環は刃を当てれば切れるんだ。

藤井由加

プロローグ 空回り事件

時間が解決してくれるんだ。

私が助手を務めている探偵さんは、もの静かなお方です。私が依頼人さんの対応をしている間は一言も、一単語すらも口にしないまま事件がおしまいになることも珍しくありません。この日曜日の朝早くにやってきたお客さんの前でも、探偵さんは一度たりとも口を開きませんでした。


「ちょっと探偵さん、聞いてるんですか!?」

「ええ、はい、この人はこう見えて人の話はちゃんと聞くタイプなので・・・。」

「あなたには訊いてないわよ!ねえ探偵さん、なんとか言ったらどうなの!」


探偵さんが私を見上げる目には、なんとかしてよ。と書いてあります。


「ええと、旦那さんを探して欲しい、というのがご依頼でしたよね?」

「そうよ!もう1週間も家に帰ってきてないの!さっさと探してちょうだい!」

「ですからそのためには何かしらの手がかりがないと・・・。」

「だから、そんなの持ってきてないって言ってるじゃない!」


私は探偵さんを、なんとかしてよ。の目で見下ろします。その目、私のため息。


「あの、コーヒーでもお淹れしましょうか?」

「あら、いいの?お願いするわね。えっ?」


探偵さんが席を立って、キッチンの方に向かっていきました。


「では幾らか質問させてください。旦那さんは普段、何のお仕事をされてるんですか?」

「えっ、ええ。ええっと、一般商社の営業課で働いてるわね。とくに面白くないわよ。よくいる普通の冴えないサラリーマンなんだから。」

「そ、そうなんですね・・・。あと、旦那さんが家に帰ってこないとのことですが、そのことについて警察には相談されましたか?」

「するわけないじゃない。浮気調査なんて税金でするものじゃないわ。」

「なるほど、依頼人さんは旦那さんの浮気を疑っているんですね。では、何か浮気を疑う根拠とか、旦那さんの浮気の相手などに心当たりはありますか?」

「そんなの無いわ!これっぽちも、思いつかないわよ!あの人は会社でのことなんて私に微塵も話してくれないもの!」

「会社に泊まっているだけ、という可能性は無いですか?」

「残業して夜遅くに帰ってくることは今までにもあったわよ!でも会社に泊まるなら泊まるって連絡するべきだわ!1週間も泊まらせる会社も会社よ!そんな会社、今すぐにでも辞めさせなきゃ!」

「ま、まってください!まだ浮気で無いと決まったわけじゃありません!」

「・・・それもそうね。でも、浮気でないことを祈るわ。」


探偵さんが戻ってきて、3人で喫茶店顔負けの香り豊かなおいしいアイスコーヒーを飲み、今日の夜までに旦那さんを家まで送り届けるとお約束して、基本的な契約書にサインをしてもらってから、依頼人さんには帰っていただきました。


「まったくもうなに考えてるんですか今日の晩までに依頼人さんの旦那さんを見つけて依頼人さんのお家まで送り届けなきゃならなくなったじゃないですか結局手がかりは皆無に等しいですし本当に何してくれちゃってるんですか?」

「僕は今日中に見つけるなんて一言も言ってないけど。」

「目がそう言ってたんですっ。」

「理不尽だな。」


探偵さんは安楽椅子に深く腰掛けたまま、ケラケラと軽く笑いました。


「ほら、まだ午前中なんですから。今から探しにいきましょう。あんだけ大口を叩くってことは、何かアテがあるんですよね?」


探偵さんは口を閉じて、静かになりました。顔は笑っていました。


「あの、探偵さん?笑ってる場合でも、くつろいでいる場合でもないんですけど。」

「決めた。それじゃ、こうしよう。僕らが何もしなくても、時間が解決してくれるんだ。」

「はぁ、何を言ってるんですか?」

「旦那さんは実は直近の1週間も家に帰っていた。ただそれが奥さんが寝た後のこと、そして奥さんが気がつくよりも早い時間に家を出発していただけのことなんだよ。相当重要な仕事を抱えているのか、単純にタスクの量が多いのかは分からないけど、奥さんの心配は取り越し苦労。今日にでも仕事が片付いて久々に早く帰れるだろうね。どう?」

「付き合ってられません。私は探しに行きますからね。」

「どうぞ?ご自由に。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


近年の日雇いアルバイト産業の成長は著しいものです。履歴書を用意しなくても、予めアプリに個人情報を登録しておくだけで、色んな仕事に応募できちゃうんですからね。私は一般商社の清掃員として社内ビルに潜入しました。そしてエレベーターの中で、依頼人さんに見せてもらった写真と同じ人物、旦那さんと鉢合わせました。その人はまもなく降りて行ってしまったものの、とても機嫌が良さそうに鼻歌を歌っていました。


掃除のアルバイトを終え、そこから片付けをして、お給金をもらって、エレベーターで降りて、会社のビル向かいにあるオープンカフェに入る頃には、16時20分頃になっていました。私はお店オリジナルブレンドのアイスコーヒーを単品で頼みました。550円。


「うーん・・・。探偵さんのコーヒーのほうが、おいしいかなぁ。」


店員さんたちに聞こえないようにそんなことを呟きながら、私は商社ビルの入口をじっと睨み付けていました。コーヒーはもう、いつでも飲み干せるくらいの量になって、私はストローで氷を回してカラカラと遊びながら、あ、お会計は先に済ませてありました。それで、いつでもお店を飛び出せる状態で張り込みをしていました。


依頼人さんの旦那さんがビルから出てきたのを見てコーヒーを飲み干したのは17時のことです。あの人、今日は定時で帰れるみたいですね。さっきエレベーターで見かけたときみたいに、落ち着いたリズミカルさで腕を振って、機嫌良さそうに歩いています。私は尾行を始めました。


「なんか今の私、探偵っぽいかも。」


地下鉄に乗って、帰り途中の人が多く降りる住宅街近くの駅から流れのままにどこかへ向かっていきます。だいぶん手練れです。歩みに迷いやためらいを全く感じません。私は拳を握って今すぐにでも殴りかかってしまいたい衝動を必死に抑えました。


カバンを持った仕事帰りのサラリーマンや、自転車に乗った遊び帰りの小中学生や、買い物帰りの主婦さんたちや、部活終わりの高校生たちの群れの中で、私と、私が尾行している依頼人さんの旦那さんだけが、家に帰ろうとしていないのです。


しばらくして、旦那さんが建物に入っていきました。特に変哲の無さそうなお家です。調査報告書のために住所をメモします。えっとえっと・・・あれ、このお家の住所、依頼人さんのお宅の住所と一緒だ・・・。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


色々と迷った挙句、私は依頼人さんのお家のインターホンを押しました。


「はい、どちら様でしょうか?」


男の人の声でした。旦那さんです。


「一般探偵事務所の藤井由加と申します。」

「えっ?」


インターホンのマイクから離れたところで、ご夫婦で何やら話しているみたいです。少し待つとドアが開きました。出てきたのは依頼人さんであるご婦人でした。


「探偵さん、この度はお騒がせいたしました。ぜんぶ私の早とちりだったみたいです。」

「いえいえ、私は何もしていません。旦那さんが無事に帰ってきたようで良かったです。」


旦那さんも外に出てきて、私の顔と奥さんの顔を何度も見比べていました。状況が飲み込めて居なさそうです。あと私は探偵さんではなくて、あくまで助手ですし。


「あの、探偵さん?は何の御用でこちらに?」

「あなたの捜索を頼まれてたんですよ、旦那さん。」

「僕ですか?」

「はい、連絡もせず1週間も家に帰ってこなかったあなたを探してと・・・。」

「ちょっ、ちょっと待ってください。僕はちゃんと毎日家に帰ってましたよ。」

「夜遅くに帰ってきて、朝早くに出て行くといった調子にですか?」

「はい、この仕事には部長への昇進がかかってたんです。寝てる暇なんてありませんでした。」


昼間見た旦那さんの機嫌が良かった理由はそれであるようです。まったく、とんだ無駄骨です。早とちりもいいとこですよ。ほんとにもう。


「えっと、謝礼金はいくら払えばいいのかしら・・・?」

「お金はいりませんよ、と、言いたいところですが、そうですね、コーヒーのお代だけ頂戴してもよろしいですか?3人前で2000円です。」

「それはもちろん払いますけど、本当にそれだけで良いの?確かにコーヒーはおいしかったのだけれど。探偵さんたちにはご迷惑をおかけしちゃって・・・。」

「いいんです。私たち、調査という調査はしていませんから。」

「あらそう・・・。あの、晩ご飯は一緒にいかが?ちょうど出来るところなのよ。」

「いえ、今日はこれで失礼させて頂きます。またいつでも、コーヒーを飲みにいらしてください。」

「ええ、ぜひ。あの探偵さんのコーヒー、そこらの喫茶店のものよりおいしかったもの。」


私は今回の依頼人さんたちと別れて、事務所兼自宅への帰途につきました。日が長くなってくる時期ではあるものの、すっかり暗くなってしまって、あちこちの家から夕食のおいしそうな匂いがしてきます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「ただいまでーす。」

「お疲れ様、どうだった?」

「どうもこうも、全部、探偵さんの言うとおりでした。」

「そうでしょう、そうでしょう。」


探偵さんはケラケラ笑って、両手の掌を事務机の上に拡げました。


「なんですかその手。」

「報酬金、あるでしょ。」

「ありますけど、ほら。」

「・・・なにこの2000円。」

「コーヒー代です。働かざる者にお給金はでません。社会の摂理です。」


探偵さんはお金を机の上に落として、両腕を上げました。お手上げのポーズです。


「うへぇ、名探偵も楽じゃ無いなあ~。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る