不器用、喫茶ヨム

私は、歩いて向かったお役所に婚姻届を提出した今となっても、私が探偵さんの奥さんになるのだということを実感できずにいました。


冷房の効いた自動ドアの外側に出てからまだ数分しか経っていないのですが、私たちは2人とも血が抜けたような顔色になっていました。近く「ヨム」という喫茶店に避難して、花奈さんはクリームソーダを、私は少し迷ってアイスティーを頼みました。ガムシロップやフレッシュは無しです。


「いやー、こんな暑さだと死んじゃうねー!」

「ほんと死ねますね。」


花奈さんは、クーラーのおかげでキンキンに冷えたソファーに背中を預けて、暑さで溶けた猫みたいな悪い姿勢になりました。恐らくそれをニヤニヤして見ていた私と目が合った途端に、花奈さんはピンと背筋を伸ばして座り直しました。


「あっ、ごめんなさい。崩してていいですよ。」

「いやいやいや。その、由加ちゃんの佇まいが上品だからさ、私だけダラシがないの恥ずかしいもん。」

「それなら、私も暑さで溶けた猫ちゃんみたいになりますから。」

「おー!それ、助かる。」


ほどなくして、ヨムのスタッフさんが飲み物を置き終えて戻っていく時に、クスッと笑って去っていくのを聞きました。私たちは急に恥ずかしくなってきて、2人して座り直しました。


「えっと。花奈さんはクリームソーダが好きなんですか?」

「もうほんっとに大好き!喫茶店行った時にはこれしか頼まないくらい!」

「でもカロリーとか、糖分とか、いろいろと気になりませんか?」

「甘くて美味しいのは楽しくて正義だから!ごちそうさま!」


速っ。私がストローでアイスティーの氷を回している間に、花奈さんはクリームソーダを飲み干していました。よっぽど喉が渇いているみたいで、花奈さんは私のアイスティーをじっと見つめてきます。私はストローの先端を口に咥えて、頬をヘコませてみました。最初のうち、花奈さんはじっとグラスの中身を熱心に観察していましたが、しばらくすると私の顔に視線を上げて、納得した風な表情で尋ねてきました。


「由加ちゃんはアイスティーにガムシロップ入れない派なのかな?」

「入れないですよ。」

「でも、入れた方が絶対に楽しいよ。」

「えっ?」

「さっきからグラス全然減ってないじゃん。由加ちゃん一生懸命にストロー吸ってるのに。」

「吸ってないですよ。口すぼめてただけでした。」


私は頬の内側を歯で挟んで、[ストローで吸っているフリ]の変顔を再現しました。


「んもー、時間が動かなくなったのかと思ったじゃん!」


そう言って愉快そうに笑い始める花奈さんに釣られて自分も笑顔になるのを感じながら、私は私のアイスティーを飲み始めました。確かに。私のアイスティーは単に甘いだけの飲み物とは違って、まず、渋みや苦味があります。しかも私はガムシロップを入れないですし、もちろん刺激的な炭酸も入っていません。それにアイスティーには、クリームソーダみたいな視覚的な楽しさや、写真映えする華々しさもありません。


「飲みます?シュワシュワで甘くて美味しいですよ。」

「えっ、そんなはずないじゃん。」

「まあまあ、騙されたと思って。」


私は、あまり減っていないアイスティーを花奈さんに渡しました。花奈さんはちょっと飲んでから、顔をしかめて言いました。


「んべ、ぜんぜん甘くないじゃん!ぜんぜんシュワシュワもしないし!」

「そんなわけないです。ちゃんと味わってください。」


私は花奈さんからグラスを返してもらって、1口飲みました。紅茶を味わうときには、本当はお口をゆすぐのが1番なのですが、ここはお店ですし、行儀が悪いのでそれは我慢します。舌の上で遊ばせて体熱で温めるうちに、茶葉の甘さが口の中に広がって、鼻腔を抜けていくのを味わいました。さらに飲み込まないで口の中にキープしていると、茶葉の渋さで味蕾がシュワシュワとしてきます。


「ほら、ちゃんと甘くてシュワシュワしますよ。」

「嘘!ぜったい嘘でしょそれ!」


花奈さんはそう言いながら、私からのグラスを受け取って、もう1口飲みました。


「おいしくない!」

「そんなわけないです。ちゃんと味わってください。」

「はーい、おしまいでーす。この無限ループはおしまいでーす。」


花奈さんは右手の手刀を左手の受け皿にストンと落として、アイスティーおいしいおいしくない問答を強制終了させました。


「はぁ。なんか、由加ちゃんって、お兄ちゃんに似てるところあるかも。」

「やめてください。」

「えー、なんでー。由加ちゃんの旦那さんじゃん。お似合いってことじゃん。」

「そもそもですね。探偵さんが私と結婚するなんてありえないじゃないですか!」

「え、でも、さっき届出を出したばかりだよ?」

「それは、そう。ですけどそうじゃなくてですね。」


そうじゃないとしたら、なんなのでしょう。私は言葉が見つけられなくて、声が詰まりました。花奈さんが首を傾げて私に尋ねます。


「由加ちゃんはお兄ちゃんと結婚したくなかったのかな?」

「えと、それは、特に経済的な面ですっごく困るので、えっと、困りますけど。」

「ふーん。素直じゃないなあ。由加ちゃんさ、お兄ちゃんのこと、好きなんでしょ?」


私は両手で机をバン!と叩きました。


「やめてくださいって、言ってるじゃないですか!!」


周りのお客さんやスタッフさんの視線が痛く感じられて、私はお手洗いに逃げ込みました。


「[きっと、あなたには私の気持ちなんて分からない。]」


それは私の言葉でもありました。乙子さんのその言葉が頭に浮かんで、私の口から出てきたのです。


私には、乙子さんの気持ちが分かってあげられなかった。だから家が燃えて、幸雄さんが死んじゃって、乙子さんは行方不明。恵子ちゃんたちはまだ小学生なのに、私のせいで、孤児になってしまったのです。


それなのに私には、恵子ちゃんたちの養親としての責任を背負い切れるほどの財力も根性もありません。探偵さんはそんな私を見かねて、経済的に、そして精神的に私を助けようとしてくれているだけであって、探偵さんが私と結婚するなんて、ありえないことなんです。


 [人々の不安を解くことが、探偵のお仕事です!]


洗面台から顔を上げると、鏡には私の顔が写りました。私は鏡が嫌いです。鏡に写る私の顔も大嫌いです。


世の中にいる全ての人を救えるとでも勘違いしている、自信に満ちた私の顔が嫌いです。現実と仮説の区別が付かなくて、おまけに視野も致命的に狭くて、ちっとも探偵に向いてなくて、自分の責任を自分で取りきれないくせに、私が手を伸ばせば救える人がいるなどと自惚れていて、偉そうな自分が大嫌いです。


いっそ。私なんていなければ良かったのに。私さえいなければ、恵子ちゃんたちがこんな思いをしなくても済んだのです。もし、今そこの鏡に私の姿が写らなかったとしたら、私は自分が存在していないという現実を、よろこんで受け入れていたと思います。でも、私の姿を写してしまう鏡が、私は大嫌いです。


私は、鏡が大嫌いです。鏡に写る私が大嫌いで、私を写す鏡が大嫌いです。


 [これで死んでください。]


あのチラシ裏に書かれていた乙子さんの言葉は、私宛だったのかもしれません。


私は自分の首に、乙子さんから譲り受けた包丁の刃を当てて切りました。


だらんと垂れて包丁を床に落とす私の腕。


鏡に映る、希望の欠けた虚ろな私の瞳。


切った首から吹き出さない私の血。


切ったはずの首から脳に伝わるはずの痛みの、痛くなさ。


今、私は死にました。


清々しい気分でおもちゃの包丁を拾って、花奈さんのところに戻りました。花奈さんは、ちゃんとした姿勢で座って、しゅんと俯いていました。私はまず謝りました。


「ごめんなさい。急に取り乱してしまって。」

「ううん。ごめんね由加ちゃん。私、無神経だった。」

「いえ。もう気にしてませんから。そんなことより、」


私は、まだ半分くらい残っているアイスティーをズイっと花奈さんの方へ差し出しました。


「仲直りの印にもう1口、どうぞ。」

「・・・由加ちゃん、まだ怒ってるでしょ。」

「気にしていませんよ。ささ、お好きなだけどうぞ。」

「嘘!気にしてないなんて絶対嘘じゃん!」

「飲んだら許してあげますから。」

「あー、許すって言った。許すって言った!まだ私のこと許してないんじゃん!」


その日、私は花奈さんに、紅茶のおいしさを分からせてあげようとしましたが、花奈さんは半分くらいしかアイスティーを飲んでくれませんでしたし、そのおいしさに共感してくれることはありませんでした。

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