第2章 消えた母親事件

演繹的推理入門

はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。


恵子ちゃんの家が火事で燃えてから1週間。今日も事務所には私の大きなダミ声が響き渡っています。私のため息で揺れているマグカップの湯気のように、空気の中に溶け込んで消えてしまいたい気分です。


「まだ落ち込んでるのか。」

「当たり前ですよ。私のせいで2人も死んじゃったんですから。」

「あの事件を解決するなんて君には無理だ。」

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、そうですかっ。」

「いいから書類整理を手伝ってほしい。」

「はいはい、ってなんですこれ。養子縁組?」

「君は事件の解決に失敗して孤児を3人も産み出した。人々の不安を解くのが探偵の仕事。これは君の言葉だ。」

「それは、そうですけど・・・。」

「お金なら僕が出すから安心してほしい。」

「それならありがたいです。」


私は自前のボールペンで養母の記入欄にサインをしました。


「あとこっちにもサインを。」

「え?」


スッと私の手元に置かれたのは婚姻届でした。探偵さんの名前や、その他に記入が必要な項目は全て、既に記入済みでした。


「冗談はやめてください。」


探偵さんは、ティファニーの万年筆にインクを付けて、私に手渡してきました。


「インクが乾く前に早く。」

「なんで探偵さんが私と結婚しなきゃいけないんですか?」

「僕の扶養家族になれば君は税金を納める必要がなくなるから。」

「・・・なるほど。」


まあ、確かに?資産は結構あるみたいだし、料理も上手だし、淹れてくれるコーヒーもおいしいし、知識が豊富だけど自分の頭の良さを奢ることはないし。割と優良物件ではあるのかも?まあ、財力をひけらかす癖があるのは、元貧乏の成金っぽいから治した方が良いと思うんだけど・・・。私は渋々ながら自前のボールペンで書類にサインしました。


「よしこれで君も家族だ。よろしく。」

「はいはい。よろしくお願いしまーす。」

「ここからが本題なんだけど」


探偵さんは、記入が済んだ養子縁組届と婚姻届をファイルに入れ、事務机の引き出しにしまってから続けました。


「甲野家の事件はまだ終わってない。」


探偵さんは大きい仕事を終えた後のように長いため息を付いて、別の引き出しから今朝の新聞を取りました。10ページ、つまり地方版の事件事故欄にある小さな記事が、黒ペンで丸く囲われていました。


 1週間前に都内の住宅地で発生した火災の現場で1人の遺体が、黒焦げになった紙を口に詰め込まれた状態で発見された。遺体はしばらく身元不明のままだったが、DNA鑑定の結果、甲野幸雄さん(50)の遺体であることが確認された。


「現場で発見されたのは1人の遺体。2人死んだと君は言っていたけれど、そんなことは書かれていない。」

「本当ですね。」

「ところで、口に詰め込まれた紙らしきものの正体は何だと思う?」

「あのチラシだと思います。」

「その根拠は?」

「あの日、私は乙子さんに頼まれてチラシを返したからです。」

「乙子さんがチラシを持っていたからと言って、それを幸雄さんの口に詰め込んでいたとは限らない。」

「じゃあ、何だって言うんですか?」

「恐らくチラシだろうね。」

「合ってるじゃないですか!」

「9割9分、そう。でも確実じゃない。」

「もう正解でいいじゃないですか。」

「ほら、結論を急いでる。それが君の駄目なところだ。前の浮気調査の時みたいに空回りしてしまう原因だよ。」


探偵さんは、改めて新聞の囲われた記事を指差しながら言いました。


「その記事から読み取れる確実なことは?」

「遺体は幸雄さんのものだということです。」

「乙子さんの遺体ではないとも言える。彼女はどこにいると思う?」

「まだ発見されてないだけだと思います。あの人は撲殺されかけて寝込んでいたんですよ。火事に巻き込まれたら逃げられません。」

「はいストップ。もう駄目です。」

「えっ?何が駄目なんですか?」

「9割9分正しい推理は、僅か1分の妄想で台無しになる。乙子さんが焼死したという仮説は、根拠のない妄想でしかない。君は現場を観測していないから。」

「でも、それならあの人は難を逃れて生き延びてるってことですか?」

「結論を急がない。」


探偵さんは新聞を引き出しに戻しました。


「2015年2月3日生まれの男の子。俳優。これらの情報から彼が何者か、名前を言い当ててみてほしい。」

「水瓶座で、今年5歳の男の子。・・・割と早熟な子役さんでしょうか。」

「追加情報。その子は岩合光昭に惚れ込まれ、写真集を出している。」

「えっ、あっ、えっ。」

「正解はアメリカンショートヘアーのオス、俳優猫のベーコンでした。」

「ズルいですよ!そんな後出しじゃんけん!アンフェアです!」

「勝手に君が答えを人間として、結論を急いでしまったからだよ。」


探偵さんは冷めかけたコーヒーを啜ってから、急に饒舌に喋り始めました。


 君は現実と仮説の区別をつけるのが壊滅的に下手で、おまけに視野も致命的に狭い。はっきり言って、探偵に向いてないね。あの事件を解決するなんて君には無理。力不足。


 君は乙子さんが火事から逃げている現場も、炎に巻かれて死んでいる現場も、彼女が幸雄さんの口に紙を詰め込んでいる現場も、彼女が撲殺されそうになっている現場も、どれもこれも観測していない。全て仮説に過ぎない。妄想に過ぎない。


 逆にだね。君が観測した事柄は如何に不思議な現象や物体であろうと現実だ。現実を隅々まで観測しなければ、さっきの猫当てクイズみたいに全くもって見当違いな推論に落ち着くこともありうる。


 現段階で観測されている現実の情報だけでは、解決できない謎が多すぎる。思い当たる節は君にもいっぱいあるはずだ。そして凡人は、自分なりの仮説をかき集めて、妄想の物語をでっち上げる。


 ホームズだって何度かそれで失敗しているから、実は彼って名探偵としては二流以下なんだよ。もちろん彼の観察眼、つまり証拠を見つけ出す目の鋭さは素晴らしい。けど、探偵が一番やってはいけないことを、彼は何度もやらかしている。


 僕らには情報が足りていない。だから、もっと情報を集めなければならない。その間、僕らは結論を急いではいけない。僕らは目の前にある謎を、早急に、解き明かそうと思ってはいけない。その理由はさっきから説明している通り。


 分からないことは潔く分からないのだと認めてからでなければ、どんな推理もエセ演繹になってしまう。探偵に求められるべき1番の資質は、謎を謎のままとして対峙し、見つめ続けていられる忍耐強さだ。


ピンポーン。誰かがドアホンを押しました。


「来たみたいだね。」

「来たって、誰が来たんですか?」

「僕の妹。」


私が返事をするより早くに、ドアがガチャっと開きました。吸い込まれそうなほど真っ黒い色のスニーカーで、音も立てずにいつの間にか私の側まで来ていて、広げた右手を伸ばしてきました。その時の口は[あういお]の形に動いていました。


「握手しようって言ってる。」

「あっ、そうなんですか。」


私は右手を差し出しました。妹さんは私が手を握った瞬間に勢いよく喋り始めました。


「あなたがお兄ちゃんのお嫁さんなんだね。はじめまして。妹の花奈です。これからよろしくね。というか、由加ちゃんかわいいね。これじゃお兄ちゃんが惚れるのも仕方ないかも。」

「そう、仕方ない。仕方ないから僕の代わりにこのファイルを役所まで届けてくれ。」

「うけたまわったー!それで、何が入ってるのかな?」

「養子縁組届とかだ。」

「ふーん。ほーん。へーえ。婚姻届、とかね。りょーかーい。」

「ついでに彼女も連れてってくれ。」

「え、あー。らじゃらじゃ。」

「よろしく頼む。」


突然現れた探偵さんの妹さん、花奈さんに腕を捕まれて、お役所へと連れて行かれるのでした。

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