【完結】スナック『海猫』(作品240412)

菊池昭仁

スナック『海猫』

第1話

 富山は猛暑だった。デッキに出て荷役当直をしていると、滝のように汗が流れてくる。

 あと1時間で当直が終わる。15年ぶりの富山である。富山の新湊には母校があり、学生の頃から新湊には友人たちとよく飲みに歩いたものだ。

 俺の心は高鳴っていた。だが裕子はもういない。

 

 カナダのキチマットから太平洋を渡り、アルミニウムのインゴットを積んで富山新港へ入港した。

 ここで荷揚げが完了すれば、また今度の航海も、オーストラリアのグラッド・ストーンでアルミナを積み、カナダのキチマット、そしてアルミニュウムを積載して再び日本への航海だった。

 真夏の日本から一週間で冬のオーストラリアになる。

 船乗りの季節は目まぐるしく変わってゆく。



 新湊は北陸の小さな漁師町ではあったが、様々な工場もあり、飲み屋も多い。

 仕事を終え、シャワーを浴びて新湊の街へ出た。

 心地よい夏の夕暮れ、祭囃子が聴こえていた。

 神社の境内けいだいで盆踊りを踊る、浴衣姿の女と子供たち。

 沢山の夜店も出ていて賑やかだ。


 俺はそこを横目で見ながら素通りをして、昔食べた寿司屋で軽く鮨を摘まみ、日本酒を飲んで飲み屋街を散策した。

 土曜日の夜ということもあり、街は酔客たちで賑わっていた。

 俺は学生の頃によく通ったスナックを探したが、既にその店はなく、別の名前に変わっていた。

 そのスナックの看板には『海猫』と、ブルーの下地に黄色の文字で描かれていた。

 所々ペンキが剥がれた、チョコレート色の古い木製のドアを開けるとデュエットソングの定番、石原裕次郎と牧村旬子の『銀座の恋の物語』のカラオケが流れていた。


 「いらっしゃいませー!」


 カウンターには50代くらいの美熟女と、俺と同世代らしきホステスがいた。

 俺はカウンターに座った。



 「お客さん、ウチは初めてだよね?」


 どうやらこの熟女がママのようだ。

 ママが冷たいおしぼりを手渡してくれた。俺はそれで顔と手を拭いた。さっぱりとして気持ちが良かった。

 海外の飲食店ではお冷もおしぼりも出ては来ない。

 おしぼりを最初に始めたのは日本航空だと言うが、これも日本の「おもてなし文化」としてすっかり定着している。


 「この店は以前、『シャーロック』だったと思うんだけど?」

 「あらやだ、『シャーロック』のお客さんだったの? 『シャーロック』は私の姉がやっていたんだけどね、病気で死んじゃったのよお。

 それで10年前に私がこの店を姉から引継いだの。名前を『海猫』に変えて。

 へえー、姉の時に来てくれていたんだあ。私もたまにお店を手伝っていたんだけど、会わなかったわよね?

 何年前に来てくれていたの?」

 「高校生の頃からだから、もう20年くらい前になるかなあ?」

 「おませさんだったのね? もっともあの頃は、そんなのんびりした時代だったけどね?

 私はその頃、真面目に主婦をして、お母さんだったのよ。お飲み物は?」

 「ボトルは何がある?」

 「ダルマとリザーブ、あとはロイヤル」

 「じゃあロイヤルをボトルで。ロックで頼むよ」

 「ちょっと蘭ちゃーん、お客さんにロイヤルをロックでお願い」

 「はーい」


 ママは常連のところへと移動し、代わりにショートボブの女が俺の前にやって来た。

 キラキラした瞳と、少し厚ぼったい、ルージュを引いた唇がセクシーな、美しい女だった。



 「はじめまして、ランでーす。お客さん、お名前は?」

 「ジョン」


 女が笑った。


 「お客さん、ワンちゃんみたいなお名前なのね?」

 「狂犬だから気をつけろよ、バウッ!」

 「じゃあ私とお似合いかもね? 私、ワイルド・キャットだから」

 「じゃあダメだな? 俺は猫アレルギーだから猫は駄目だ」

 「大丈夫よ、私もそうだから」


 私たちは笑った。

 蘭という名はおそらく源氏名だろう。会話にはどことなくウィットな知性があり、大卒のようだった。


 「お客さん、何をしている人?」

 「ヤクザ」


 その時蘭は、少し悲しそうな顔をした。


 「そんな優しそうなヤクザなんて、見たことないわ・・・」

 「ヤクザに見えないヤクザもいるもんだぜ。

 世の中には背広を来たヤクザは沢山いるからな? 銀行員とか官僚、政治家とか」

 「あはははは そうかもしれないわね? それじゃあ入れ墨とかもしてるの?」

 「ちょっとここじゃ見せられないなあ、ベッドじゃなきゃ」

 「えーっ、見たい見たい、入れ墨見たい。でも残念、私、ベッドじゃなくてお布団派だからなー。

 だったらラブホに行けばいいか!」

 「いずれにしても今日は入れ墨を家に置いて来たから、今度来る時にはちゃんと着てくるよ。入れ墨Tシャツ」

 「じゃあ私もブラジャーにアンパンふたつ、入れて来るね? 今日は私もお家にオッパイを忘れて来ちゃったの。

 本当はね、私、「ホルスタイン蘭」って呼ばれているのよ」

 「背中向けて話をしているのかと思ったよ、ホルスタイン蘭」

 「失礼ね。あはははは」

 「でも俺は貧乳の方が好きだけどな?」

 「貧乳言うな!」


 俺と蘭はすぐに打ち解けた。

 帰り際、彼女は私の耳元で本名を囁いた。


 「私の本当の名前はね? 順子って言うの。従順の「順」。また来てね? ジョン」

 「明日、また来るよ」

 「約束だよ」

 「他に行くところがないからな?」



 

 そして翌日もまた、約束通り俺は『海猫』にやって来た。


 「あらジョン、うれしいなあ、今日も来てくれたんだあ。

 さてはジョン、私に惚れたなあー?」


 順子は喜んでいた。


 「お別れに来たんだ。明日、ここを出る」

 「えっ、引っ越しちゃうの?」

 「引っ越しといえば引っ越しだな? 今度は2ヶ月後の10月にまた来るよ」

 「どういうこと? 転勤? それとも出張?」

 「俺は貨物船の航海士をしているんだ。明日、オーストラリアに向けて出港する。その後、カナダでアルミナというアルミニュウムの原料を届け、アルミニュウムを積んでまた富山に戻って来る予定だ」

 「ジョンは船乗りさんだったのね?

 ねえ、明日は何時に出港するの? 見送りに行ってあげるから」

 「13時だけどいいよ、別に無理しなくても。どうせまた秋には戻って来るし」

 「行く、絶対に行くわ。お船の停泊している場所とお船の名前、ここに書いて置いて頂戴」


 順子は俺に運転代行のメモ用紙を渡した。




 約束通り、順子は俺を見送りに来てくれた。

 富山名物の蒲鉾と「黒造り」、そして富山の酒、『銀盤』を手土産にして。



 「大きなお船なのね? 体に気を付けてね? 待ってるから絶対にまた来てよ」

 「もちろんだよ。絵葉書、送るよ。じゃあ出港準備があるからこれで」


 俺は順子に名刺を渡した。


 「二等航海士、寺島数馬? それじゃあ数馬、行ってらっしゃい」

 「なんだか俺たち、恋人同士みたいだな?」

 「船乗りの旦那さんを見送りに来た奥さんみたいな気分・・・。

 泣いちゃいそう」


 すると順子は本当に泣いていた。


 「ありがとう順子、また行くよ。順子に会いに『海猫』へ」

 「絶対だよ、指切り!」


 私たちは指切りをした。




 船がゆっくりと岸壁を離れて行く。

 二等航海士の俺の持ち場は船尾なので、すべてのホーサー(係留索)の巻き上げを完了すると、岸壁で手を振る順子に手を振り返した。


 韓国人のクウォーター・マスター(操舵手)のキムが言った。


 「セカンドオフィサー(二等航海士)のガールフレンドですか?」

 「まあな?」



 本船はオーストラリアを目指し、ゆっくりと日本海へと出て行った。

 順子はいつまでも手を振っていた。


 夏の潮風が、順子のセルリアン・ブルーのワンピースを揺らしていた。

 

 


第2話

 北米から日本へ向かうルートは大圏航路を取るため、台風の季節になると大時化しけの北太平洋を進むことになる。

 大荒れの白くなった海を、木の葉のように揺れながら大波へと突っ込んでゆく本船は、アリューシャン列島沖をもどかしく航行していた。

 激しい波の衝撃が船体を軋ませ、上下左右に船を揺らした。

 乗組員たちはシェイカーに入れられ、シェイクされているようだった。

 船首に砕かれた波しぶきがブリッジの全面ガラスを覆った。ワイパーも効きめがないほどだったので、私はスクリーン・ヴュー(回転窓)から見張りをしていたほどだった。

 レーダーには数隻の船が映っていた。

 

 この時期のベーリング海域は「低気圧の墓場」になる。

 あまりに時化が酷い時にはべーリング海へ逃げ込むのだが、まだそれほどまでではなかった。

 レーダーに映っていた、小さな遠洋漁船を視認した。

 俺は小林多喜二の『蟹工船』の冒頭を思い出していた。



 「おい、地獄さ行くんだで」

 ふたりはデッキに寄り掛かって、カタツムリが背伸びをしたように伸びて海を抱え込んでいる、函館の街を見ていた。



 そうだ、北の海は真に地獄だった。

 日本のプロレタリア文学の代表作、『蟹工船』

 本船のような2万トンクラスの大型船でも恐ろしい嵐の海で、300トンほどの漁船はのたうち回り、叫び狂っていた。

 俺はそんな命知らずの漁師たちに、「がんばれ」と心の中でエールを送った。


 重いアルミニュウムのインゴットを積んだ本船は、重心が下がるために復原力は強くなる。ゆえに転覆の危険は少なくはなるが、復原力が強い分、乗り心地は最悪だった。

 本船はすぐに起き上がるダルマのような状態になっていた。

 それでも丸太をデッキまで積載し、重心が高く、ゆっくりと揺れる木材運搬船よりはマシだった。

 復原力が弱くなると乗り心地は良くなるが、「転覆」の危険度は上がる。

 


 クォーター・マスターのキムが言った。


 「この船はキレイな船だけど、乗り心地は No good ですよ」


 俺とキムは苦笑いをした。



 

 キャビンに戻りラジオを点け、電波チューニングをしていると、遂に日本のラジオ電波を受信することが出来るようになった。

 日本は近い。予定ではあと5日で日本の沿岸に出るはずだ。そう思うとホッとした。




 最初の揚陸地は小名浜港だった。2ヶ月ぶりに順子に電話をした。


 「ハイ、スナック『海猫』です」

 「2ヶ月前に飲みに行ったジョンだけど、蘭か?」

 「数馬なの! もう富山に戻って来たの!」

 「いや、まだ福島なんだ。明日、小名浜を出るから3日後の金曜日にお前に会いに、店に行くよ。

 俺のボトル、まだ残っているか?」

 「当たり前でしょう! ちゃんと残してあるわよ。

 気をつけてね? 待ってるから」

 「それじゃ金曜日の夜に」

 「うん! お船まで迎えに行ってあげるから、富山に着いたら教えてね?」

 「悪いな? 助かるよ」


 久しぶりに順子の声を聞いて俺は欲情した。

 今回も長期の航海だったから仕方がない。

 


 小名浜港の荷役バースに接岸し、ハッチを開けて荷役段取りを終えた私たちクルーは街へ繰り出すことにした。


 「取り敢えず、小名浜のソープで抜いてからスナックだな?」


 俺たちは歩いて行ける港近くの風俗へと出掛けた。

 小名浜のソープランドは地元では有名だった。




 「お兄さん、いい体してるわね? 漁師さん?」


 石鹸を泡立てながら、少しポッチャリした40代位のソープ嬢だった。

 腹には妊娠線があった。


 「いや、普通のサラリーマンだ」

 「そう? 小名浜には出張?」

 「ああ、明日には帰るんだ」

 「奥さんとか彼女さんは?」

 「別れた」

 「じゃあ相当溜ってるわけだ?」

 「よろしく頼むよ」

 「まかせて。スッキリさせてあげるから」


 普通の男にとって、風俗はクリニックのようなものだ。

 風邪を引いて熱や咳が出ると医者に掛かるのと同じ感覚なのだ。

 優良な子孫を残すためには新鮮で、元気な精子が不可欠だ。

 何もしなければ自然に溜って夢精してしまう。

 ゆえに男は「なんらかの形で」射精しなければならない。


 女はそれを「浮気だ!」と騒ぐが、男からすればそれは臨床検査技師に採血をされたり、マッサージでカラダの凝りをほぐしてもらう行為に過ぎない。

 もちろん相手も同じ気持ちだ。それは単なる「仕事」なのだ。そこに恋愛感情はない。

 工場勤務の女工のように、眼の前の作業に集中するだけなのである。


 愛のないセックス。

 それは女のカラダを使ってするマスターベーションのようなものだ。

 男の性欲は能動的で、女のそれは受動的だ。

 欲望が満たされた男は冷静になる。いわゆる「賢者タイム」がそれである。


 俺は病気を貰うわけにはいかないので、キスもオーラル・セックスもしない。

 あくまでゴムを使う行為に留める。




 スッキリした。これで順子にガツガツ迫ることもない。

 何事に於いても「余裕」が大切だ。




 俺たちは小名浜のソープで溜った性欲を吐き出すと、スナックで酒を飲んでカラオケを歌い、ラーメンを食べて船に戻った。

 

 (早く順子に会いたい)


 

 翌日、本船は日本海を南下して富山へ向かうため、津軽海峡に向けて太平洋沿岸を北上した。


  


第3話

 秋晴れの富山新港に接岸した。風が冷たい。秋の気配がした。

 私は荷役段取りを終え、順子に電話を掛けた。


 「富山新港に入港した。迎えに来てくれるか?」

 「もちろんよ。20分ほどで着くから待ってて」

 「ああ、気をつけてな?」



 

 30分ほどして順子がやって来た。

 髪型を整え、化粧をばっちりとキメていた。

 おそらくは昨日、俺に会うために美容院へ行ったのだろう。かわいい女だ。


 「ごめんなさい、おめかししていたら遅くなっちゃった」

 「髪、少し伸びたんだな? よく似合っているよ」

 「ありがとう。ロングの巻毛、好きでしょう? 伸ばしたのよ、数馬のために。カラーも少し栗色に染めてみたの。どう? いいと思わない?

 数馬も一段とハンサムになったわね? とっても素敵よ」

 

 

 順子のクルマの助手席に乗り、俺はオーストラリアで買ったチーズとバターの缶詰と、カナダで買ったキングサーモンの燻製、そしてカンガルーの毛皮で作ったコアラの縫いぐるみと、18金のネックレスを順子に渡した。


 「これ土産みやげだ。このバターは塩分が強くて美味いよ。このスモークサーモンは小分けにして冷凍しておくといい」

 「ありがとう! こんなに沢山!」


 順子はネックレスの入った小箱を開けて言った。

 

 「丁度欲しかったのよ! 18金じゃないの! 素敵なネックレス! ねえ着けてくれない?」


 順子は俺に背中を向けると、髪を持ち上げて白いうなじを見せた。その色っぽさに俺はゾクッとした。

 ネックレスを彼女の首に着けてやった。

 とてもセクシーな香水の香りがした。


 「着けたぞ」


 順子は髪を下ろし、俺に向き直ると俺の首に腕を回し、熱いキスをした。


 「すごく会いたかった、頭がヘンになるくらい寂しかったんだから・・・」


 順子はそう言って甘えた。


 「俺もだよ」

 「待ってる女って、辛いものなのね?」

 「待たせている男も辛いもんだぜ」

 「このままお店を休んで?」

 「『海猫』のママに悪いよ。ママにもチーズとワインを買って来たんだ。

 それにママにも儲けさせてあげないとな?」

 「それじゃあ続きは後でしてね? 絶対だよ。溜っているんでしょ? アレ?」

 「まあな?」


 小名浜のソープで抜いてもらっていて良かったと思った。

 女にガツガツする船乗りは粋じゃない。

 俺たちはクルマの中で軽いペッティングを続けた。



 運転をしながら順子が訊いた。


 「いつまで富山にいられるの?」

 「富山で休暇にしたんだ。引継ぎは終わったから、明日から2,3ヶ月は富山に居ようと思っている」

 「だったらウチに来れば? 宿泊費タダだから。あはははは」

 「いいのか? 彼氏とか、大丈夫なのか? 突然出て来て、ブスリはゴメンだぜ」

 「いないわよ、そんな人。これでも私、一途なんだから。愛した男にまっしぐら!」

 「一途かあ。古いな? 今どき」

 「重いかな? 私」

 「うれしいよ、ありがとう。順子がバカで良かった」

 「私、「数馬バカ」だもん」

 「それじゃあ俺は順子バカだな?」


 俺たちは笑った。



 

 店に着いた。


 「ママー、同伴出勤だよー」

 「あらジョン君、お久しぶり! 良かったわね? 蘭ちゃん。恋焦がれていたマドロスさんと再会出来て。

 この子、いつもあなたのことばかり話していたのよ。「今頃どこにいるのかなあ」ってね?」

 「最高の気分! もう絶対に離さないんだから。ロックで良かったわよね?」

 「覚えていてくれたのか? 折角の旨い酒を水で薄めて飲むなんて、俺たち船乗りはしない。 

 それに船乗りにとって水は貴重だ。ママ、これみやげ。オーストラリアのワインとチーズ。バゲットにオリーブオイルと塩、プロシュートがあれば尚いいな?」

 「ありがとう! チーズもワインも大好き! ゆっくりしてってね?」

 

 順子はカウンターに入り、酒の用意を始めた。


 「もう少ししかないな? 新しいボトルを入れてくれ」

 「同じロイヤルでいい?」

 「ああ」

 「毎度ありー」

 「あはははは」



 学生時代の記憶が甦る。


 (裕子・・・)


 裕子とはバイト先のファミレスで知り合った。

 富山大学に通う彼女はインテリ美人だった。

 彼女とは縁があった。


 学校のある、海老江練合えびえねりやのバス停から路線バスに乗ると、偶然彼女と遭遇した。

 裕子はマーガレットの鉢植を大事そうに膝の上に乗せていた。


 「今から帰り?」

 「うん、凄い偶然だね? 確率論からすると・・・」

 「確率的には奇跡だな? 綺麗な花だな? マーガレットか?」

 「うん、お部屋に飾ろうと思って」

 「花が好きな女に悪い奴はいない」

 「数馬君は? お花、好きなの?」

 「俺は「花を好きな女」が好きだ」

 「・・・」


 裕子は頬を桜色に染めた。初めての告白だった。

 俺は裕子の隣に座り、お互いに学校の友だちの話をした。

 

 「それじゃあ俺はここで降りるから」

 「うん」

 「今度、バイトが休みの時、ボウリングにでも行かないか?」

 「私、やったことがないわ」

 「大丈夫。俺が教えてやるから」

 「それなら・・・、行く」

 「水曜日の18時、富山ボウルの前で待ってるよ」

 「うん、わかった。水曜日の18時。富山ボウルの前ね?」


 俺たちはそうして付き合うことになった。




 「どうしたの? ボーッとしちゃって? 金髪女のことでも考えていたんでしょー? このスケベ!」

 「スケベじゃない男は男じゃないぜ」

 「そんな白人女のことなんか、私のテクニックで忘れさせてあげるから、覚悟しなさいよ! うふっ」

 「何か歌ってくれよ、今流行っている新しい曲」

 「秋の曲がいいわよね? うーん、『旅愁』とかどう? 西崎緑の?」

 「随分古いな?」

 「だって今はそんな気分だから」


 切ないイントロに、胸が締め付けられた。

 

 「ちょっとトイレ」


 順子はマイクを持って歌いながら頷いた。

 俺は裕子を思い出し、トイレで泣いた。


 


第4話

 順子の家は古い賃貸マンションの最上階、5階にあった。

 エレベーターはなかった。


 「ごめんなさいね? このマンション、エレベーターがないのよ。

 でも凄く安いのよ。この一帯はヤクザや夜の商売の住人が殆どで、あまり一般人は近づかない場所にあるから」

 「ヤクザも夜の人間も同じ人間だ。ただ人より少し、苦労が多いだけだ」

 「流石は船乗りさん、寛大ね? 人を見た目で判断したり、差別しないんだ?」

 「人は見た目だ。考えが人相に出る」


 俺はそれ以上言うのを躊躇った。

 陽気な順子が時折見せる、悲しい横顔の理由が、このスラム街に潜んでいるような気がしたからだ。


 

 「ここが私の家。どうぞ上がって」


 玄関はキチンと掃除が行き届いていた。狭い廊下には本棚があり、沢山の文庫本でいっぱいだった。

 順子の後について部屋の中に入って行くと、俺は更にその蔵書の多さに圧倒された。


 「凄い本の数だな?」

 「置くところがなくて困っちゃうの。どんどん増えちゃって。

 古本屋にでも売ればいいんだけど、捨てられないのよ。

 本の匂いっていいでしょう? 特に古い本は尚更。手放せなくってね?」

 「まるで図書館だな?」

 「子供の頃から本が友だちだった。あまり外で遊んだりしない子供だったから。

 休み時間はいつも本ばかり読んでいたわ。図書館が私の憩いの場所だった。

 母が読書が好きな母だったの。その影響もあると思う」

 「お母さんは亡くなったのか?」

 「うん、5年前にね?」

 「順子は大卒か?」

 「一応ね?」

 「文学部か? どこの大学だ?」

 「明治の文学部よ」

 「凄いな?」

 「昔の話よ。ねえ、お腹空かない? うどん食べる?」

 「懐かしいなあ。富山のうどんか?」

 「うん。あのぐるぐるの蒲鉾と、とろろ昆布が入ったやつ」

 「悪いな? 疲れているのに」

 「疲れるのはこれからでしょ? うふっ」



 順子はエプロンを着け、キッチンに立った。

 キッチンも冷蔵庫も整理整頓がなされていた。

 人の頭の中が周囲の状況だと言う。散らかっている家に住んでいる人間は、精神状態もそれと同じで錯乱している人間が多い。

 順子の聡明さが窺えた。


 「テレビでも見て待ってて。すぐに出来るから」

 

 俺はテーブルの上のリモコンでテレビを点けた。

 深夜放送の番組は、どこの局も通販などの下らない番組ばかりだった。

 BGM代わりにNHKの音楽だけのヨーロッパの映像に切り替えた。

 スイスの登山鉄道が映し出された。


 「数馬は海がない、スイスみたいな外国にも行ったことがあるの?」

 「スイスはないな? 山はキライじゃない。

 学生の頃、よく立山に登ったよ」

 「立山って星が綺麗だよね? 「星が降る」っていうけどさあ。本当に星が降って来そうだった」

 「俺も見たよ。数分に一度、流れ星が流れて人工衛星が飛んでいるのが見えるもんな?

 また見てみたいなあ」

 「でも今はもう立山は雪だから、5月連休まで待たないと駄目ね?」

 「いつか一緒に登ろうな? 立山に」

 「うん、いつか登ろうね? 一緒に星を捕まえに。うどん、出来たよ」


 俺たちはダイニングテーブルに座り、うどんを食べた。


 「この味この味。いい出汁が出て、実になめらかなうどんだ。

 何年ぶりだろう? 富山のうどんを食べたのは。旨いよ、とても旨い」

 「良かった。でも市販の出汁だけどね?」

 「料理には「愛情」という調味料が必要だ。料理は食べさせたい相手への愛だからな? ありがとう、順子」


 俺はとろろ昆布をツユに溶かし、勢いよくうどんを啜った。




 食事を終え、俺たちは一緒に風呂に入った。


 「引き締まったいい体してるのね? ここもカチンカチンになってる」

 「お前がそうさせたんだろう? 何とかしろよ」

 「ハイハイ、じゃあ肩まで浸かってね? カラダ、洗ってあげるから」

 「順子は俺だけのソープ嬢だな?」

 「そうよ、数馬の専属ソープ嬢」



 浴槽から出ると、順子がスポンジにボディソープを付け、丹念に俺のカラダを洗ってくれた。


 「はい。こっちを向いて頂戴」


 順子は俺のペニスを愛おしそうに洗い、シャワーで泡を流し、膝をついてそれを咥えた。

 今までのどの女よりもテクニシャンだった。


 「大丈夫? 痛くない?」

 「上手いな?」

 「だって元ソープ嬢だもん、そりゃあ上手いわよ」

 「どうりで上手いわけだ。それじゃあ今度は俺がお返ししてやるよ。浴槽の縁に座ってごらん」


 順子は恥ずかしそうに少しだけ足を開いた。

 知性と教養に裏打ちされた、女のエロスは美しい。


 「もう少し開かないと舐められないよ」

 「恥ずかしい・・・」

 「綺麗だよ、順子のここ」

 「ばか・・・、でもありがとう、うれしい・・・」


 俺は熟れたピーチにむしゃぶりつくように、淫らな音を立てそこを啜った。


 「あっ、ダメ・・・、もう、イッちゃいそう」

 「いいよ、イッても」

 「イクっ!」


 短い呻き声をあげ、順子のカラダがガクガクと痙攣をした。


 「早くベッドへ行きましょうよ。生理前だから凄く欲しいの・・・」



 俺たちはベッドへと移動した。

 順子は別人のように俺を求め、俺も順子を貪るように愛した。


 「はあ はあ 凄く締まるな? はあ はあ 順子の、ここは?」

 「あ あ あう うん もっともっとよ、 あ あ ぐっ あ ああ」

 「はあ はあ・・・」


 行為の最中、男は口数が少ない方がいい。 「いいのか? ここがいいのか?」などと言う男は、女にとっては興冷めでしかない。

 だが女の場合は別だ。男にとって女の感想は男の欲情を刺激し、行為に没頭させるからだ。

 順子のやや低い、タバコと酒、カラオケで少しハスキーな声が、更に俺を行為に駆り立てた。


 「凄い、凄いの。こん、なの、初めて・・・、うっ はあ あう あああ・・・」

 

 俺は更に腰の動きを加速させ、そのまま順子に口づけをした。


 「お願い、いっしょ、いっしょに・・・」

 「出すぞ」

 「来て!」


 俺は順子が硬直したのを見届けると、素早く膣から自分を抜き去り、順子の腹部に射精した。


 「お顔にかけて欲しかったなあ」

 「いいのか? そんな理知的な顔にかけて?」

 「もちろんよ」


 俺が順子に放出したザーメンをティッシュで拭き取ると、順子はゆっくりと起き上がり、俺のペニスを咥え、頭を上下させた。


 「お口でキレイにしてあげるね?」


 俺は順子の頭に軽く両手を添えた。

 それは久しぶりの「愛のある行為」だった。




第5話

 夢で目が醒めた。裕子の夢を見た。

 夕暮れ、俺は裕子とふたりで渚を歩いていた。だが裕子の手の感触がない。


 「船を降りることにしたよ。一緒に暮らそう、裕子」


 裕子は黙っていた。

 そして歩いて海に消えて行った。


 「裕子!」



 順子が俺の顔をやさしく撫でてくれていた。

 

 「裕子って昔の彼女? それとも今の?」

 「ごめん、以前付き合っていた女だ。夢に出て来た」

 「そう? 愛していたの? その人のこと」

 「・・・。死んだんだ、5年前に飛行機事故で」

 「そうだったんだ。何年付き合ったの?」

 「12年。19の時に総曲輪のバイト先で知り合ったんだ」

 「12年かあ。長いね? 結婚しようと思ったの?」

 「アイツが死んだのは俺のせいなんだ。俺がフランスのディエッペ港で交代下船する時に、彼女をパリに呼んだんだ。新婚旅行の前倒しをするために。

 俺たちはその時の休暇で俺が日本に帰国したら、結婚するつもりだった。

 俺たちはしあわせの絶頂に近づきつつあった」


 順子が俺に身を寄せて来た。柔らかい乳房が肩に触れた。


 「上手く行かないのが恋愛よ。忘れられないわよね? 彼女さんのこと」

 「一生忘れることは出来ないし、忘れたくはない」

 「忘れないでいてあげて欲しい。そして私のことも愛して欲しい」

 「いいのか? それで」

 「だってしょうがないでしょう? 死んだ人には勝てないもん。

 それに私だって数馬だっていつかは死ぬわ。絶対に。

 でも裕子さんが羨ましい。だって若くて綺麗なまま、あなたの記憶の中で生き続けていられるから。

 私もお婆ちゃんにはなりたくないもん」

 

 俺は順子を抱きしめた。


 「ありがとう順子。

 俺は酷い男だよ。裕子は俺のせいで死んだというのに、こうしてお前と愛し合っている」

 「裕子さんはずっと数馬が独りぼっちでいて欲しいなんて思っていないわよ。それに裕子さんが死んだのはあなたのせいじゃない。事故だったんでしょ? そんなの誰のせいでもないわ。

 運命だったのよ。

 人は病気や事故で死ぬんじゃないわ。寿命で死ぬのよ。

 それが裕子さんの寿命だった。

 忘れなければいいんじゃない? 私はそう思うけど。

 ちょっとオシッコして来るね?」


 順子は話の途中でベッドを降りた。

 順子は賢い女だ。これ以上話を続ければ、話が堂々巡りになってしまうと判断したのだ。


 男の場合、女との別れを自分に納得させるには、付き合った年月と同じ時間が必要だ。

 ゆえに俺には12年の歳月が必要だ。

 となると少なくともあと7年の時間が必要になる。

 

 順子と出会うまでの俺は、女と付き合うことはなかった。

 順子は不思議な女だった。ずっと以前から付き合っていた気がする。

 カラダの相性もすこぶる良かった。


 よく人は、輪廻転生りんねてんしょうをすると言うが、もしかすると俺たちは、過去で夫婦だったか? 兄妹だったのかもしれない。他人の気がしないのだ。

 


 「おまたせー。あースッキリした」

 「今日の昼は富山でメシを食わないか?」

 「いいわよ、数馬は何が食べたいの?」

 「鮨が食べたい」

 「じゃあちょっと高いけど、美味しいお店があるから行ってみる?」

 「ああ、ご馳走するよ」

 「回らないお寿司なんて久しぶりだなあ。

 それじゃあお腹を空かせて行かなきゃね?」


 順子は俺に濃密なキスを仕掛けて来た。


 「いっぱいしよ? お腹が空くように」

 「こんな風にか?」

 「いやん、そんなカンジそんなカンジ。あはははは」


 外はまだ暗かったが、小鳥のさえずる声が聴こえていた。

 夜明けは近いようだった。


 

 


第6話

 一旦本船に戻り、引継ぎをして荷物を取りに出掛けることにした。

 順子が本船までクルマで送ってくれた。



 「本船を見学して行くか?」

 「見たいけどいいの? 部外者が入っても?」

 「お前は部外者じゃない。俺の女だ」

 「うれしい」


 

 荷役が始まったので本船の喫水が上がり、アコモデーション・ラダーがやや急勾配になっていた。

 俺は順子を先に登らせた。


 「怖くないか?」

 「ちょっと怖いかも」

 「大丈夫だ、万が一足を踏み外しても俺が後ろで支えてやるから」

 「うん」


 

 海外の港では治安を維持のために現地人を舷門当直に雇うが、日本ではあまり置かない。

 順子は恐る恐る階段を登って行った。



 「こっちだ」

 「大きなお船ね? ウチのマンションより大きいわ」


 

 俺はまず、自分のキャビンで引継ぎが終わるまで、順子を待たせることにした。


 「ここで待ってろ。30分ほどで戻って来るから」

 「うん。大丈夫だからゆっくりでいいわよ」



 今度の航海で本船のチャーター契約が満了したので、引継ぎの二等航海士は中国人だった。

 流暢な英語の発音だった。



 一通り説明と引継ぎを終え、彼と一緒にキャビンに戻った。


 「ここがキャビンだ。シャワーもある。冷蔵庫は俺の私物だが使ってくれ」

 「いい部屋で良かったよ。前の船のキャビンは酷かったからな。

 冷蔵庫があるのは助かるよ」

 「それじゃ良い航海を」

 「ありがとう。彼女はワイフかい?」

 「いや、俺のSteady(恋人)だ」

 「そうか。おしあわせに」

 「ありがとう」

 「うちのダーリンがお世話になりました。お元気で」


 順子が言った。キレイな英語だった。



 「それじゃあ少し本船を案内するよ」

 「楽しみだわ。お船に乗ったのは初めて」



 エンジンコントロール・ルームとエンジンルーム、通信室を覗かせ、メスルーム(士官食堂)に案内した。

 

 「船には白人の文化や風習がそのまま受け継がれている。だから士官と部員の食堂も別なんだ。

 外国船にはBARもついていて、やはり士官と部員が別々になっている。

 家族と乗船している商船士官もいるんだ」

 「私も数馬と一緒に乗りたいなあ。そして世界中を周るの」

 「それいいな? それじゃあ最後に俺の仕事場を案内するよ」


 

 俺は順子をブリッジ(操舵室)に連れて行った。


 「見晴らしがいいだろう? ここが航海士の職場だ」

 「機械でいっぱいね?」

 「これがレーダーだ」


 俺はレーダーの電源を入れた。港の映像が映し出された。


 「へえー、こんなふうに見えるのね?」

 

 俺はレーダーの電源をオフにした。


 「それじゃあ荷物を持って順子のマンションに厄介になるよ」

 「喜んで!」




 俺たちは順子のクルマで一度マンションへ戻り、タクシーで予約していた富山市内の鮨屋に出かけることにした。


 「タクシーなんて勿体ないよ」

 「クルマじゃ酒が飲めないからな?」

 「ありがとう。やっぱりお寿司にはお酒だもんね?」



 店に着いた。『鮨人すしじん

 上品な店構えだった。カウンターは12席。


 「よく予約出来たな?」

 「まあね? 大将、お久しぶりです」

 「順子さんでしたか? ありがとうございます」


 若い大将だったが、私を値踏みするようなことはしなかった。

 かなりな一流店で修行したことが窺えた。


 「コースでお願いします」

 「どのコースにいたしましょうか?」

 「1万円のコースで」

 「かしこまりました。おまかせになりますが、何か苦手な物はございますか?」

 「俺はありません」

 「かしこまりました。お酒は召し上がりますか?」

 「ええ」

 「かしこまりました。当店はお酒とお料理がペアになっておりますので、どうぞゆっくりとご堪能下さい」

 「それはいい。とても楽しみです」


 順子に好き嫌いや酒について尋ねなかったところを見ると、既に大将には順子のデータがインプットされているようだった。



 最初は泡がクリーミーな生ビールが供された。


 先付は白エビだった。カレースプーンくらいの大きさに、30匹の白エビが使われているという。

 酒は日本酒の最高級酒、萬寿泉の『土遊野』がワイングラスに注がれた。


 この時点で俺はすっかりノックアウトされてしまった。

 うっとりしていると、梅酢あんかけの茶碗蒸しが序曲として出された。


 「ぐちゃぐちゃに混ぜてお召し上がり下さい」


 爽やかで気高い酸味に期待が広がる。


 最初の握りは越中バイ貝だった。隠し包丁が見事だった。

 口の中で程よくほどける赤酢飯。


 白エビと甘エビ、ガリ。それからアラとノドグロの湯引き。

 酒はカットグラスにいれられた、種類の異なる萬寿泉が出された。実にこの湯引きと合う。


 「あー しあわせー。ここは別世界ね?」

 「ありがとうございます。越中バイ貝の粕漬けになります。このお酒に合いますよ」

 「凄いね? 仕事柄、いろんなところで食事をしたが、ここは別格だ」

 「お客様は商社の方ですか? あるいは製薬会社さんとかですか?」

 「船乗りなのよ、この人。いい男でしょ?」

 「そうでしたか? では美味しいものをたくさん召し上がっているんでしょうね? 羨ましい限りです」

 「日本食にまさる食事はありませんよ」



 あじの握り、紅ズワイガニ、ウニ、イクラ、白子のバラちらし。

 平目の昆布〆にアオリイカ、ぶり、そして本マグロの背トロ、桜鱒さくらます、ばちこ、甘鯛にノドグロ、そして最後はカワハギの巻物と、煮穴子が供され、デザートには塩ジェラードで口直しになった。

 その間も様々な萬寿泉が出された。

 満足な食事だった。


 「ごちそうさま」

 「いい店を紹介してくれてありがとう。また来ような?」

 「うん! 大将、また来るからね?」

 「よろこんでお待ちしております」


 店主は深々と頭を下げた。




 順子と腕を組んで、総曲輪を歩いた。

 俺はまた、裕子のことを思い出してしまった。

 順子は勘のいい女だ。


 「ねえ、裕子さんともこうして総曲輪を歩いたの?」

 「・・・。ごめん」

 「別に謝らなくてもいいわよ、死んじゃった人にヤキモチは焼かないから」


 順子はそう言って笑った。

 どこからか、裕子が俺と順子を見て、微笑んでいるような気がした。


 (ごめんな、裕子)


 俺は裕子に詫びた。





第7話

 順子のマンションで同棲を始めて1週間が過ぎた。


 もちろん、ずっと一緒にいたかったが、それでは店が困ってしまう。

 順子は『海猫』の看板ホステスだったからだ。

 常連の客たちは皆、順子がママの娘だと思っていた。

 俺は順子のクルマで順子を送迎していた。

 順子が店に出ている時には掃除や洗濯、料理などをして過ごす。

 なるべく順子と一緒にいる時間を大切にしたかったからだ。



 その日もいつものように、午前零時に店に順子を迎えに行くと、閉店時間だと言うのに、男がひとり、飲んでいた。

 その男は黒のダークスーツに、エルメスのスカーフのような派手なシャツを着ていた。

 ネックレスとお揃いのブレスレッドを着け、髪は短くアイパーをかけていた。


 (スジ者?)


 男はナイフのような鋭い視線で俺を一瞥いちべつした。

 男は店の常連のようだった。

 だがただの常連ではなさそうだった。

 それはママと順子に笑顔がなかったことからも窺えた。

 招かざる客のようだった。


 (ケツ持ちのヤクザ?)


 順子は俺に目配せをした。


 (お願い、タクシーで帰るから先に帰って)


 その目はそう語っていた。何も言わずに帰ってくれと。

 ママがそれを察知して気を利かせた。


 「すみません、もう閉店なんです」


 俺は静かにドアを締め、クルマで順子を待つことにした。

 エンジンを掛けたまま、ラジオを点けて深夜放送を聴いていた。

 

 ミッシェル・ポルナレフ 『愛の休日』


 懐かしい曲だった。俺も曲に合わせて呟くように歌った。

 愛の休日。俺は順子に出会うまで、ずっと「愛の休日」だった。


 

 一時間ほどして、男が店から出て来た。

 男は俺に気づいたらしく、ゆっくりとクルマに近付いて来て、運転席の窓を軽く叩いた。

 俺はパワーウインドウを下げた。


 「降りろ」

 

 明らかに男は敵意を剥き出しにしていた。

 俺はクルマを降りる時、ポケットに手を入れ、ZIPPOライターを右手で握った。

 パンチ力を増強するためだ。アメリカの特殊部隊がよく使う手だった。


 (順子の元彼なのか? なら三発目までは我慢しよう。順子とママのために)



 いきなり殴られた。

 流石に喧嘩慣れしているようだった。急所を外して痛みを与える。

 そしてすぐに腹に蹴りを入れられた。


 「順子の男だな?」

 

 口内を切ったようだが、倒れたりうずくまったりするほどのダメージはなかった。

 どうやら男は互角だと判断したようだ。三発目はなかった。

 俺はZIPPOライターから手を離し、ポケットから手を出した。


 「お前は順子のなんだ?」

 「元旦那だ」


 大方おおかたそんなことだろうと予測はついていたので驚きはしなかった。

 そうでなければあんな場所に住むことはないからだ。


 「元旦那にしてはいきなりのご挨拶だな?」

 「順子と二度と関わるな。アイツは俺の女だ」

 「元、お前の女だろ? 今は俺と付き合っている」

 「痛い目に遭いたくなければ素直に従え」

 「亭主に言われる筋合いはない」

 「それじゃあ仕方がねえなあ。その減らず口を黙らせるしかねえようだ」

 「それはお前の方かもしれねえぜ」


 俺は男に左からパンチを繰り出した。男は案の定、それをかわした。

 だがそれが俺の狙いだった。男のアゴにアッパーカットをお見舞いした。

 男は仰向けに倒れた。


 「少しはやるじゃねえか?」

 「立て。まだお前には貸しがある」


 男はすぐに立ち上がった。

 俺はすかさず左太腿にローキックを振り下ろし、男が体勢を崩したところを派手に背負投げをした。

 男のカラダが宙を舞ったが、男はアスファルトで見事に受身を取った。


 今度は俺が回し蹴りをくらったが、左肘で危うくそれを受け流した。

 続いて男の右ストレートが俺の左頬を的確にとらえた。

 俺たちは夢中で闘った。順子を賭けて。


 

 店から順子とママが飛び出して来た。


 「やめて!」

 「お願いだからやめて!」

 「うるせえ! お前は黙って見てろ! コイツは俺が倒す!」

 「お前に倒されるほど俺はやわじゃないぜ」


 パトカーのサイレンの音が近づいて来た。


 「早くお店に入りなさいよ!」


 面倒なことになることは御免だった、俺たちは店に入った。



 

 ママが俺と男にそれぞれ冷たいおしぼりを渡してくれた。

 そしてグラスに氷をいれて、冷たい水を出してくれた。

 順子が救急箱を持って来て、俺たちに応急手当をしてくれた。

 

 「はじめて見たわ。銀次と互角に喧嘩している人。

 この人、柔道と、極真カラテ初段なのよ」

 「どうりで強ええわけだ。痛ててて」

 「おめえもよく俺のパンチに耐えたな? 普通ならあの時点で倒れているぜ」

 「俺は船乗りだからな?」

 「船乗り? まさか富山商船じゃねえだろうな?」

 「知ってるのか? 俺の母校?」

 「俺も富山商船だった、一年で中退だけどな? お前は何期生だ?」

 「12期だ」

 「どうりで喧嘩慣れしてると思ったぜ。俺は11期生だったから、お前よりひとつ上になるな?」

 「そうだったのか? ママ、俺のロイヤルを出してくれ。コイツと乾杯して、切れた口の中を消毒するから」

 「滲みるわよ?」

 「だからいいんだ。治りが早い」


 俺と男は乾杯をすると、一気に酒を飲み干した。酒が滲みた。



 「腹減らねえか? ラーメンなら奢るぜ」

 「それじゃあゴチになるか? アンタからいきなり殴られたんだからな? あはははは」


 俺たち4人は店の近くにある、深夜営業のラーメン屋へと歩いて向かった。

 腫れた頬に秋の夜風が当たり、心地よかった。

 

 


第8話

 四人で歩きながら銀次が話しかけて来た。


 「俺は黒田銀次だ。お前、名前は?」

 「数馬。寺島数馬」

 「数馬。俺とお前は今日から兄弟だ」


 (同じ兄弟だもんな?)


 俺は苦笑いをした。

 

 「さっきはいきなり殴って悪かったな? 俺はすぐに熱くなっちまう。

 瞬間湯沸かし器なんだ」

 「せめて「お前、順子の男か? この野郎!」くらい言ってから殴れよ」

 「喧嘩は先手必勝だ。富山商船で習ったはずだぜ?」


 面白い男だと思った。

 銀次と俺は似ている気がした。




 「痛えなあ、ラーメンが滲みるぜ」

 「根性ねえなあ、数馬は」

 「誰のせいだよ?」

 「お前が俺の順子に手を出すからだ」

 「馬鹿じゃないの? 私は誰のものでもないわ。私のものよ」

 「それは俺が決めることだ」

 

 銀次はそう言って、自分のグラスにビールをいだ。

 その時俺は、銀次の左手の小指が欠損していることに気付いた。


 (この極道が順子の元夫なのか?)


 俺は銀次に抱かれている順子を想像した。

 熱いラーメンスープが切れた口に滲みる。

 スープを残して俺は席を立った。

 


 「クルマを取って来る」


 俺はテーブルに一万円札を置いた。

 

 「仕舞えよ兄弟、誘ったのは俺だ。ここは俺の奢りだ」

 「そうか? じゃあご馳走様」


 俺は一万円札をポケットに仕舞い、店を出た。


 


 クルマでの帰り道、長い沈黙の後、順子が俺に詫びた。


 「ごめんなさい、私のせいで酷い目に遭わせてしまって」

 「お前のせいじゃない。銀次は素直に俺に怒りをぶつけただけだ。

 もし順子が他の男といちゃついてたら、俺もソイツを殴っているよ。

 それにちゃんと「お返し」はさせてもらった」

 「あの人は街で覚醒剤の売人に絡まれて、その男を殴り殺してしまったの。過剰防衛で懲役7年の実刑を受けて、模範囚だったこともあり、5年で仮出所になった。結婚していたこと、黙っていてごめんなさい」

 「人には言いたくないこともある。それに今は離婚しているんだから別に気にしてはいない。昔の話だ」

 「どうして私に会いに来たのか訊かないの?」

 「訊いて欲しいのか? いきなり殴られたんだ、おおよその見当はつくよ。銀次はまだお前のことを愛しているはずだ」 

 「お別れに来たの。旅に出るんですって」


 (組長のために服役でもするつもりなのか?)


 「もちろんもう私を愛してはいないはずよ」

 「男は未練で出来ているようなもんだ」

 「別れてくれって言ったのはあの人の方だから」

 「でも、キライじゃないんだろう?」

 「・・・。でも今はもう無理」

 「どうして?」

 「数馬に会ったからに決まっているでしょ! 数馬のバカ!」


 順子は運転している俺の肩に泣き崩れた。


 「もう愛してなんかいないわ。女は立ち直るのが早いものよ。

 でも放ってはおけない。あの人は独りぼっちだから。本当は寂しい人なのよ」

 「寂しくない男なんていない。「寂しい」と口に出して言うか、黙っているかだけの違いだ」

 「数馬も寂しいの?」

 「今は寂しくはない。 お前がいるからな? でもな順子。お前が銀次を守ってやりたければ俺はお前を諦めてもいい」

 「そんなのイヤ!」

 

 俺はクルマを路肩に停めると、順子を強く抱きしめた。


 「俺はお前がずっと好きだ。だから何も心配するな。

 銀次ときっちり別れて来い。未練を残さないように」

 「私はあなたが好き! ずっとあなたと一緒にいたい!」


 順子はいつまでも泣いていた。





 「また何かするつもりなのね?」

 「・・・。順子のこと、よろしく頼む」

 「順子は今、数馬君に夢中よ」

 「数馬なら安心して順子を任せられる。アイツはいいヤツだ。キライじゃねえ」

 「いつ旅立つの?」

 「来週だ」

 「また店においでよ。飲ませてあげるから」

 「ありがとうよ。でも遠慮しておくよ、決心が鈍るといけねえから」

 「そう。元気でね? またいつか、店に寄りなさいよ。約束だからね?」

 「ああ。雪江ママも達者でな?」


 銀次と『海猫』のママ、雪江はそう言って別れた。


 (極道にしておくには勿体ない男なのに・・・)


 雪江ママは銀次の背中を黙って見送った。





第9話

 順子を店に送って部屋の掃除や洗濯をしていると、玄関のチャイムが鳴った。

 ドアスコープを覗くと、銀次が立っていた。


 「俺だ、開けてくれ」


 俺はドアを開けた。


 「どうした?」

 「ちょっといいか?」


 銀次は俺に手土産のシャインマスカットを渡した。


 「これ、うめえから食ってみろ」

 「ありがとう」


 銀次は部屋に入ると周囲を見渡した。

 

 「相変わらずここは本だらけだなあ。「いいかげんに処分しろ」って言ったんだがそのままだ。

 本なんて一度読んだらもう読まねえだろう? 必要ねえよ、読まねえ本なんて」

 「本に囲まれて生活するのが好きなんじゃねえのか?」

 「アイツも同じことを言っていたよ。俺にはわかんねえけどな? その気持ち」


 「読んだ本はもう不要だ」という銀次の言葉が、順子と銀次の「終わった恋」になぞらえているように感じた。


 「俺は後で店に迎えに行くから酒は飲めねえが、アンタ、クルマか?」

 「クルマはもうねえんだ。タクシーで来た」

 「そうか」


 俺は冷蔵庫から缶ビールと、自分用にジンジャエールを出した。


 「すまねえな」

 「それで話って何だ?」

 「俺は来週の月曜日に旅に出る。順子のこと、よろしく頼む」

 「どこへ旅に出るんだ?」

 「まだ決めてはいねえ。でも旅に出ることは決めた」

 「それはどうしても行かなければならない旅なのか?」

 「男には旅立たなきゃならねえ時もあるだろう?」

 「俺にはわからねえ。航海士の俺はいつも旅をしているようなもんだからな。

 俺の人生そのものが旅だ」

 「兄弟、お前は面白えやつだな? 俺は家の事情で商船高専を1年で辞めた。

 でも今でも俺は船乗りに憧れている。世界中を周る船乗りにな?

 俺はそんなお前が羨ましいぜ。俺は極道になっちまった。なりたくてなったわけじゃねえ。

 気づいたらなっていたんだ。笑えるだろう?」

 

 銀次は缶ビールを開けて、一口だけビールを飲んだ。


 「どうしてヤクザになったんだ?」

 「富山のピンサロでボーイをしている時、今の若頭わかがしらに拾われたんだ。

 高専中退じゃただの中卒だからな? だが組での出世は早かったぜ。それなりに修羅場は潜ったがな?」

 

 銀次の目をつくづく見ると、鋭いが綺麗な黒豹のような目をしていた。

 だがそれは、獲物を狙う目だった。

 銀次の瞳にはとてつもない深い哀愁が宿っていた。


 「順子と知り合ったのは、順子がウチのシマのソープで働いている時だった。

 アイツは人気があってな? かなり稼いでくれた」

 「ソープ嬢をしていたのは本当だったんだな? 順子から聞いたよ」

 「順子が言っていたのか?」

 「ああ」

 「まさかそれで順子を嫌いになることはねえよな?」

 「当たり前だ。たとえ順子が人殺しでも俺は順子を愛する自信がある」

 「人殺しでもかあ。お前は本当にいい奴だな?」


 すると銀次はオーストリッチのセカンドバッグから、1千万円の帯封のある札束をテーブルの上に置いた。


 「このカネを順子に渡してくれ。もしアイツが受け取らないようなら兄弟、お前がこのカネでアイツをしあわせにしてやってくれ。もう俺にはカネは必要ねえから」

 「このカネはその旅への餞別というわけだな?」

 「兎に角、順子に渡してやってくれ」

 「お前が直接渡せばいいだろう?」

 「アイツは受け取らねえよ。順子はそういう女だ」

 「銀次、このカネを持って逃げろ」

 「バカ言え、そんな不義理が出来るわきゃねえだろう? それが任侠に生きる俺たちの定めなんだ。

 親の命令は絶対だ、義理を欠くわけにはいかねえ」

 「今、知り合いのインド人の貨物船の船長が富山新港に来ている。

 俺が話をつけてやるから船でインドへ逃げろ」

 「そんなことが出来るのか?」

 「ああ、何とかなるはずだ。俺はそいつに貸しがある」

 

 すると銀次は言った。


 「その船が出港するのはいつだ?」

 「月曜日の18時だと言っていた」

 「そんなことをしてお前は大丈夫なのか?」 

 「心配するな。船長には俺から話をつけておいてやる。悪い男じゃねえ。チカラになってくれる」

 「そうか」

 「100万だけ用意しろ。そしてそのカネを船長のタリファへ渡せ。

 いいか、月曜日の18時に第三埠頭の4号岸壁だ。船の名前は『Bombay star』だ」

 「わかった。月曜日の18時、富山新港の第三埠頭、4号岸壁だな? 船名は『Bombay star』だな?」

 「絶対に来い、そして必ず生きて戻って来い」

 「すまねえな? 兄弟」

 「このカネは持って行け。インドなら、そのカネでしばらくは生活が出来るはずだ」

 「遠慮なく世話になるぜ」


 それだけ言うと銀次は飲みかけの缶ビールとカネを持ってマンションを出て行った。


 

 

 その足で銀次は『海猫』へと向かった。



 「数馬、いい男じゃねえか?」

 「あの人に何かしたら許さないから」

 「許さねえかあ? どんなふうにだ?」

 「あなたを殺して私も死ぬわ」

 「惚れたのか? 数馬に?」

 「仮出所でしょう? 大人しくしていなさいよ。

 そうじゃないとまた刑務所に逆戻りよ。せっかく出られたんだから」

 「娑婆しゃばはいいなあ」

 「それじゃあ雪江ママ、順子、元気でな?」

 「また来なさいよ。カラダを大事にね?」


 雪江ママはそう言って銀次を見送った。

 順子が銀次を追い駆けて来た。


 「もう止めて! 行かないで!」


 順子は銀次に抱きつき、激しく口づけをした。

 銀次は順子を突き放した。


 「止めろ順子。お前はもう俺の女じゃねえ。数馬の女だ」

 「あなたはあの日、海で死のうとしていた私を助けてくれた。

 別れてもあなたが好きなの! 数馬も銀次も両方好きなの!

 だからお願い! もうヘンなことはしないで!」


 順子は泣いた。


 「大丈夫だ順子、俺は必ず帰って来る。

 そしたら数馬と三人で、いや今度は俺も女を連れて来るから4人で飲もうぜ。

 スナック『海猫』でな? もちろん雪江ママも一緒だ」

 「約束だよ、銀次」

 「ああ、約束だ」


 銀次は順子に背を向け、去って行った。

 順子はその場に泣き崩れた。


 「銀次ーーーっつ! 約束だよーーーっ!」


 銀次は角を曲がるまで、ずっと右手を振り続けていた。

 


 


第10話

 「わあ、どうしたの? シャインマスカットじゃないの? 私の大好物!」

 「それ、銀次が持って来てくれたんだ」

 「銀次がここへ来たの?」

 「ああ」

 「何か言ってた?」

 「シャインマスカットだけ置いてすぐに帰って行った」

 「・・・そう」


 俺は嘘を吐いた。

 銀次がシャインマスカットを持って来た理由がわかった。

 そして俺は確信した。順子が銀次をまだ愛していることを。そして銀次もまた、順子が好きなことも。




 銀次は銀行へやって来た。海外でも使えるようにと、銀次から貰った数馬名義の口座に800万円を振り込んだのだ。

 銀行の窓口の女性銀行員が声を掛けた。


 「まとまったお金でしたら投資信託などはいかがでしょうか?」

 「何だそれ? 俺には必要ねえよ」

 「失礼いたしました」



 数馬から海外で多額の現金を持ち歩くのは危険だと言われ、


 「俺の口座を使え。暗証番号は順子の誕生日にしてある。「1009」だ」

 「色々とすまねえな、兄弟」

 「これも同じ女に惚れた腐れ縁だ。同じ富山商船の同窓生だしな?」

 「俺は中退だけどな?」

 「あはははは。銀次、必ず生きて船まで来いよ」

 「ああ、殺られてたまるかよ。俺はそんなに間抜けじゃねえ」

 「そうだな? お前は間抜けじゃねえ。それじゃあ当日、船で待ってる」

 「大丈夫だ、俺ひとりで行けるよ」

 「お前、英語が出来るのか?」

 「関西弁なら話せるぜ。気にするな、何とかなるよ」

 「無理はするな。俺がちゃんと船に乗せてやるから」

 「気持ちはうれしいが遠慮しておくよ。別れが辛くなるからな?」

 「ガラにもねえことは言うな」

 「あはははは。こう見えても俺はセンチメンタルなんだぜ?」


 銀次の気持ちはわかっていた。これ以上俺を巻き込みたくはなかったのだ。




 土曜日、俺は少し早く『海猫』にいた。


 「コーラをくれ」

 「今日は飲んでいないから私が運転して行くわ、たまにはお店で飲んだら?」

 「そうか? じゃあいつもの」

 「はーい」


 順子は酒の用意を始めた。

 閉店10分前だったので、客はみな帰った後だった。


 「それじゃあ私も飲もうかなあ」

 「ママは梅酒のロックだよね?」

 「今日は数馬君と同じ物にしようかなあ。何だか今夜はそんな気分なの。

 アンタのお母さんも好きだった。サントリー・ロイヤル」

 「仲のいい姉妹だもんね?」

 「姉妹?」

 「うん。実はね、雪江ママは私の叔母なの。母の妹。

 小さい時から私の面倒を見てくれていてね、大学も雪江叔母さんに出してもらったのよ」

 「そうだったのか?」

 「別に隠していたわけじゃないんだけどね? なんとなく言いそびれちゃって」

 「美人姉妹だったんですね?」

 「昔はね? 今はだいぶ「美熟女」だけどね? あはははは」

 

 なんとなくそんな気がしていた。

 どことなく順子は亡くなったここのママに面影があったからだ。


 「もうすぐ休暇も終わっちゃうわね?」

 「そうだな? あっと言う間の2ヶ月だった」

 「お船に戻るの?」

 「もう船は降りようと思うんだ。船会社は休職して、商船高専の派遣教官になるつもりだ。

 お前とここで暮らすために」

 「新湊で?」

 「ああ。ダメか?」

 「それはダメよ、あなたは船長になるのが夢でしょう? 私なら大丈夫、船乗りの女房で数馬を待っているから」

 「仕方がないな。船乗りの女房にしてやるよ」

 「それじゃああなたをスナックの女の亭主にしてあげる」

 「ありがとう」

 「今日はタクシーで帰ろうか?」

 「今夜は乾杯ね? 婚約祝い」

 

 その日俺たちは朝まで飲んだ。

 ママが帰った後、俺と順子は酔いを冷ますため、手を繋いで夜明け前の浜辺を散歩した。

 明けの明星みょうじょうとフルムーンが輝いていた。

 俺たちは立ち止まり、口づけを交わした。


 「しあわせ過ぎて怖いくらい・・・」

 「俺もだ。まだ次の船が決まってはいないが、今度の船は日本に寄港するかどうかわからない。

 それでも俺を待っていられるか?」

 「もちろん! いつまでも数馬を待っているわ」

 「浮気もせずにか?」

 「当たり前でしょう? 私、貞淑な妻だもん。でもあなたはいいわよ。その女を愛さなければ」

 「愛する女はお前だけだ」

 「うれしい」


 俺たちは砂浜に寝転んで、抱き合いキスをした。

 浜辺に打ち寄せる、波音を聴きながら。




最終話

 クルマの中で若頭が銀次に言った。


 「いいか銀、失敗は許されねえ。わかっているな?」

 「へい」

 「一発ではなく、三発で確実に仕留めろ。必ずトドメをせ」


 銀次はずっしりと重い、黒光りしたトカレフを握り締めた。


 「来たぞ。銀、俺も後から必ず行くからな?」

 「かしら、今まで面倒を見ていただき、ありがとうございました。玉、獲って来やす」

 「銀、落ち着いてな?」

 「へい」


 銀次はクルマを飛び出して行った。

 鮨屋を出て来たターゲットの組長の側近は3人だった。

 銀次を見た側近たちは組長をかばい、たてになった。


 「なんじゃわりゃあああ!」

 「どこの組のもんじゃ!」


 そのうちのひとりがチャカを構えて銀次を撃ったが外れた。

 銀次はまず、冷静にその男の右肩を撃ち抜いた。拳銃が道に落ち、男はのたうち回っている。

 

 「どけ。死にてえのか?」

 「りたければ殺れ!」


 銀次はその手下の腹を蹴り上げ、もうひとりには左頬と腹にパンチを入れた。

 そして間髪を入れず、怯えた組長の眉間みけんに一発、そして心臓に二発の銃弾を撃ち込んだ。


 「組長ーーーーっつ!」

 「親父っ!」

 「うわああああああ!」


 現場はすぐに騒然となった。

 おびただしいパトカーのサイレンの音が押し寄せて来る。


 銀次はすぐにその場から走り去り、客待ちをしていたタクシーに平然と乗り込んだ。


 「待て! この野郎!」

 「生かして返すな!」


 手下たちが銀次を追った。


 銀次は一度、富山駅へタクシーで向かい、追手を巻こうとした。

 そしてタクシー乗り場から別のタクシーに乗り、行き先を告げた。

 服装はスーツにネクタイをして、サラリーマンを装っていた。


 「富山新港の第三埠頭、四号岸壁まで」

 「富山新港ですね?」

 「ああ、頼む」


 年配のタクシーの運転手は、ロングの客に喜んでいる様子だった。




 銀次が船にやって来た。


 「大丈夫だったか?」

 「ああ、「仕事」は終わった」

 「そうか? キャプテンのタリファだ」


 俺はお互いを紹介し、銀次はキャプテンと握手を交わした。

 そして封筒に入れた百万円をキャプテンに渡した。


 タリファはそれを船長のユニフォームの内ポケットに素早く仕舞った。


 「インドまでの船旅を楽しんでくれ。それじゃあ本船で待っている。すぐに本船に上がって来い、長居は禁物だからな?」

 「ありがとう、キャプテン・タリファ」

 「お前には借りがあるからな?」

 「よろしく頼む、コイツは俺の兄弟なんだ」

 「Brother?」

 「そうだ」

 「兄弟、世話になったな? これは謝礼だ。黙って受け取ってくれ」


 銀次は俺にも同じように封筒を渡そうとした。

 もちろん俺はそれを辞退した。


 「このカネは今度日本に帰国した時に貰うよ。必ず帰って来い」

 「兄弟・・・」

 

 その時だった、猛スピードでベンツとレクサスが俺たちに突進して来たのは。

 二発の銃声が聞こえた。


 パン パン


 俺は胸と足に焼けるような痛みを感じた。

 俺はアスファルトにうつ伏せに倒れ、眼の前に広がる自分の血の海を眺めていた。


 「兄弟!」


 そしてクルマから飛び出して来た連中から、俺たちは幾つもの銃弾を浴びたが、既に俺たちには意識がなくなっていた。


 「この外道が!」


 ふたりの亡骸なきがらに男がつばを吐き、遺体を蹴り飛ばした。


 数馬と銀次は死んだ。





 それから3日後、順子の姿は福井の東尋坊にあった。

 順子は空を飛んだ。日本海をめがけてためらうことなく順子は飛んだ。

 三人はあの世でしあわせに暮らせたのだろうか?

 

 おそらく順子は銀次と、数馬は裕子と再会を果たし、結ばれたはずだ。

 悲しみに満ちた人生を、必死に生き抜いた四人だからこそ。


      

                            スナック『海猫』完

 




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【完結】スナック『海猫』(作品240412) 菊池昭仁 @landfall0810

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