第6話 濃霧警報

朝起きたらラジオのスイッチを入れるのが僕の日課だ。

ダイヤルは地元のラジオ局。すぐにアナウンサーの声が聞こえてくる。

「・・・全域に濃霧警報が出ています。お出かけの方、今朝は見通しが悪く足元も危険ですが・・・下ばかり見ず、おでかけください。また車で移動される方は安全に十分ご注意ください・・・」

ラジオを聞きながら、これも日課のカーテンを開けて窓の外を眺める。

・・・やはり景色なんて見えない。窓に映るのは真っ白な霧。霧。霧。

僕の住む街では、手探りで進まないと行けないんじゃないか?と、思うほどにこんな濃霧の朝がある。


「下ばかり見ず、おでかけください。」

ラジオのアナウンサーの言葉がなんとなく耳に残った。


朝食を済ませ、部屋のドアを開ける。

階段を降り、アパートの門を抜けたら道もわからないほど真っ白な世界。

足元を見れば、なんとなく歩道の縁石や建物の壁が見える。

それを頼りに歩を進める。

「下ばかり見ず、おでかけください。」

そういうのは簡単なんだけどなぁ。


しばらく歩くとようやく、最寄り駅に続く商店街に入る。

ここまで来ると両脇の建物の影がわかるようになる。

街灯はまだ灯ったまま、駅までの道を示してくれていた。

「下ばかり見ず、おでかけください。」

街灯に照らされて、道のそこここに人影が見えた。

真っ白な世界に街灯の光が刺し、人の形の影を作り出していた。


ここまで随分と時間がかかっている。

いつもの通勤電車に乗るなら急がないと。気が焦る。


濃霧はかすかに人の影を見せる。

でも歩いて行くと、人影は移動したのだろうか、ぶつかることはない。


駅の階段が見えた。駅にたどり着き、肩のこわばりが抜けていく。

濃霧の中を歩くのは流石に緊張するのだろう。

安堵を感じながら階段の手すりに手をかけた。


「なーみょーほーれーげーぎょー じゃーはーだいーにー・・・」

駅の階段を上がり始めたとき、カンカンドンドンと鐘や太鼓の音と念仏を唱えるような声が聞こえ、だんだんと近づいてきた。


しかし通勤電車がホームに滑り込むブレーキの甲高い音がして、僕は慌てて階段を上がった。


「おや、まだ残っているのかい?今日は濃霧警報が出ているよ、早めに帰るように指示していたはずだが・・・急いで片付けなさい。」

「すみません、じゃあ切りのよい『今日はすぐに帰りなさい。君が帰らなければ僕も帰れない!』・・・はい」


少し焦ったような上司に会社を追い出されると、景色は真っ白だった。

夕暮れ時は過ぎている。空は真っ黒なのに、濃くて深い白い霧が続いていた。


アパートの近くの最寄り駅。

階段を下り、改札を抜けると駅前の商店街はいつもの賑わいもなく、静かにそして朝と同じように濃霧に包まれていた。

買い物客で賑わうはずの商店街はシャッターを降ろし、シャッターのないお店は固くカーテンが閉められている。

耳が痛いほどに静かで、そして真っ白だ。


そんな街の中を照らす街灯の下には霧の中に影が立っている。

朝と同じだ。


「下ばかり見ず、おでかけください。」


あれはこのことなのかと思いながらも、ここを通らねばアパートには帰れない。

なるべく人影を見ないように歩くことにした。


「なーみょーほーれーげーぎょー じゃーはーだいーにー・・・」

念仏とカンカンドンドンとにぎやかな鐘や太鼓。そして段々と音は大きくなり、ゆっくりとだがたくさんの足音も聞こえてきた。

濃霧でほとんど視界が遮られている商店街の道を何かがやって来る。


念仏が大きくなり始めると、街灯の下の人影はフラフラと音のする方に向かって移動していた。気がつけば街灯の下にはもう影はなく、すべて音の方に行ったようだった。


それに見つかってはいけないと、頭の中で誰かが囁いていた。

僕もそう思う。

いつもそう思った。

僕は隠れる場所を探した。

すぐそばの商店に駆け寄る。

シャッターに手をかけたが開かない。

大声で助けを乞うのは、いちばんまずいはず。

僕はお店の前に積んであったダンボール箱の後ろに隠れた。

息を止めて。悟られぬよう。

目を閉じて。なにも見ないよう。

存在を消して。なにもないように。


濃霧の商店街をエコーがかかったような鐘や太鼓の音と念仏の声が、僕の隠れたダンボール箱の山の前を通り過ぎていく。

大勢の喧騒の塊は遠ざかって行き、それらは振り向くこともないだろうと感じた。

薄目を開けると、街灯の下に立っていた影も音と一緒に遠ざかっていくのが見えた。そしてゆっくりと一団に引きずられて行くように濃霧も薄れたような気がした。


「危ないところだったねぇ。」

「!」

突然の声に驚いた。

僕の後ろのシャッターがわずかに上がっている。

中はよく見えないが、女の手がシャッターを持ち上げているようだった。


「あんた、よくあれについて行かなかったねぇ。」

「びっくりしてなにがなんだか。・・・ついていったらどうなるんですか?」

「さあ?わからないねぇ。ついていったやつらは二度と見てないからね。」

「あれはなんなんでしょう?お坊さんとは違うのですか?」

「なんだろうねぇ。念仏に聞こえるようだけどありゃただのモノマネだしねぇ。」


話をしながら周りの様子を見る。

どうやらここは、仕事の帰りにたまに買い物をするスーパーマーケットのようだ。


「どうだい?あれがまだそのへんにいるかもしれないよ。店を開けるからちょっと寄ってくかい?こっちのほうがだよ?」

「いえ、霧も晴れてきたし、僕も帰ります。」


シャッターの隙間から覗く緑色の手の返事も待たずに別れを告げて、僕は急いでアパートへと歩き始めた。

スーパーマーケットのシャッターの奥は真っ暗だった。

闇だった。

あれはいつものレジのおばちゃんじゃない。

なにか別のの声だ。


今日は静かに眠れるだろうか。

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