第10話 ハプニング

 三階の多目的ホールは、がらんとした印象だった。その広さに比べて、パイプ椅子の数は少なく、十脚ほど一列に並べられたパイプ椅子と向かい合うように、ホワイトボードが立てかけられていた。

 パイプ椅子には、すでに、三人の女性が両脇と、真ん中近くに座っていた。

 わたしと麟は、右端よりの椅子に並んで、座った。

 まだ、久留麻先生も、講師陣も、一人も来ていないようだった。予定時間まで、あと二十分ほどだった。そのうち、ぱらぱらと、他の参加者もやってきた。みな、女性だった。

 席がほとんど埋まり、三時五分前くらいになると、久留麻先生が姿を見せた。久留麻先生のあとから、スキンヘッドの男性と、背の低い、目に痛いほどの派手な格好をした老人が部屋の中に入ってくる。老人は、黒い手提げのバッグを持っていた。

 それから、受付にいた、あの妖艶な雰囲気を醸し出した女性も中に入ってきた。今度は、顔がはっきりと見えた。怖いくらいの美人だが、どこか爬虫類の雰囲気を思わせる、得体の知れなさがあった。右頬に、えぐれたような傷がついているのが、そう思わせるのかも知れなかった。

 彼女も、何かの役を演じるのだろうか。

 久留麻先生が、ホワイドボードの前に立ち、みなに挨拶をした。他の三人は、久留麻先生から少し離れたところに、三人並んで、立っていた。

 挨拶が終わると、久留麻先生は、ホワイトボードに何かを書き始めた。

 キュキュキュっと、マジックがホワイトボードを擦る音。

 ハプニング

 それが、久留麻先生が、書いた文字だった。

 「人生には、どんな出来事が起こるか分かりません。予想もしないことが、時に起こることもある。予定通りにいく人生なんて、逆につまらないかもしれません。みなさんは、人生で、予期せぬハプニングに遭遇し、心に傷を負ってしまった。けれど、これからだって、人生にハプニングはつきものだと、考えてみてはどうですか。そして、それも、人生の中で起こるドラマだと考えるのです。今日は、みなさん、最高の演技をしましょう」

 久留麻先生が、満面の笑みを、浮かべた。

 なぜだろう。わたしは、その笑みを見て、なぜか、久留麻先生はいつもと何かが違っているな、と思った。とても、興奮しているのが、手に取るように感じられた。

 わたしは、他の三人の方へと、視線を泳がせた。小柄の老人の、細く光るような目が、参加者を嘗め回すようにきょろきょろと動いた。

 肌が粟立つのを、感じる。わたしは、さっと隣の燐の方へと視線を向けた。燐も、何か妙な気配を感じているらしく、そわそわした様子だった。

 「ねえ、何か、おかしくない?」

 わたしは、小声で、燐に尋ねてみた。燐は、唇をきっと引き結んで、小さく頷いた。

 今日、このビルの中にいるのは、いま椅子に座っている参加者八人と、向こう側にいる四人だけ。ふいに、その現実が、重くのしかかるように、心に迫ってくる。

 バン、と久留麻先生が、ホワイトボードを、叩いた。

 「筋書きのない、ドラマ。今日、君たちには、狩りの獲物になってもらいます」

 え? 久留麻先生は、何を言っているのだろう?

 狩りの獲物?

 狩りの獲物とは、わたしたちのことだろうか? 

 バン、と久留麻先生が、もう一度、ボードを叩いた。

 わたしは、びくっと体を震わせた。

 その音を、合図にしたように、老人が、黒い革鞄から、何かを取り出そうとしていた。受付にいた女性が、マントを翻すように、ローブを脱ぎ去った。その下から現れたのは、黒革のボンテージコスチュームに身を纏った、肉感的なボディ。

 そのとき、参加者の何人かが、ひきつるような悲鳴を上げた。それに合わせるように、老人の持った小ぶりなチェーンソーが、ぶーんと唸りを上げた。ボンテージコスチュームの女の右手には、鞭が握られていた。

 「三十秒間、待ってあげましょう。さあ、ドラマのスタートです!」

 え????

 混乱で、頭がパニックになりそうだった。

 燐が、わたしの手を引っ張った。逃げよう、という意思表示らしい。すでに、ドラマが、始まっっているということだろうか。こんな、唐突に?

 それに、あの老人は、どうしてチェーンソーなどを振り回しているのだろう。にたにたと、いやらしい笑いを顔に浮かべて。

 女が、バシンと、鞭で床を叩いた。弾かれたように、わたしは椅子から立ち上がり、直立不動の姿勢を取った。体が、棒のようになってしまった気分。

 「ねえ、早く」

 燐が、隣で、わたしの腕を揺すっていた。

 久留麻先生の、カウントダウンンの声が聞こえてくる。その声の、少年のような陽気さが、わたしの心に、危険信号を灯した。

 さあ、おまえを可愛がってやるよ、と言って、近寄ってきた義父の声の調子に似ていた。

 どうして?

 どうして、いつもいつも。

 わたしは、燐の手を振りほどくようにして、一目散に逃げ始めた。

 もう、誰も、信じられない。燐だって、仲間かもしれない。

 木慈、隆太、出てきてよ。わたしの代わりに、対処してよ。こんな時に限って、誰も出てきてくれないんだから。

 凛音、あんただっていい、あんただっていいから。

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