よいしょっと。
「恵子ちゃん、どうしたの?何かあったの?」
「あの、相談があったんですけど、それより、この車の山は、何ですか・・・?」
探偵さんは、事務所入口にて戸惑う恵子ちゃんの頭に手を置き、穏やかな微笑みを作って、右手を宙で左から右へ流しながら言いました。
「気にしないで。」
探偵さんは恵子ちゃんにソファーをすすめ、自分はいつものように安楽椅子に腰掛け、そして、なんと、恵子ちゃんの相談に乗り始めました。
「それで、ご用は何かな?」
「お母さんが、家でずっと泣いているんです。」
「ずっと、泣いてる。」
「はい。このところ、お母さんはずっと、寝込んでいるんです。お父さんからは、病気が移ると危険だから部屋には入らないようにって言われました。」
「そうなんだ。」
「でも、お母さんの泣いている声が、家のあちこちから聞こえてくるんです。」
「あちこちから。」と、探偵さんは食いつくように反応しました。「詳しく聞かせて。」
「玄関でも、リビングでも、トイレでも。家のどこに居ても、まるですぐ側でお母さんが泣いてるみたいに声がするんです。」
「それは奇妙だね。」
「気のせいじゃないって気づいたら、なんだか怖くって、お父さんにも相談して、今は妹たちと一緒にお隣さんの家にお泊まりさせてもらっています。」
探偵さんが恵子ちゃんから話を聞いている光景を眺めて、子どもの成長を見届ける母親の気持ちはこんな感じなのかな等と考えつつ、私はキッチンに向かいました。今日は私がアイスコーヒーを淹れる番です。
とはいえ、私が今までに探偵さんの美味しさを再現しようして、上手く行ったことはありません。冷蔵庫から探偵さんが作り置いたコーヒーのペットボトルを取り出しまして、氷を入れたマグカップに注ぐだけでおしまいです。
コーヒーは普通、ドリップしてから時間が経つほどに劣化して酸味や雑味が出てくるものなのですが、あの人の場合はそれも考慮したブレンドを自分で作っているみたいで、淹れたてでも冷めていても各々に違った美味しさがあるんです。私は淹れたての方が好きですけど。というか、同じ焙煎豆を使ってるのに、なんで私がドリップしたときにだけは、あの香り高さが出せないんでしょう。
恵子ちゃんにはミルクパンで暖めた牛乳にココアパウダーを溶かして、氷でいっぱいのマグカップに注いだものを用意しました。ドリンクを持って戻ると、2人は事務所入口の方で、菫色の車の山を見つめて立っていました。
「決めた。じゃあ、こうしよう。よいしょっと。」
探偵さんは菫色の積み上がった鉄屑から、一番ダメージが少ない、6番目に落ちてきていた車両を掴んで、抱え上げて床に置いているところでした。
「探偵さん、それ、どうするんですか?というか、重くないんですか?」
「大きさは関係ない。君、免許は持ってたっけ?」
「持ってますけど・・・・・・?」
「急を要する。これで現場へ。早く乗って。」
「え?それ車検とか保険とか大丈夫なんですか、それ。」
「問題ない。早く乗りたまえ。」
「・・・はい。」
探偵さんから渡された車の鍵には、銃のキーホルダーが付いていました。気づいたら私たちは恵子ちゃんの家に突っ込んでいて、壁や扉や天井を深く抉り削って、車ごと広めのリビングにすっぽりと入っていました。
私が呆けていると、急にスマホが震えて、探偵さんからテレビ電話がきていました。
「手紙と包丁は持って来てる?」
「そんなことより、家、結構酷く壊れちゃったんですけど。」
「問題ない。君は君の役割を果たしてくれ。」
そう言うと探偵さんはどこか焦っているような表情で恵子ちゃんにスマホを渡すように言い、お母さんの部屋に連れて行かれました。
取り残された私の役目は、ナイフを投函した犯人を捜すこと。私はポストへ向かいました。家の中は薄暗く、スピーカーが至る所に埋め隠されているかのように、随所から女の人の泣いている声が聞こえます。まるでお化け屋敷です。
家の外では太陽がちょうど真南に来ていて、夜が急に昼に変わったかのようです。私はポストの投函口におもちゃの包丁を入れま・・・、入れ・・・、入れれません。口が細くて包丁が入りません。きっと受け取り口の方から入れたんです。でも鍵が掛かっているので、開けられません。
つまり、ポストに包丁を入れられるのは、鍵を持っているであろう家族だけ。
私は自分の両頬を2回叩いて、覚悟を整えました。私の推理が根本から間違っていたとして、もし包丁の差出人が恵子ちゃんのお父さんだったならば。強い殺意を以て恵子ちゃんのお母さんを殺害し、遺体を部屋に隠して、お母さんの病気が移るからと嘘をついて部屋から人を遠ざけている。これは殺人です。マーダー・ケースです。
ぐるぐると威勢良く家の中を探していると、部屋の外でうずくまっている恵子ちゃんがいました。私が近づくのを見ると、彼女は顔を上げて、私に言いました。
「お母さんは、助手さんと2人きりで話したいのだそうです。私、外で待っていますから。終わったら、呼んでください。」
そう告げてから、恵子ちゃんはまたうずくまって、泣いている声の中に溶けていきました。私は深呼吸して、こんな状況でも何か高揚している自分を、不謹慎ですよと叱りつけながら、ドアを開けました。
部屋に入ってまず驚いたのは、お母さんの髪の毛が、眩しすぎて直視できないほど、レモンのように真っ黄色く輝いていたことです。カメラの映像を検証していたときは全く気にならなかったのに。たぶん普通の黒髪だったと思います。
お母さんは私を見るとベッドに寝たまま微笑み、その血の通わない薄白い肌には、頬骨のシルエットがくっきりと浮き出ました。
「あなたに2つ、お願いがあるの。」
生気を失った、信じられないくらい小さい声でした。
「まず、あなたに恵子たちをお願いしたいの。子どもたちをお父さんに託すなんて、絶対にダメ。」
かすれた声でもう1度繰り返し「お父さんを子どもたちに近づけないで。」と叫ぶ。
その言葉には、悔しさと怒りが含まれていました。
10年前の性犯罪被害者向け講習会のチラシ。
家族にしかポストに入れられない包丁。
親子くらいの年齢差がある初老の父と若い母。
娘たちを父から全力で引き離そうとする母。
私はようやく、気がつきました。そして、その思い付きに私は吐き気がしました。
「包丁の送り主は、あなただったんですね。」
どうしてこの人は、自分の娘たちを父親から遠ざけようとするのか。
ポストに包丁を入れたその人は、恵子ちゃんのお父さんを恨んでる。
恵子ちゃんのお母さんは、お父さんの娘でも問題ないくらい若い。
この人は10年前か、それよりも前からずっと。
「私がいなくなったら、誰もあの子たちを守ってあげられないから。」
恵子ちゃんのお母さんは、「頼むわね。」と小さく言いました。
「それと、あなたが持っているチラシを返して欲しいの。」
「チラシ・・・だけを返して、どうするんですか。」
「あれは私の、お守りなの。」
そして、恵子ちゃんのお母さんは、とつ、とつと話し始めたのでした。
いつも、お父さんが部屋に帰った後は、あのチラシに、鉛筆で文字を書いては消して、言葉の跡を残した真っ白い紙を、透明なファイルに入れて、ぎゅっと一緒に抱いて眠っていたんです。お父さんから妹を守るために。私が我慢しなきゃだめなんだって。
いつか、これはただの悪い夢で、目が醒めて、家族で幸せに暮らせる日が、来るからって、ずっと思い込んで、――
高校、行かせてもらえなかったんです。恵子を産むためでした。その代わり、妹は全寮制の学校に通わせてもらえて、卒業と同時に家を離れて、今頃はきっと幸せな結婚生活を送っていることだろうと思います。私も幸せな結婚がしてみたい。その羨ましさを、うっかり、お父さんに漏らしてしまったことがあります。
「お前が幸せになれるのなら、行ってもいい。」
お父さんは、静かにそう言っただけでした。
恵子たちも大きくなって、私はお父さんが紹介してくれた仕事場で働き始めました。職場には優しい人たちばかりでした。若いのにしっかりしてるね。頼りがいがあるね。あなたって美人よね。それまで世界には、私に怒鳴って、暴力をけしかける人しかいないと思っていました。だから私は、その職場が大好きになりました。
半年くらい前に、私は同僚の男の子に告白されたんです。あなたのことが好きです。付き合ってくださいって。でも、私には、私には、あなたみたいな、素敵な人と結ばれる資格なんて、許されていないんです。だって私は――。
私は、その人に全部を話してしまいました。今まで自分が受けてきた仕打ち。今まで抱かされ続けてきた気持ち。子どもがいるということ。学校にも行けなかったこと。私なんかと付き合ったら、あなたは不幸になってしまうということ。何もかも隠さず、全部を話しました。
「君は、ずっと1人で、そんな苦しみを背負い込んでいたのか・・・。」
彼は私を優しく抱きしめて、言いました。
「大丈夫。これからは僕が、君と、君の娘さんたちも、みんな守る。」
それから彼とは交際を続けていて、プロポーズされたのは今からちょうど1週間くらい前です。私は足取り軽く、るんるんとした気分で家に帰って、このことをお父さんに報告しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「若い男ができたってのか!出ていくなら出ていけ!お前らが幸せになれないように一生苦しめてやる!今から相手の家に行ってぶっ殺してやる!」
その日のお父さんは、仕事が上手くいかなかったようで、機嫌が悪く、酷いお酒浸りになっていました。
「どこまでも追いかけてやるからな!俺は頭にきてるんだ!子ども3人とも俺が殺して、お前も呪い殺してやる!俺は赤ん坊のとき親に捨てられたんだぞ!17才のときに上京して苦労して稼いで、苦労して稼いだその金でお前を育てきたのに、お前はずぅーっと、俺をもてあそんでたんだな?このばいた女!」
私はひたすらに、いわれのない暴言をぶつけられ、息ができなくなるまで殴られました。
「お前まで俺を捨てるんだな。」
バダン!とドアが閉められる大きな音の裏で、お父さんはボソッと言って出て行きました。私はただ自分の惨めさと、あちこちの痛さに耐えて泣くばかりでした。
眠れませんでした。お守りがなかったからです。
「ちがうのに。あなたが、離れてくれないだけなのに。」
チラシの裏に鉛筆で書いては消していた私へのメッセージは、数年前からお父さんへの恨み言に変わっていました。最初は「ひどい」とか、「許さない」程度で済んでいたのに、ひとたび「死んでください」と書いてしまうと、そこからは際限なく恨みが溢れて止められなくなるんです。
チラシと包丁を一緒にポストに入れたのは、口で言う勇気は無くても、紙に書くことならできちゃうからです。それに、ポストにチラシを入れた犯人が私だなんて、きっとお父さんは気が付きません。そこまで頭は良くないんです。でも、もしあの手紙がお父さんの目に触れていたら、何か少しだけでも、あの人の中に変化が生まれていたのかなって。
いつか、これは夢で、目が醒めて、家族で幸せに暮らせる日が、来るからって、ずっと思い込んで、でも、私の骨も、私の心も、もう完璧に折れてしまいました。私は暴力を浴びすぎて、体が少しも動かせないんです。
「私が、憧れてた、普通の、女の子としての人生、もう、送れなくなっちゃった。」
お母さんのお話は、家中から聞こえてくる慟哭や絶叫に、ほとんどかき消されていました。さっきからずっと家中で泣いていた何かが、大きな声で一斉に泣き始めたのです。私は話の間、ずっと拳を握って、怒りで体を震わせていました。
「おもちゃの包丁の方は、返さなくていいんですか。」
私は自分でも驚くほどの低く、怒りの籠った声で訊ねていました。
「チラシだけ欲しいの。包丁は要らないわ。」
「でも、これはあなたのものです。」
「そんなナイフじゃ、人は殺せないわ。それにね――。」
お母さんは、そこで言葉を切りました。そして、首を振りながら、続けました。
「きっと、あなたに私の気持ちなんて分からない。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私はチラシをお母さんに返して、恵子ちゃんをお隣のご婦人さんに引き渡し、独りで肩を落として、歩いて帰りました。
その日の夜遅く、恵子ちゃんの家は火事に遭いました。火はすぐに消し止められましたが、家屋の内部が激しく燃えていて、車が突っ込んでいたことなんて分からないくらい跡形もなく燃え崩れたそうです。
瓦礫の平地となった火災跡からは、真っ黒に焦げた身元不明の1人の遺体が発見されていて、その口にはこれも真っ黒に焦げた紙らしきものが詰め込まれていたそうです。娘さんたちはお隣に避難していたので、全員無事でした。ですが、甲野幸雄さん(50)、甲野乙子さん(29)の 2人との連絡が取れなくなっています。
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