第1章 おもちゃの包丁事件

これは君に任せるべき仕事だ。

根拠のない不安や漠然とした不安のことなら私たちに、いつでもお任せください。たとえ空が落ちて来ないか心配する人のためにでも、ちょっとでも不安をほどくお手伝いができるかもしれませんから。それこそが、探偵のお仕事なのです。


西の磨りガラスから入り込む陽の光で部屋が橙色に染まる頃に、私たちは2人のお客さんをお迎えしました。


「はい、こちらホットのブレンドです。」

「ありがとうね、ごめんなさい、喫茶店みたいな入り浸り方しちゃって。」

「いえいえ。コーヒーを飲みに来てくださいと言ったのは私ですから。ところで、そちらの子は娘さんですか?」

「お隣さんの子なの。恵子ちゃん、飲み物はいらないの?」

「いえ、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。」


ご婦人はソーサーからカップを持ち上げ、口に傾けました。音のない温かなため息を吐きながら、微笑んで言いました。


「いつもありがとうね、探偵さん、とてもおいしいわ。」


探偵さんは会釈をしただけで、何も言わずにまたキッチンに戻ってしまいました。あれに比べたら、恵子ちゃんはまだ小学生なのに、とてもしっかりしています。三人姉妹の長女さんなのだそうです。


「これが、家のポストから、出てきたんです。」


恵子ちゃんが机の上におもちゃの包丁と、とある講演会のチラシを置きました。チラシの裏面には、不細工な薄い文字で[これで死んでください。]と書かれています。おもちゃの包丁にはもちろん切れ味がないので、これで誰かを刺し殺すことは不可能です。


「学校から帰ってきて、ポストを覗いたら、それが入っていたんです。」

「その時、私、外で掃除しててね、恵子ちゃんが包丁を持ってたからびっくりしちゃったの。」

「それで私たちのところに。警察には行かなかったんですか?」

「そうねぇ。でも警察の人たちって、おもちゃの包丁がポストに入ってて怖いです、って言って動いてくれるほど暇じゃないと思うのよ。」


私たちだって暇なわけじゃないですけど。


「恵子ちゃんは、こういう手紙や包丁を送りつけてきそうな人に心当たりはある?」

「ないです。誰がどうしてこんなものをポストに入れたのか、全然分からないです。」

「このことを他には誰が知っていますか?」

「恵子ちゃんのお母さんだけかしら。探偵さんに相談しに行くにも、お断りは入れないと誘拐になっちゃうでしょ。」

「なるほど、分かりました。他に、気になったことはありませんでしたか?」

「あっ、このおもちゃ包丁と、手紙には切手が貼られておらず、誰かが、直接ポストに入れたものだと考えられます。あと、近所の方々にも許可を取って、軒先のポストを確認して回っていたのですが、包丁や同様の手紙がポストの中から見つかることはありませんでしたし、受け取った方もいませんでした。つまり、このメッセージは、私たち家族、もしくは私たち家族内の誰かに対してに書かれたものだと思います。」

「・・・すごい、探偵さんみたい。でも、今回はたまたま恵子ちゃんの家が選ばれただけっていう可能性も、まだ否定しうるだけの材料がないかな。」

「うむむぅ~。」


恵子ちゃんは頭を抱えてお客さん用ソファーの中で丸くなって悩み唸りを始めました。


「はっ、そうだった!あっ、あの、ごめんなさい、宿題をやらないとなので、今日は帰ります。」


急に思い出したように立ち上がって、立ち上がったその場で、深くゆっくりとお辞儀をしました。


「勉強、頑張ってね。えっとでは、今回の相談者様も便宜上、奥さまでよろしいですか?」

「構わないわ。これ、お代ね。」

「ありがとうございます。またお越しください。」

「やっぱりあなた、接客向いてるわよ。助手さんの仕事は大変だと思うけど、頑張ってね。」

「はい、頑張ります!」


例の包丁と手紙は事務所で預かることになりました。そして、ご婦人は恵子ちゃんを連れて帰られました。その時ようやくキッチンに避難していた成人男性のほうの探偵さんが応接スペースに戻ってきたので、私は座っていたロッキングチェアを譲り、机を挟んだ向かいのソファーに腰かけました。


「事情は聞いてましたよね。」

「うん。」

「この包丁と手紙がポストに入れられていた理由は何だと思いますか。」

「まあ、君たちが話していた通り、殺意や恨みの表明か、単なる悪戯のどっちかでしょ。」

「どっちなんですか?」

「僕に聞かれても。」

「はぁ、探偵さんはこの包丁と手紙を見て何か思うことはないですか?」

「まずさ、手紙って呼ぶのやめよう。」

「あっ、そうですか。チラシ、ですもんね。チラシと包丁。」

「うん。光沢のあるペラペラのチラシ紙。そこにわざわざシャーペンか鉛筆で文字を書いている。」

「確かに・・・」

「まるで、このチラシしかなかったみたいでしょ。光沢処理されてなくて書きやすい普通紙にすれば良かったのに。」


私はそう言われてチラシの内容を確認しました。[性被害に遭った女性たちに伝えたいこと]と題した講演会のお知らせでした。


「手書きのメッセージよりも、そのチラシ自体が重要そうだけどさ、それってどんな意味がありそう?なんで性被害に関わるセミナーのチラシなの?」

「私に聞かれましても。」

「じゃあ、この包丁は単なるイタズラ。以上で調査終了。それで良い?」

「ぜったい駄目です。」

「どうして?」

「私たちの仕事は、依頼人に安心してもらうことだからです。」

「手短で分かりやすい。いいね。ここで調査を放棄しても、あの子たちは正体不明の殺意に怯えながら生活しなければならないままだからね。よし。」


探偵さんが私をお母さん指で差します。


「決めた。それじゃ、こうしよう。これは君に任せるべき仕事だ。」

「なんでですか?」

「君の方がやる気があるから。」

「探偵さんには無いんですか?」

「あると言っても、君は信じる?」

「はあ、やる気があるなら例えば・・・ほら、筆跡鑑定してくださいよ、ホームズみたいに。」

「バカ言わないでくれ。」

「できないんですか?」

「できないよ。だって今はワープロの時代じゃん。僕にとって手書きのテキストは最も匿名性が高い。逆に君の方が得意なんじゃない?」


そう言われて私は、たった10文字の文章とにらめっこを始めました。解読に数秒を要するような汚い文字になっているのは、何度も消しゴムで消した跡の窪みに引っ掛かってデコボコしているからでした。


「このメッセージを書いた人は、何度もこの言葉を消しては書き直しています。」

「つまり生半可な殺意ではないと。」

「それに、これだけ消して書き直してを繰り返しているのに、チラシにシワ1つ出来ていないんです。きっと、ゆっくり小刻みに、丁寧に消していたのだと思います。」

「確かに。とても10年くらい前のチラシとは思えないよね。」

「10年前ですか?あ、本当ですね。えっ、すごい。」

「今気づいたのか。そういうところ、観察の詰めが甘いね。」

「詰めが甘くて悪かったですね。でも、ここまでの推理が正しいとすれば、恐らくこの殺意は恵子ちゃんのお父さんに向けられたもの、ということになります。」

「じゃあ、差出人は誰?」

「10年前に性的暴行をされた女性が、加害者である恵子パパの住所を突き止め、これらのチラシと包丁をポストに投函したという感じです。どうでしょうか。」

「つまり、10年前に関係を絶った浮気相手が犯人ってことね。」

「・・・ないですね。」

「ないない。アガサ・クリスティじゃないんだから。」


私は頭を抱えて唸りながら、ソファーの中で丸まりました。

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