第12話 レイシアス人は、狩りをする

 はあ、はあ、はあ。

 はあ、はあ、はっはっはっ。

 苦しい。窒息しそうだ。水の中を、逃げているみたいに、わたしは、必死に逃げる。足がもつれて、なかなか、前に進まない。夢の中で、追われるように、足がぬかるみにはまり、もがいているようだ。

 階段を、よじのぼるように、上っていく。

 袋の鼠だと、分かっていても、逃げるしかない。剃刀で、全身を切り刻まれる姿が脳裏を過り、恐怖に慄く。

 こんなことが、現実に、あるはずがない。あってはならないことだ。

 今日来た女性たちは、最後には、みな殺されてしまうのだろうか。最後には、ばらばらにされて、どこか山奥の地中深くに、埋められてしまうのだろうか。

 信じられない。受け入れがたい、現実だ。ならば、これは夢なのだ。夢に、違いない。

 向こう側から、体中、血まみれの女が、走ってきた。髪を振り乱し、ひっきりなしに悲鳴を上げ、倒れては起き、倒れては起きながら、こちらに向かってくる。

 その背後から、グイーーーンと不吉な機械音が谺している。廊下を踏み鳴らす音。しわがれた奇声。チェーンソーを、御幣のように振りながら、蟹股でひょこひょこ飛ぶように、老人が、女を追いかけていた。

 わたしは、あわてて、近くにあったトイレに駆け込んだ。恐怖で、ぶるぶると体が震え、歯ががちがちと鳴った。チェーンソーの音が、強烈な耳鳴りのように、鼓膜を圧した。心臓が、止まりそうだった。

 木慈でもいい、隆太でもいい、わたしを助けて――。

 チェーンソーの音が、遠ざかっていく。その代わりに、コツコツ、とゆったりとした足音が、間近に、迫ってくる。

 久留麻先生だ!

 どうしよう。もう、逃げられない。これでは、本当に、袋の鼠だ。

 わたしは、急いで個室に駆け込み、震える手で錠を掛けようとした。どうしようもなく手が震えて、なかなか錠がうまく掛からない。

 !!!

 違う、この錠、壊れてる。いや、壊されているのだ。錠が掛けられないよう、あらかじめ壊されていたのだ。

 扉一枚、隔てて向こう側に、久留麻先生のいる気配。声を押し殺して、笑っているような。扉が、ゆらっと、少しだけ開いた。そのわずかな隙間から、久留麻先生の端正な顔が、寸断された絵画のように覗いた。目が、にゅるにゅる、とミミズが這うように、笑みの形を作る。

 それから、扉が、一気に開けられた。さあっと、血生臭いような匂いが、鼻先を掠めていく。

 わたしは、ぶるぶると、首を振った。久留麻先生の白衣は、なぜか、血で汚れていた。

 わたしは、がくりと膝を落とし、その場にひざまづいて嗚咽した。嗚咽している私の髪の毛を、上からガシッと、久留麻先生が掴み、無理矢理にわたしを立ち上がらせる。

 「叫べよ、ほら。恐怖に慄きなさい。わたしを、興奮させなさい」


 その久留麻先生の言葉に、わたしの意識は暗転した。わたしは、表舞台から、消え去った。


 「ぎゃは、きもいなお前、下衆下衆下衆」

 目の前の、香川江梨子の表情が、突如変わったのを見て、彼は、すぐに悟った。

 そうか、人格が、入れ替わったか。

 「誰だね、君は。わたしのお気に入りの江梨子くんは、どうしたんだ? 脇役に用は、ないんだが」

 香川江梨子の副人格として、彼が把握しているのは、およそ六人。その中に、こんな言葉使いをする副人格は、いないはずだった。男か、女かすら、さだかでない。

 「ああん? そうだっけ。お前とは、初対面だったな。あんたさあ、エリエリの話、覚えてる?」

 久留麻紀一は、目の前の、やけに余裕たっぷりな人格を前に、ちょっと遊んでやろうかなと考えた。いたぶる時間は、いくらでもある。副人格など、一時的な自我の補強材料でしかない。状況が、手に負えないとなったら、すぐに引っ込むのが、おちだろう。

 「話とは? さあ、なんだったかな」

 ふふん、と目の前の女は、鼻を鳴らし、髪を掴んでる彼の右手を、万力のような強い力で、ガッチリ掴んだ。

 「レイシアス人の話、しただろ? あんた、全く、信じてないようだったけど。せっかく、エリエリが打ち明けた話、信じてやんなきゃ、駄目じゃない」

 レイシアス人? ああ、そういえば、また、一人、凶暴な人格が増えたとかなんだとか。いや、たしか宇宙人に憑依されただとかいう話だったが、妄想の一つとして――

 うん?

 「レイシアス人は、狩をするんだよ。特に、下衆の脳味噌が大好物らしく――」

 顔が、女の顔が、異様に歪んでいないか? 額の辺りから、まるで両側に皮膚が広がっていくような。

 パカリ、と女の額が、割れた。

 へ?

 久留麻紀一は、その光景を、驚きと恐怖の感情とともに、ぽかんと眺めていた。逃げよう、という意思が働く直前の、何が起きているのか分からない、という混乱を過ぎると、急速に、逃げろという本能からの指示が、洪水のように押し寄せてきた。

 この女の手を振りほどいて逃げ—―

 久留麻紀一の思考は、そこで止まった。

 割れた額から、黒紫色をした、ぬるぬるとした触手が幾本も伸びてきて、彼の額と眼球を貫いたのだ。

 うぐっと、彼は声にならない声を発し—― 

 ちゅるちゅるちゅる、と触手が、脳味噌をすする音が響いた。

 久留麻紀一の顔から、眼球が消え、黒い穴が虚ろに覗き、やがて、どさりと彼は、前方に倒れ込んだ。

 その倒れ込んでくる久留麻の体を、さっと避けるようにして、きたねー触れるんじゃねえ、とすでに復元した顔で、彼女は吠え、トイレの個室から外へ出た。そして、呟いた。

 

 「久しぶりの外界も悪くないじゃない。ねえ、エリエリ」

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