第11話 狩りの始まり

 ビイイイっと、耳をつんざくような、笛の音が鳴った。階段を駆け下りていたわたしは、その音で、あやうく階段を踏み外しそうになった。

 スタートの、合図だろうか。

 踊り場に立つと、はあはあと、わたしは、浅い呼吸を繰り返した。パニック症状が、起こり始めている。どうしてだろう、こんな日に限って、誰も、わたしに代わってくれる人格はいない。

 とにかく、いまは、わたしがこの体を守るしかないのだ。私自身を。わたしが、わたしの主人なのだから。現実から傷つけられ、逃避するたびに増えてきたわたしたちは、いまは、一体となっているのだろうか?

 もしかして、これが、久留麻先生の言っていた、統合なのだろうか。

 あれは、久留麻先生の演技?

 どたどたどたと、階段から、誰かが下りてきた。髪を振り乱した女性が、恐怖に顔を引きつらせて、わたしの方へと向かってくる。

 その女のただならぬ表情に、危険を感じたわたしは、あわてて階段を下りはじめた。髪を振り乱した女性は、ひっと小さな悲鳴を上げ、さきほどまでわたしがいた踊り場に、ダイビングするように飛んだ。花柄浅黄のワンピースが、ふわりと、空中で広がった。

 どさっという音がして、女が踊り場に突っ伏すようにして、固まった。そのすぐ後に、もう一人の女が、ほらはよ逃げ、と言いながら降りてきた。ボンテージファッションの妖女だった。

 わたしは、階段の端に体を寄せ、亀のようにじっと固まっていた。

 これは、何?

 あれは、演技なんかじゃないでしょ? 

 ワンピースの女が、うう、ううと呻いている。打撲、あるいは、骨折でもしているのかもしれない。ボンテージ女が、呻く女の長い髪を鷲掴みするように掴み、持ち上げた。女が、ぎゃっと悲鳴を上げた。

 ボンテージ女は、そのまま髪を掴みながら、花柄ワンピースの女を、壁際に押し付けた。

 「不思議ちゃん!不思議ちゃんったら、今日は、どんな痛い目にあいたいのよ?」

 不思議ちゃん? そういえば、花柄ワンピース女の格好は、年相応という感じではなかった。身に着けたアイテムひとつひとつが、どれも小学生じみている。胸にキャラクターもののリボン。頭にもキャラクターもののカチューシャ。

 不思議ちゃんと呼ばれた女が、突然に、わんわんえーんえーんと大声で泣き始めた。ほんとうに、小学生みたいだ。

 「泣いたって駄目。だーれも、助けには来ないわよ」

 ボンテージ女が、突き放すようにして女の髪の毛を離した。不思議ちゃんは、その反動で尻もちをつき、また、ぎゃっと悲鳴を上げた。

 すると、どうしたことだろう。不思議ちゃんの表情が、明らかにさきほどまでとは打って変わっていた。すがめられた目。目じりに寄った皺。ゆっくりと顔を上げて、ボンテージ女を、睨み上げた。そのしっとりと、落ち着いた雰囲気は、老婆に近かった。

 「おまえ、誰なんだい?」

 そのとき、わたしは、確信した。この女の人も多重人格者なんだろうと。

 ばばああああ、とボンテージ女が、怒声を上げ、鞭を振り上げた。そして、嫌々をするように首を振っている、不思議ちゃんを容赦なく打擲しはじめた。不思議ちゃんの人格が、目まぐるしく入れ替わっているのか、表情も面を入れ替えるように、変わっていく。

 バシッ、バシッと、鞭が生身の体を打つ音が、響いた。背中、顔、足と、鞭の軌道は縦横自在に動いた。

 女は、ひゃあひゃあと、悲鳴を上げながら、口から泡を吹き始めた。体を亀のように丸め、ひゃめてひゃめてとあぶくをまき散らしながら、こちらの方へと、這いずってくる。ボンテージ女は、その無様な動きを見て、自分の体をまさぐるように撫で上げ、うっふーんと、漫画みたいな嬌声を発し、ほら逃げろ亀女、といって尻を蹴り上げた。

 不思議ちゃんの尻が、跳ねるように上がった。その勢いで、不思議ちゃんが、わたしの方へ向かって、階段を転げ落ちてきた。

 恐怖に竦んでいたわたしの体が、それで目覚めた。わたしは、一目散に逃げ始めた。一階までノンストップで駆け下りた。あまりの、急激な動きに、心臓が悲鳴を上げていた。耳鳴りがするほどに、胸を打つ。

 ビルの一階まで降りると、わたしは、はあはあ言いながら、ビルの入り口へと向かった。

 早く、早く、と心が急いていた。後ろを振り返りながら、ボンテージ女が追ってきてないことを確認する。廊下の角を曲がれば、受付があり、そこを過ぎれば、ビルの入り口だ。

 しかし、廊下の角を曲がって、受付の方へ視線を向けたとたん、わたしは絶望に、沈んだ。ビルの入り口を塞ぐように、スキンヘッドの男が、立っていたからだ。

 スキンヘッドが、わたしの姿を視界に入れた。のしのし、とこちらに向かって歩いてくる。引き返すしかなかった。スキンヘッドの体からは、明らかに凶暴なオーラが滲み出ていた。

 引き返せば、ボンテージ女と遭遇する恐れがあるが、そんなことは言ってられない。

 わたしは、踵を返し、もときた通路へ逆走を開始した。さきほどの、階段の登り口まできたとき、ワンピースを剥ぎ取られ、上半身裸になった不思議ちゃんがどさりと、落ちてきた。顔面を床にしたたかに打ちつけ、はぎゃあーーと、凄まじい悲鳴を上げた。全身を、鞭で何度も打たれたせいか、体中にミミズ腫れが出来ている。

 不思議ちゃんは、四つん這いになって、わたしの方へ近づいてきた。うーうーと、ひっきりなしに呻いている。口からは、涎と血を流し、ゴホっと咳き込んだ瞬間、血まみれになって折れた歯が、廊下に転がった。

 もう、口中、血まみれだった。その血まみれの口で、あああすけてええ、あすけてええ、と喉を潰されたような声で、わたしに訴えかけてくる。

 わたしは、恐怖で、体が竦み、全身が凍り付いたように、動けなくなってしまった。

 「ほーら、まだまだ、お楽しみはこれからだよ」

 鞭をぶんぶん、振りながら、階段の上から、ボンテージ女が下りてきた。ああ、逃げなきゃ、逃げなきゃ――。

 がしっと、何かが足首を掴んだ。不思議ちゃんの右手だった。不思議ちゃんが、あの老婆の顔で、わたしを、見上げた。

 「だずげでええええ」

 ぶはっと、老婆が血潮を吹き上げた。その飛沫が、わたしの顔めがけて飛散した。一瞬、何が起きたのか分からず、わたしは茫然と立ち尽くしながら、右手でごしごしと、顔を拭いていた。きたない、きたない、わたしの涙と、老婆に吐きかけられた血の混じった唾で、ますます顔が汚れた。ぷん、と異臭が鼻をつく。

 すでに、ボンテージ女は、すぐそばまでやってきていた。

 「おや、美人さんのお顔が、ぐっちゃぐちゃ」

 ボンテージ女の視線が、わたしの顔から胸と、嘗め回すように移動する。淡いグリーンに、紺のアクセントをつけた今日のシックな衣装が、女の視線で剥ぎ取られていくようだ。そうして、わたしの露わになった胸の頂に、鞭が、鞭が・・・・・・。

 わたしは、小さく悲鳴を上げ、足に絡みついた、不思議ちゃんの右手を、もう一方の足で、がしがしと踏みつけた。ぎゃっぎゃっぎゃっと、踏みつけるたびに、不思議ちゃんが呻く。ようやく、不思議ちゃんの右手が、足首から離れた時は、ボンテージ女が、わたしのさらさらな髪を撫でていた。

 「奇麗な娘。でも、残念、あなたは、わたしの獲物じゃないもの」

 レザーグローブから半分露出した右手が、わたしの眼前に、ゆらり、と移動した。深紅に塗られた尖った爪が、獲物を捉えんとする食虫花ように、わたしの顔に迫ってきて、がしり、と私の両頬を挟んだ。

 「ああ、でも、この顔を嘗め回したい。きれいにしてあげたい。駄目? うっふーーん」

 ボンテージ女からは、得も言われぬようないい匂いがした。それが、なおさら恐怖を倍増させ、わたしはがくがくと、足を震わせていた。

 「だめだ。その女は、わたしの獲物だよ、紗季江」

 聞き覚えのある、優しい声が、わたしの耳朶をくすぐった。ああ、久留麻先生、助けに来てくれたんだ。でも、わたしの獲物って?

 「あら、久留麻先生、分かってますわ」

 鉤爪のような右手が、ぷにぷにするように、わたしの頬を揉んだ。爪が食い込んできて、頬を抉られるような痛みを感じる。

 「羨ましいわねえ、あなた。久留麻先生に、遊んでもらえるなんて」

 ぺっと、女がわたしの顔に、唾を吐きかけた。

 「思う存分、いたぶってもらいなさいよ」

 そう言うと、ボンテージ女は、わたしの頬をぱんぱんと、軽くはたいた。それから、廊下を這いずりながら逃げていく不思議ちゃんの方へと、ほらはよ逃げはよ逃げと言いながら、すたすたと歩いて行った。


 わたしの目の前には、白衣姿の久留麻先生が、いた。いつもの、あの優しい眼差しで、わたしを見詰めている。

 ああ、久留麻先生。わたしは、久留麻先生を、信じているわ。久留麻先生が、あのボンテージ女のようなことを、するはずがない。そんなこと、絶対に、ありえない。

 いつからか、わたしは、久留麻先生のことが、好きになっていたのだ。

 いま、ようやく、気付いた。久留麻先生は、ここからわたしを、救い出すために、ここへやってきたのだ。

 久留麻せんせ――

 ばしっと、わたしの頬が、はたかれた。

 え? 

 さらに、続けざまに、ぱんぱんと往復びんたを食らう。

 痛い・・・・・・。

 「君たちみたいな、病み女をいたぶるのがね、わたしの趣味でね。そのために、しばらくの間、信頼関係を築いてきたのだよ。ぞくぞくするじゃないか。わたしのことを、救い主とでも、思っていたか? アハハハハハハ」

 久留麻先生の笑い声が、廊下にこだまする。とても、嫌な、笑い方だ。こんなの、久留麻先生じゃない。何かが、間違ってる。

 「さあ、逃げなさい。逃げないと、面白くないから。ほら、これで傷つけられるのが嫌だったら」

 久留麻先生は、そう言うと、白衣のポケットから、剃刀を取り出した。廊下の電灯の光に反射して、刃先が、きらりと光った。

 一体、何が、起きているんだろう。久留麻先生が、こんなことするはずがないのに。わたしは、混乱した頭で、必死に考えていた。

 そうだ! そうに、決まっている。これは、サイコドラマなのだ。あの、不思議ちゃんは、このサイコドラマをよりリアルにする演者に違いない。みんな、演者なのだ。今日の主役は、このわたし、一人。久留麻先生・・・・・・こんな大掛かりな仕掛けまで作って――。

 っつ痛! そのとき、わたしの頬に、鋭い痛みが走った。わたしは、反射的に、痛みの走った頬を、右手で抑えていた。ぬるっとした感触が、指にまとわりつく。

 それが、血だと分かったのは、目の前で、久留麻先生が、剃刀をくるくると回していたからだ。その刃先が、うっすらと赤く染まっている。

 いやいやいやいやああああ――――

 わたしは、悲鳴をあげ、目に涙を浮かべ、廊下を走っていた。背後から、久留麻先生が、追ってくる気配がする。久留麻先生の、あの嫌な笑い声が、わたしの背中を叩く。さあ、逃げろ、逃げろ、逃げろ。

 狩の始まりだ、と。


 

 

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