われたあの言葉が、私の頭の中で響き続けています。


[由加ちゃん、誰かの気持ちを理解しようとしてもあんまり意味なんてないよ。]


分かってます。でも、そうしないと、事件は解決しないのです。


さて本日、私をお茶にご招待してくださったご婦人は、私の第一印象とは異なり、もの静かなお方です。私がご婦人とテーブルを挟んで向かい合っている間は一言も、一単語すらも口にしないままお茶会がおしまいになっても不思議はありません。この日曜日の朝早くに訪問してきた招待客の前では、ご婦人は一度たりとも口を開かないのかと思ったくらいです。ご婦人が席を立って、キッチンの方へ向かって行きました。


「え?」


私はダイニングに1人、取り残されました。


この日の天気は曇り。空は硬く冷たい雲に覆われていました。フランス窓を通じて外から差し込む温かみのない明るさが逆に、この部屋に薄暗さを与えているような気がしました。電気が付いているので暗くはないのですが、なんというか、本来あるべき賑やかさや明るさが、この空間から損なわれてしまったような印象です。


私たちがご婦人の家から元気な子どもたちを引き奪い取って、今日で2週間ほど経ちます。ご婦人は昨日の夕方頃に一般探偵事務所にいらして、恵子ちゃんたちとご交流なさって、探偵さんの淹れたコーヒーをお飲みになって、その帰り際に私を翌日のお茶会へとご招待してくださったのです。


戻ってきたご婦人がトレーに乗せていたのは、雪のように白い陶器製のカップに注がれたエスプレッソ・ラテでした。カップは小指くらいの大きさです。喫茶店でよく見かける豆菓子の入った袋が乗せられた小皿も、コトンとかわいらしい音を立ててテーブルの上に置かれました。


「カップもお皿も、小さくてかわいいですね。」

「そうでしょ?バリスタマシンを買ったついでに、一緒に揃えてみたの。」

「マシンも買ったんですか。」

「家でコーヒーが飲みたくなった時にと思ったの。でも、結局あんまり使ってないわ。」

「どうしてですか?」

「探偵さんが淹れるコーヒーの方がおいしいからよ。」

「そ、そうなんですか。」

「ところで、幾らか質問してもいいかしら。」

「もちろんです。」

「あのおもちゃの包丁の送り主って、結局のところ誰だったの?」

「厳密には、おもちゃの包丁とチラシですね。」

「あっ、そういえばチラシも一緒に入ってたわね。それで、送り主は誰なの?」

「あのチラシは、10年前の性犯罪被害者向け講習会のお知らせでした。その裏面には、[これで死んでください。]と書かれていましたよね。その手紙に添えられていたのが、あの包丁です。」

「それは、そうね。」

「そして甲野宅のポストは投函口が細く、包丁を入れることができませんでした。なので受取口から入れるしかないのですが、これには鍵が掛かっており、家族にしか開けられませんでした。」

「それなら、包丁とチラシの送り主は家族の中の誰か、ってことになるわね。」

「はい。結論から言いますと、手紙とチラシの差出人は恵子ちゃんのお母さんでした。」

「えっ。待って。乙子さんだったの?」

「はい。送り先は幸雄さんです。」

「えっ。ちょっと待ってちょうだい。」

「まず、幸雄さんと乙子さんは夫婦ではありません。父親と娘の関係です。」

「待ってちょうだい。それ本当なの?」

「はい。住民票にもそのように登録されています。」


私はご婦人に調査資料を見せました。この衝撃的な事実に、ご婦人は吐き気を催したように見えます。


「本当に・・・そうなのね・・・。だいぶん年が離れているとは思ってたけど・・・。」

「恵子ちゃんたちは、幸雄さんの孫であり、娘でもある、ということです。」


ご婦人は深呼吸して、この刑事ドラマのクライマックスのような状況で何か高揚している自分を、不謹慎ですよと叱りつけているようでした。ご婦人は、私に微笑んで言いました。


「あの子たちにはこのことを秘密にするのよ。お父さんのことを伝えるなんて、絶対にダメ。もちろん、人に言いふらすのもダメよ。」

「もちろんです。」

「そういえば、包丁とチラシはまだ残っているのかしら。」

「おもちゃの包丁は今も持ってます。チラシは恐らくあの日の火事で燃えました。」

「あら、そうなの。」


私は鞄から取り出したプラスチック製のおもちゃの包丁を、机の上に置きました。


「あの火事は、乙子さんの恨みが燃え上がったものだったのかしら。」

「分かりません。ただ、乙子さんによる放火ではないと思います。」

「あら。どうしてそう言えるの?」

「家が燃えたあの日、私は乙子さんに会っていました。乙子さんは行方不明になるまでの最後の1週間、幸雄さんによって家の中に監禁され、度重なる暴力によって、体中の骨が粉々に折られていました。仮に乙子さんが放火を行ったとしても、逃げ切れるはずがありません。現場から幸雄さんの遺体だけが発見されていることと矛盾してしまいます。」

「そうなのね・・・。色々と、教えてくれてありがとうね。」

「こちらこそ、お招きくださって、ありがとうございます。」


家の外では、太陽がちょうど真南に来ていました。


はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。


恵子ちゃんの家が火事で燃えてから既に2ヶ月以上が経っています。まだハロウィンを迎えていないとは思えない寒さに向かって吐き出した湯気と一緒に、空気の中に溶け込んで消えてしまいたい気分でした。


「私、まだ落ち込んでるんだ。」


ご婦人の家の隣に、甲野宅があることは以前にも伝えましたよね。私は真っ赤なペンキで塗られた売地の看板の下にしゃがんで、跡地に生えた野花を次々と抜きました。見渡す空き地には、あの日の恐ろしい夢のような事件の面影はありません。柱の陰から空き地を撮し続けている防犯カメラも、もはや有って無いようなものです。


私は、恵子ちゃんたちのお母さんのとして、もうこの事件には区切りを付けて、養親としての役割に専念する方角へ舵を回すべきなのです。そう、探偵さんからも、花奈さんからも言われました。


私は、立ち上がり、目を瞑りました。


家の中は薄暗く、スピーカーが至る所に埋め隠されているかのように、随所から女の人の泣いている声が聞こえます。まるでお化け屋敷です。ドアノブを回し、乙子さんの部屋に入ると、髪が眩しすぎて目が回るほどレモンのような真っ黄色に輝いている乙子さんが、とつ、とつと話し始めました。


 [いつも、お父さんが部屋に帰った後は、あのチラシに、鉛筆で文字を書いては消して、言葉の跡を残した真っ白い紙を、回覧板みたいに、透明なファイルに入れて、ぎゅっと一緒に抱いて眠っていたんです。お父さんから妹を守るために。私が我慢しなきゃだめなんだって。

 高校、行かせてもらえなかったんです。恵子を産むためでした。その代わり、妹は全寮制の学校に通わせてもらえて、卒業と同時に家を離れて、今頃は結婚して、幸せな家庭を回しているでしょう。私も、そんな幸せな結婚がしてみたかったんです。

 いつか、これは夢で、目が醒めて、何も無かったあの頃に、時間が巻き戻るかのように、家族で幸せに暮らせる日が、来るからって、ずっと思い込んで、でも、私の骨も、私の心も、もう完璧に折れてしまいました。私は暴力を浴びすぎて、体が少しも動かせないんです。

 空しいわ。私、普通の女の子としての人生、もう送れなくなっちゃった。]


お母さんの声は、家中から聞こえてくる慟哭や絶叫に、ほとんどかき消されていました。さっきからずっと家中で泣いていた何かが、大きな声で一斉に泣き始めたのです。しかしあの夜とは違い、誰かが倍速のツマミを回しているかのように、その鳴き声の周波数が上がっていきました。私の頭には、電子レンジの仕組みを解説する動画が思い浮かびました。


 [電子を照射して水分子を震わせることで熱が発生し、対象が加熱されます。ですから電子レンジは、水を十分に内包するものならなんでも、何回でも温めなおせるのです。]


静かな深夜の住宅街。爆発音。火の手はあっというまに家中に回り、乙子さんの家を一瞬にして飲み込む黄金色の火の玉になりました。その炎は、どこまでも天高く背を伸ばしていきます。実際にその場に居て、肉眼で見ているかのような防犯カメラの映像で見たあの火事が、今、私の鼻の先で轟々と燃え上がっています。


私はぐるぐると威勢良く炎の中を探し、スーツ姿の、ピンヒールを履いた若い女の人を見つけました。私たちを包み込んでいる炎と同じ、レモン色の髪をしています。


私は燃やされているはずなのに、重々しく寒い夜の、少し湿った冷たさが、私に伝わって来る気がしました。1歩、また1歩、私が乙子さんに近づいていくほどに、私が黒くなっていくのを感じました。歩みを進めて私が黒ずんでいくほどに、私はその底知れない悲しい気持ちへと、そして乙子さんの心へと近づいていける気がしたのです。


乙子さん、包丁を返しに来ました。

 「包丁は要らないわ。チラシがあればいいの。」

でも、これはあなたのものです。

 「そんなナイフじゃ、人は殺せないわ。」

確かにそうです。でもチラシでだって、人は殺せません。

 「そうね。私はお父さんを殺したくなんてないもの。」


両親から、娘として愛される。

行きたい学校にも通わせてもらえる。

好きな人と結婚できる。

そんな、普通の女の子としての人生に、憧れていたんですよね。


それを奪われたあなたは、身の回りのすべての人を憎みながら、人生を憎みながら、自分自身を憎みながら、しかしどんなに否定しようと思っても心のどこかでいつか家族で幸せに暮らせる日が来るという希望を信じ続けていて、この日までは、生きようともがき続けていたんじゃないですか。


身を焦がすほどの恨みや憎しみを燃料に、泣き叫ぶ乙子さんの炎はますます大きく、悲劇的なまでにその勢いが広がっていきました。が永久に失われた乙子さんに、もう幸雄さんへの殺意を抑える理由はないのです。


私は凄まじく苛烈な感情によって焼き尽くされそうなのにも関わらず、欠伸を我慢することができませんでした。


そんなの、分かり切ってたじゃないですか。

 「・・・なんですって?」


私も勘違いをしていました。ちっとも探偵に向いていなくて、自分の責任を自分で取りきれないくせに、私が手を伸ばしさえすれば、そこに救える人がいるなどと自惚れていました。


恵子ちゃんを妊娠してしまった時点で、いえ、お父さんと関係を持ってしまった時点で、あなたの人生の歯車は既に狂っていたのに。どうして家族という結束に巻き付かれ続けることを選んだのですか?

「あの人が、私を離してくれなかったのよっ!」

違います。家族を捨てなかったのは、あなたの選択です。

「うるさい!あなたに私の気持ちなんて分からないのよ!」


 [由加ちゃん、誰かの気持ちを理解しようとしてもあんまり意味なんてないよ。]


花奈さんの言うとおりでした。


私は乙子さんの首に、乙子さんから譲り受けた包丁の刃を当てて切りました。


燃えさかる鳴き声が止みました。

目を開くと、夜は昼に変わりました。

乙子さんはいなくなりました。

おもちゃの包丁を離した私の手。

切った首から吹き出さない乙子さんの血。

目に刺さるような紅色、

私は売地の看板を眺めていました。

その場でうずくまりました。

そして降りしきる雨のように泣きました。


私は乙子さんを殺してしまったのです。


私は落としたおもちゃの包丁を拾い上げて、ハンカチでくるんで、両手で抱えて持って帰りました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「幸雄さんの遺体なんてよく残っていましたね。」

「きちんとしたお別れをしなきゃとは思っていたからね。」


最初の内は、私たちは並んで、断熱ガラス越しに、燃やされていくご遺体を見つめていました。


「ところで、どうしてあの包丁を遺体の喉に食い込ませてるんだい。」

「どうしてだと思いますか?」

「実に呪術的な理由しか思い浮かばない。そうだとしたら、どうしたんだい。君らしくないじゃないか。」

「・・・体が2つも3つもあったら、心が2つや3つあっても釣り合いが取れるんですけどね。」

「どゆこと。」

「人間って、難儀な生き物ですよね。」

「ちょっと待て。どういうことだ?」


私は探偵さんの問いかけを無視して、泣いている民子ちゃんの方へ視線を向けました。ガラスに張り付いて、お父さん、お母さん。お母さん、お父さん。しきりにそう泣き叫んでいました。


恵子ちゃんの方を見ると、私たちの側で唇を噛み、泣き出すのを必死に堪えている様子でした。


和枝ちゃんは2人の正反対な振る舞いを示している姉の様子を見て、自分はどちらを真似るべきなのか分からず、困っているような様子でした。


私は好きな詩を心の中で唱えました。


あなたは愛される。

愛されることから逃れられない。


これで、甲野家を巡る一連の事件は、おしまいです。

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