どこへ帰ろうというのか

「なに見てるの?」

「ありさん」


私は公園で、和枝ちゃんと一緒に蟻の行列を眺めていました。どうしてそんなことになっているかを皆さんに説明するには、2週間前に遡る必要があります。別に読者のみなさんにとって、私たちが蟻を眺めている理由なんてどうでもいいし、興味のないことかもしれませんが、とりあえず、2週間前に遡らせてください。これは internal analepsis という技法の実践です。


2週間前、私は探偵さんと喧嘩をしていましたよね。その数時間後には、私は花奈さんと一緒に喫茶ヨムにいました。いろいろと相談に乗ってもらうためでした。前のエピソードの終わりの文章から続けましょうか。テレビドラマなどで cm を挟んだ後に中断直前のシーンをもう1度流すあの手法の真似です。最後の更新からしばらく経っていますからね。


「花奈さん、ちょっとお出かけに付き合ってもらってもいいですか?」

「もちろん。かわいい妹からの頼みだもん。」


花奈さんから妹って呼ばれると、何だか違和感だらけです。まあ、それは今は置いときましょう。とにかく、私たちはお店を出ました。


ちょっと前までは暑くて死にそうな気候だったのに、今では半袖の裾で肘を覆いたい気分になります。街路樹のイチョウの葉がヒラヒラと空を舞い、クルクルと回転しながら落ちて、アスファルトを黄色く染めています。すっかり秋ですね。喫茶店から歩いてすぐのショッピングモールも、ハロウィン催事の真っ只中でした。この部分のテキストには季節感を出す為の描写を取り込んでいます。


「それで、お目当てはなにかな?」

「花奈さんに何かプレゼントしようと思いまして。」

「えーっ、ほんとぉー?嬉しいな~♪なに買ってもらっちゃおっかな~?」

「そういえば花奈さんって、コーヒーはあんまり飲まないんですか。」

「えっ、急に何。まあでも、飲んだことないかな。お兄ちゃんはコーヒー好きだよね。なんか、毎日飲んでた印象。」

「今も毎日飲んでますよ。」

「ふーん。あ、これ欲しいかな。」


花奈さんが両手に挟んで抱え上げたのは、お菓子の詰め合わせが入ったジャック・オー・ランタンの容器でした。横幅が 30cm くらいあります。プラスチック製なので軽いのは軽いんですけど、これを2つ持って帰るのはちょっと大変そうですね・・・。まあ、1つは花奈さんに持たせればいいでしょう。では問題です。私は何のために2つ買うのでしょうか。注目して欲しい謎ポイントが分かりやすいように、クイズにしてみました。


「あれ、2つ買うの?」

「花奈さんには1つしかあげませんよ。」

「え、うん。それは始めからそのつもり。」


レジの行列はなかなか長いものでした。夕暮れ時のスーパーマーケットって、すごく混雑しますよね。恐らくタイムセールのお惣菜やお弁当を狙う主婦の方々がこの時間に集中するためです。おかげで会計が済む頃には外がすっかり暗くなっていて、スマホで確認した時計によれば、既に 19時 を回っていました。この時期になると日暮れが本当に早くなりますよね。


「お腹すいちゃったね。」

「そうですね。どこかで食べちゃいますか?」

「行きつけの居酒屋さんが近くにあるんだけど、どうかな?」

「いいですね。行きましょう。」


私は晩御飯を外で食べてくる旨を探偵さんに連絡してから、花奈さんと一緒にその居酒屋へとまっすぐ向かいました。探偵さんからは「分かった。」という5文字の返事が来ただけでした。メッセージには句点も付いています。


もしあなたがせっかちな読者さんでしたら、一旦ブレーキをかけてほしいので伝えておきます。当たり前ですが、その居酒屋に和枝ちゃんがいた訳ではありません。あの子はまだ小学1年生です。順番に話していきますから、根気よく読み進めてください。


面倒だと思われるかも知れませんが、ミステリって元来こういうものですからね。ここまでの物語の進み具合を例えるとしたら、今は風が吹いてから砂埃が吹き上げられるまでを話し終えたところくらいです。


花奈さんはお店の暖簾をくぐるなり、1番近いカウンター席のスツールに座りながら「いつもの!」と快活に挨拶しました。店員さんたちの元気なはずのいらっしゃいませ!の声は、私には聞こえて来ませんでした。私が花奈さんの隣に腰を下ろすのと、ドンッと卓上に瓶1本が置かれたタイミングは一緒でした。


「そんなに呑むんですか?」

「そうだね。ここに来た時はいつもこれにしてる。由加ちゃんはお酒、いるかな?」

「えっと、じゃあ、1杯だけもらいます。」

「らじゃ!すみませーん。鬼殺しジョッキ1つおねがーい!」

「嘘、ちょっと待ってください!?」


私が止める暇もなく素早くゴトッと置かれたジョッキグラスには、透明な液体が満杯に入っていました。


「んじゃあ、かんぱーい!」


花奈さんは瓶をジョッキにカチンと当て鳴らすと、すぐに注ぎ口を咥えてラッパで飲み始めました。お通しの漬物が届くまでには、花奈さんは既に大瓶を空にしていて2回目を頼んでいました。その時に私はシーザードレッシングのサラダと、回鍋肉を頼みました。


「花奈さんすごいですね。人間の飲む量じゃないですよ。」

「あれ、バレちゃったかな?」

「バレちゃったって、何がですか?」

「お兄ちゃんってコミュ障なんだよ。中途半端に頭が回転早すぎるからね。他の人とあんまり仲良くできないの。」

「は。えと、頭が回りすぎるとコミュ障になるんですか?」

「よくIQが違いすぎると話が通じないって言うでしょ。見えてる世界が違うというか、常識が違うというか。」

「それは、そうです。」

「それに加えてお兄ちゃんって事務所に籠りっきりだし、お客さんも滅多に来てないし、相談に来てくれた人たちともまともに話さないでしょ。」


花奈さんは2回目を飲み干して、3回目を頼みました。このタイミングでサラダと唐揚げが届きました。私は続けて焼き鳥50本セットを頼みました。花奈さんは愉快そうにスツールに座ったまま回り続けていました。


「ぷはーっ♪お米の甘さが良いよね。やっぱり純米酒だよ〜♪あー、回るー!あはは。」

「さっきも言いましたけど飲み過ぎですよ。よく酔い潰れないですね。」

「由加ちゃんは鬼ころしの由来って知ってるかな?」

「鬼が酔い潰れて死んじゃうくらい強いお酒ってことですよね。」

「ううん、鬼殺しってもともとは武士や戦士が飲むお酒なんだよ。戦いの前に予め酔っておいて、死んじゃうことへの恐怖をぼかすの。がむしゃらに戦えば、鬼も殺せる。だから鬼殺し。」

「そうなんですか。」

「まあ、諸説あるけどね。鬼が死んじゃうくらい強いお酒を、人間が飲んでも別に死なないのっておかしいじゃん。」

「それは、そうです。」


3回目の酒瓶と焼き鳥セットが届きました。具体的に何が届いたのかはよく覚えていません。


「えっと、何の話だったっけ。あ、そうそう。お兄ちゃんはね、滅多に人と話さないから、自分にとっての常識が他の人にとっても常識であるとは限らない、ってことが分からないの。それにお兄ちゃんは、自分の言い回しが相手に伝わるまで頑張るタイプじゃないし。ちょっとでも話が通じないって思ったらすぐ会話を諦めちゃうんだよね。」

「そうですそうです。それにあの人。話す相手を選びすぎなんですよ。常連のご婦人とは話さない癖に、初めて来てくれた若い美人の先生には話かけてましたし。恵子ちゃんに対してなんて、頭を撫でたり、だっこしてあげたり、肩車までしちゃってますからね。」

「あー、それは、ね。お兄ちゃんの気持ちも分かるよ。例えば由加ちゃんさ、怒鳴ってるご婦人と、面談に来てくれた先生と、どちらかと握手しなさいって言われたら、どっちを選ぶかな?」

「先生です。」

「そゆこと。ところで由加ちゃん、お酒のおかわり1回目はいる?」

「え。」


割れそうな勢いで机の上にゴトッと置かれたジョッキの中で液体が揺れることはありませんでした。トムとジェリーのような、古き良きコメディのような、下に地面が無いことに気付いて初めて落下し始めるかのような、あの感覚を思い出しました。きっとガシャンと痛々しい音が私の耳に直接当たってきたのは、私がその場で気を失ってしまったせいだと思います。


ふわふわとした体の感覚がありました。時計塔の周りの空をくるくると飛び回っているような浮遊感です。いつか見たピーターパンの中の世界みたいな。いえ、ここは私の夢の中の世界です。私の想像力が作り出している頭の中だけの世界なんだって、私はすぐに気がつきました。何の独創性もありません。名作に込められたイマジネーションの威を借りて飛んでいるだけです。


私には突拍子のない、誰も思いつかないようなものを想像する芸術的なセンスはありません。その証拠に、お酒のせいで一旦シャットダウンされてしまった私の頭は、真っ暗です。その真っ暗になった目の前に照らし出されたイメージが、擦り倒されてしまっている名作アニメーション映画の中の映像を根底に発生したものだったのですから。私の芸術的なセンスの無さは今この瞬間にも証明され続けています。私の想像力は、私の見聞きしたものの記憶を分解し、整理し、再構築をすることで偽の記憶を作り出す力でしかないのです。


真っ黒いキャンバスの上に何を書いてもいいよ、自由に、君の想像力の赴くままに、と言われたところで、実は私は自由ではありません。想像力は有限です。私は私の体に捕えられていて、私の心に閉じ込められて、私の知る限りの世界でしか物事を見ることができないし、想像することができません。結局、どれだけ私が想像力を働かせて素敵な世界を思い浮かべようとも、それは結局私の記憶の中にある情報へ帰着するのですから。想像力の赴くままにしか書けないという制約があることになります。それでは書いていても面白くありません。


でも、私は夢の中で不自由不自在に遊び回れる機会が来る度に、自分の想像力も捨てたものでは無いですねって、思えちゃうんです。


例えば、ここは海です。海に行きたいと思うだけで、そこは海になります。水着姿の老若男女で賑わっている海水浴場から、潮風が強くて寒くて波で荒れている冬の海。とどろきながら何もかもを押し流す津波。どれもこれも、ニュースなどで毎年のように見る映像ばかりです。


ここは森です。森と言ったら森です。毎年のようにどこかで山火事が起きて燃え広がり、あちこちで真っ黒に焼け付いた炭と灰のフィールドが広がっている自然公園です。それらの炭や灰を養分にして、また新しい命が芽吹き始める森です。最初は背の低い草花から。背の低い木々から。ドミナントな種類の木は年々、徐々に背の高い木々へと移り変わっていき、最終的には元の姿を取り戻します。森が元通りになるまでには何年かかると教科書に書かれていたか、私はきちんと覚えていません。でも、私たちの想像力にとっては時間の壁なんてあってもなくても同じです。私たちは願えさえすれば、1000年前の過去にでも、100年先の未来にでも行けちゃうんですよ。


ここは劇場でしょうか?レストランでしょうか?ライブ会場でしょうか?よく分かりません。とにかく、人々の笑いやさざめきが聞こえてきます。賑わって、盛り上がっている場所であることは分かるのですが、では実際に今の自分がどこにいるのか、と尋ねられても困ります。分からないんですから。このように、想像力は混沌とした様相を呈することもあります。連想できるものがあれこれと集まって、混濁としたイメージができあがるとき、私の頭の中には何かを想像しようとしているという事実だけが残ります。気づいた時にはいつの間にか宇宙にいて、星の爆発を見届け、そしてブラックホールに吸い込まれていくのです。


でも、すべては私の想像力が、私の頭の中に作り出したものに過ぎません。私の中の宇宙です。私は結局、私でしかなく、私に帰るしかないのです。私の頭の中にある、私も知らなかった私に会ってみたいのに、自分の想像力を駆使して自分の宇宙の外側に行こうとすればするほど、自分の宇宙の広さに絶望させられることを繰り返す羽目になるばかりでした。


私は諦めました。すると私は、21世紀美術館のような建物の中に迷い込んでいました。私の他に誰もおらず、ガラス張りの壁の外まで真っ白くなっている世界に目が眩んで、しゃがんだっきり立てなくなって、バランスを崩して仰向けに倒れたっきり起き上がれなくなりました。まるで重力で体が床に押し付けられているかのように。私は体を起こせないでいるのが当たり前であるかのようにです。どうして?なんで起き上がれないの?それは私の知らない私の姿でもありました。


「由加ちゃん。」


私は見知らぬ天井を眺めていました。この言い回しは、エヴァンゲリオンというアニメに登場するセリフを基にしています。私は側にいる花奈さんと、私の上に乗っている掛け布団に気づいて、花奈さんがあの後、私をこの場所にまで運んでくれたことを知りました。夢の中で起き上がれなくなったのは、現実の私の体が、夢の中の私の体にリンクして来たからでしょう。


「あの、ありがとうございます。」

「うん。おはよ。すっごくうなされてたみたいだけど。」

「大丈夫です。というか、ここは、どこですか?」

「私のアパートだよ。急に倒れちゃったから運んできたの。」

「花奈さんもだいぶ飲んでたのに。すみません。」

「いいのいいの。私、アルコール効かないから。」


私は、花奈さんの飲むペースを少しばかりの怯えと共に思い返しまいした。せっかく頼んだ焼き鳥セットを、1本程度しか食べてないことも一緒に思い出しました。


「お兄ちゃんには連絡しておいたよ。」


花奈さんのスマホには、布団の中で寝ている私の写真と、以下のようなメッセージが表示されていました。


 いえーい!お兄ちゃん見てるかなー?居酒屋で潰れちゃった由加ちゃんをお持ち帰りしちゃいましたー!今はウチの布団ですやすや眠ってるよ。

 わかった

 ありがとう


探偵さんからの返信には、句点が付いていませんでした。そして、わかった から ありがとう の間には10分くらいの隔たりがありました。


翌朝です。いえ、翌昼です。目が覚めた頃には日がすっかり高くなっていました。まだ公園には行きませんよ。今は砂埃が目に入るせいで失明した人が続出し、琵琶法師に転身する方々が増えるくらいまで話し終えたところです。私たちが朝一番に向かったのは、一般探偵事務所です。ドアの向こうにいる探偵さんは怒っているのでは・・・と不安になってしまいますが、今の私には花奈さんという頼もしい味方もついています。私はノックをせずに事務所の扉を開けました。


探偵さんはキッチンにいて、コーヒーを入れていました。探偵さんが抽出作業に熱中している隣には、4本くらいの1Lペットボトルが真っ黒い液体で満たされています。まさかと思って冷蔵庫を開くと、1番上の段から中段にも下段にも製材所の丸太のように積まれていて、チルド室の中にも野菜室の中にも扉裏側のポケットまでも、全部がコーヒーの作り置きに埋め尽くされていました。少なくとも100本くらいあるのではないでしょうか。


「ちょっと探偵さん!?なんですかこれ!!」


探偵さんは、声をかけられてはじめて私の存在に気付いたみたいです。それくらいコーヒーに夢中になっていました。探偵さんは冷凍庫を開けて真っ黒い 500mL ペットボトルを取り出しました。


「新しいコーヒーの研究をしてたんだ どうだい 冷凍コーヒー 聞いたこと無いだろ」


探偵さんの声は生気が抜けて空虚で、目は充血していて、背筋は曲がっていて、フラフラとして、今にも気を失って倒れそうで、消えてしまいそうでもありました。コーヒーフィルターに目線を集中させている探偵さんの手の甲に、私は私の手を添えて、作業を中断させました。お湯がまだ半分ほど残っているポットを台に置いた探偵さんの両手を引いて、キッチンから応接スペースへ引きずり出しました。そして探偵さんによく似合ういつもの安楽椅子に座らせました。私もその側にしゃがんで、探偵さんを見上げるようになりながら、謝りました。


「あの、ほっぺ叩いちゃって、ごめんなさい。」

「・・・別に気にしてない」


探偵さんは立ち上がって、またキッチンに戻っていきました。


・・・。・・・・・・。はあ、そうですか。別に気にしてないんですか。私はこんなに気にしてたのに。プレゼントまで買ってきて。なのに「別に気にしてない」ですか。私はこんなに気にしてたのに。コーヒーを入れ続ける手を止めさせて、椅子に座らせた上できちんと謝ったのに。別に気にしてないんですか。


「由加ちゃん。」


花奈さんが、私の両肩にポンと手を置いて、そのまま私を近くのソファに座らせました。


「れいせいに、冷静に。お兄ちゃんはコミュ障。」

「・・・そうですよね。そうでしたね。分かってます。」


分かってますけど、割りきれないことってあるじゃないですか。


「由加ちゃんの気持ちは分かるけど。まあ、とりあえず。コーヒーを淹れる作業だけでもやめさせよっか。あれ以上作ってももったいないだけだし。」

「賛成です。」

「あ、でも由加ちゃんはそこで座って休んでて。私がやってくるから。」


そう言うと花奈さんは、黒ずくめの液体に夢中になっていた探偵さんの背後に忍びより、左手首の腕時計を何やら弄っていて、(ダイヤルを回していたのでしょうか、) 急に探偵さんが腰からへたり込んで、おでこでマグカップを割って、その破片が散らばっている作業台の上へと顔面から突っ込みました。フィルターに注いでいた熱湯を自分の頭に浴びた探偵さんの髪を掴んで顔を引き上げ、花奈さんが探偵さんの口に謎の薬を流し込んでから手を離すと、再び陶器の破片が散らばる作業台へ顔から落ちました。


「ねえ何したんですか!?!?」


死んでしまったのか、伏し寝ているだけなのか分からない状態でぐったりしている探偵さんを、花奈さんは背中から脇に腕を入れてこちらの応接スペースへ引きずり出して、安楽椅子に座らせて、自分はその椅子の裏に隠れてしゃがんで、探偵さんの声で話し始めました。声真似ではなく、探偵さんの声で、です。兄妹なのは知ってますけど、性別的に声帯の仕組みって違うはずですよね。どういう仕組みなんでしょう。


「困難な事件を君に押しつけてしまって、すまないと思っている。僕が事務所から出ることさえできれば、君の仕事もすべて僕が代わってあげられていた。その選択が別の未来を招いていた可能性はあると思う。しかし、僕にはその先の結果を好ましいものにできる自信が無い。だから君を頼ったんだ。君の力を伸ばす良い機会だと思った。」

「私こそ、乙子さんや恵子ちゃんのことを後回しにして、目の前のおもちゃの包丁とチラシの違和感にばっかり注目しちゃっていましたし。私が事件の不安を解決できないことは、探偵さんが謝ることじゃないです。私が力不足なだけです。」

「そんなことないよ。ところで、入口の方に置いてあるジャック・オー・ランタンはなにかな。」

「お菓子の詰め合わせです。コーヒーのお茶請けにいいかと思いました。」

「え、でも、もうお菓子棚には来年になっても食べきれないくらい入ってるじゃないか。」

「恵子ちゃんたちも増えるんですよ?あの子たちはまだ小学生です。お菓子の消費量は確実に増えます。探偵さん、前に言ってましたよね。この事務所に部屋を増設して、ご婦人の家から乙子さんの娘さんたち3人を完全に引き取るって。」

「ああ、そういえばそうだったね。」

「そんなこと言ってませんでしたけどね。探偵さんは。」

「そんなの知らないってば!なんでそんな意地悪な嘘つくの!」


花奈さんは、急に花奈さんの声に戻りました。どういう仕組みなんですかそれ。


「というか、なんで探偵さんはあんなにたくさんのコーヒーを作り置いちゃったんですか?」

「君にコーヒーを飲んで欲しかったからだよ。」

「私にですか?」

「君が家出してから、僕はずっと寂しかった。夜の孤独が僕を焦らせた。僕は君を待っている間ずっと、コーヒーを淹れ続けた。けれど、君がコーヒーを飲みに戻ってくることは無かった。お酒で酔っ払って、妹の家に持ち帰りされて、僕がどれだけ心配したのか分かってるのかな。」

「私のことが心配だったから、コーヒーをいっぱい作っちゃったってことですか?」

「当たり前じゃないか。僕の奥さんなんだから。」

「そうそう。そもそもお兄ちゃん、助手さんなんて今まで採ったことなかったし、別に採りたくないってまで言ってたんだから。普段は言わないだろうけど、由加ちゃんって、相当にお兄ちゃんのお気に入りなんだよ。あーあ、お兄ちゃんもさ、由加ちゃんのこと、好きなら好きって正直に言っちゃえば良いのに。」

「分かった。今、伝えよう。由加、僕は君のことを愛している。好きな、タイプなんだ。」


好きな、タイプなんだ。これは2019年に公開された『記憶にございません!』という映画の国会答弁のシーンで登場した、黒田総理大臣の愛の言葉と同一です。はあ。探偵さんはそんなこと言いません。私は大きなため息をついてしまいました。花奈さんには帰ってもらいました。


探偵さんは椅子の背に姿勢良くもたれかかったまま眠り続けています。6時間くらい経ちましたが、まだ目を醒ましません。私はキッチンへ行って、陶器の破片を片付けてから、冷蔵庫を隅々まで占領してしまっているコーヒーたちを処分しにかかりました。トポトポトポトポ。細い1Lペットボトルの口から、流しの排水口に向かってコーヒーが流れていきます。


 君が家出してから、僕はずっと寂しかった。夜の孤独が僕を焦らせた。僕は君を待っている間ずっと、コーヒーを淹れ続けた。けれど、君がコーヒーを飲みに戻ってくることは無かった。


だめですよ。これは探偵さんの言葉じゃありません。花奈さんが探偵さんの物真似をするときの本物のそれとは程遠いセリフ回しです。そんなことは分かっています。分かっていますけど、ペットボトルが空っぽになる度に、罪悪感が胸の中でズキズキと膨らんでいくのを感じました。


ひたすらにコーヒーを捨て続けているうちに月が昇り、さやけき光の筋が事務所に差し込んで、探偵さんが座っている椅子の背を照らしていました。ただコーヒーを捨て続ける作業に飽きてきた私はキッチンを離れ、その光に誘われてゆらゆらと探偵さんの方に行きました。


まったく外に出ないせいで不健康なほどに色白い肌が、少し青い月の光に照らされて輝いていました。間近で見れば見るほど、丹念にケアをするセレブ特有のきめの細やかな肌に、整った顔の口元に滲んでいる血が印象的でした。恐らくマグカップの欠片のせいです。私は、探偵さんの上唇の血を吸いました。


「ん・・・」


深い悲しみを宿すような瑠璃色をした探偵さんの瞳に私はドキッとして、慌てて探偵さんから離れました。


「ミユキ・・・さん・・・」


その空言を1つ零して、探偵さんは再び眼を閉じました。私は探偵さんを椅子から降ろして床の上に寝かせ、その静かな寝息を確認してからキッチンに戻り、ペットボトルを取ってきて、キャップを回して外し、探偵さんの顔に向かって注ぎ始めました。


ビチャビチャと音を立てて、コーヒーの水溜まりは床に広がり続けていきます。まるで、しばらく放置されて、すっかり黒ずんでしまった殺人現場のようでした。ふふ。私は探偵さんを殺してしまったのです。


「ぶはっ、なんだこれ」

「コーヒーです。」

「やめて、とめて、コーヒーは人にかけるものじゃない」

「ミユキさんって誰なんですか。」

「・・・話したくない」

「じゃあこのままです。」

「とめて」


そう言いながら、探偵さんはまったく抵抗しませんでした。私は50本目くらい探偵さんの頭にかけ続けて、それで飽きてきてしまうまで、ずっとやめませんでした。まだまだ冷蔵庫の中には作り置きのコーヒーが山ほど入っています。


その後の掃除は私1人でやりますと何度も言ったのに、探偵さんは頑なに私を手伝ってくれました。一緒に片付けてくれている間、私はあれこれと質問しましたが、結局、ミユキさんが何者であるのかは何も教えてはくれませんでした。


「これくらいでいい あとは業者を呼んで掃除してもらおう」

「あっ、分かりました。おつかれさまです。」

「お疲れのところ悪いけど、相談したいことがある」


探偵さんは事務机に戻って、引き出しから何かの契約書を取り出しました。


「恵子ちゃん達の増設するというアイデア、実は僕も考えていたんだ 寝室を2階に作るか、地下に作るか、どっちがいいと思う」

「普通に2階でいいと思います。」

「そうか わかった ありがとう」


ゴトンと穏やかならぬ音を立てながら、探偵さんは机の上に頭を落としました。私はわたわたしながら、なんとか冷静になろうとその場にしゃがんで、探偵さんの手を取って手首に指2本を押しつけました。脈が感じられませんでした。


「え。探偵さん、探偵さん!?大丈夫ですか!?」

「大丈夫 大丈夫だから 疲れたから寝たい 静かにして欲しい」

「あ、ごめんなさい・・・。」


そう言う探偵さんの皮膚には、吸血鬼かと見まがうほどに血色が感じられませんでした。このまま、体が透き通って消えてしまいそう。そう思ったのを覚えています。


探偵さんが全部飲んでしまったのか捨ててしまったのかは知りませんが、その次の日の朝までには、冷蔵庫の中のコーヒーが入ったペットボトルが容器ごとすべて完璧に消滅していました。


さて。琵琶が売れるようになって、猫皮の需要が増えて、市中のネズミの数が増えるところまで話しました。もう少しだけお付き合いください。


それから2週間経って、今日に至ります。


工事が終わり、恵子ちゃん達を受け入れる準備が完了したので、今日は3人揃ってお引っ越し、という運びになっていました。それで、娘さんたちをご婦人のお宅から私たちの事務所まで連れて行く、というのが私のミッションです。


「由加さん、頼むわね。」

「はい、1ヶ月以上も長い間、この子たちの面倒を見てくださって、ありがとうございました。」

「いいのいいの。家が賑やかになって、嬉しかったのよ。むしろ、寂しくなっちゃうわ・・・。」


ご婦人は私を手招きして、耳打ちするように言いました。


「和枝ちゃんなんだけど、目を離すとすぐにどこかに行っちゃうから、気を付けてね。」

「分かりました。ありがとうございます。」


その忠告を胸に刻み、私は恵子ちゃんと民子ちゃんと和枝ちゃんの3人を引き連れて事務所へ出発しようとしたところで和枝ちゃんが、制御不能になった散歩中の犬のように、とたたーと走り出して私たちから遠ざかって行くではありませんか。


「由加さん、私たちは大丈夫です。事務所までの道は覚えてますから。和枝を、追いかけてください。」

「恵子ちゃんありがと!」


私は、民子ちゃんともアイコンタクトを取りました。恵子ちゃんの手を握って、こくんと首を縦に振って合図をしてくれました。私は2人を頼ることに決めて、和枝ちゃんを追いかけ始めました。


子どもたちって、私たちが思っているよりもすばしっこいんです。小柄だから隠れるのにも向いていて、公園で蟻を眺めている和枝ちゃんを発見するまで追いつくことができず、道中は何度も見失いながら、車に轢かれたり、悪い人に攫われたりしないかといった不安にお尻を燃やされて、スニーカーでアスファルトをあちこち走り回っていました。


これが、私たちが公園で蟻を眺める状況に至るまでの経緯です。ついに増えたネズミが桶を齧り、新しい桶に買い換えようとする人が増え、桶屋が儲かるところまで話し終えました。では、桶屋が儲かった後の話をしましょうか。


「和枝ちゃんは、蟻が好きなの?」

「ううん」

「虫が好きなの?」

「ううん、好きじゃない」

「どうして蟻さんの行列をじっと見てるの?」

「じっと見てる」

「そうだね、じっと見てるね。蟻さんの行列が好きなの?」

「好きじゃなきゃ眺めてちゃいけないの」


そ、そんなことはないですけど時間の無駄じゃ無いですか、と大人げなく言い返したい気持ちをグッと堪えて、私はこの場合に和枝ちゃんへ届けるべき言葉は何かを考え始めました。


私の思惑は和枝ちゃんを事務所へ向かう道の上に戻すことですから、それを達成するためにはまず、この蟻の行列を眺め続ける行為をやめさせなければなりません。


好きでも無いのに眺め続けることに、何の意味があるの?と尋ねられる立場に私が居るとしたら、たぶん、その言葉は私を不快にさせるでしょう。遠回しに私の行為に意味なんて無いと思われていることが伝わってしまいますから。


そもそも和枝ちゃんは、蟻が好きだから蟻を眺めているわけでもなく、蟻の行列が好きだから蟻の行列を眺めているわけでもなく、恐らく眺める行為自体が好きだから眺めているというものでもありません。きっと、理由なんてないんです。蟻を眺めることで、ただ蟻を眺めているだけです。和枝ちゃんにとって蟻は、蟻以上でも以下でもない蟻そのものであります。蟻の行列も、単なる蟻の行列でしか無いのです。


理由もなく、ただ時間を使って蟻を眺めるという行為に没頭する。その意味を理解することは、少なくとも私にはできません。それで私は、何も言葉を思い出すことができずに、ただ和枝ちゃんの横で一緒になって、言葉無く蟻さんたちを眺めていました。膝を抱えるようにしてしゃがんで、吹き飛ばすでもなく、手で潰すでもなく、行列には無関係に両足を置いて、ただ上の空で、じっと眺め続けているのです。


目的のない行為を時間の無駄だと評価するのは、現代社会に特有の価値観です。暇な時間が生まれると、それを有意義に使いたがります。休みの日は仕事を休むための日ではなく、何かしらの別の用事を済ませるための日になります。例えば日曜大工なんてしてないで、体を休めてあげる。そういう時間の回し方を私たちは忘れつつあるのかも知れません。


「よーしっ。散歩でもしちゃおっかな。」


私は立ち上がりながら言いました。


「どこかにいくの」

「ううん。和枝ちゃんとお散歩したいだけかな。」

「そうなの」

「うん。」


私が差し出した手に、和枝ちゃんは両手を乗せてきてくれました。立ち上がって、お尻の砂を払って、それから私と手を繋いで歩き始めました。あてもなく歩き回って、道や、塀や、側溝や、電柱や、車や、犬や、猫や、いろいろなものに挨拶をしながら、私たちは日が暮れてからも、まるで迷子になっていることに気付いていない迷子のように、足がガクガク震えて物理的に歩けなくなるまで散歩を続けました。


和枝ちゃんはすっかり疲れて、和枝ちゃんの中の夢の世界に落ちていきました。私はスヤスヤ眠っている和枝ちゃんを背負って、パンパンに張っている脚が痙攣しないよう、時折ふくらはぎやふとももを片方ずつ叩いては、なんとか事務所まで辿り着きました。


「「「おかえりなさい。」」」

「ただいまです。」


私は事務所のソファに和枝ちゃんを移して、布団を掛けて上げました。


「和枝ちゃんも、おかえりなさい。」


ミッション・コンプリート。私は私の仕事をやり切りました。

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