第58話 見た?


 カメラを覗き込んでいたのか、結月の顔がドアップで映り驚いた。

 画面が切り替わったことを確認した彼女は顔を引く。そこでバックが見えて、改めてそこが風呂場であることが確認できた。


 俺をからかっていたとかじゃなくて、マジで風呂に入っている真っ只中だったのだ。


 ふわりと白い湯気が景色全体を覆ってはいるものの、しかし結月の顔はしっかりと見える。

 長い黒髪は上で纏めてお団子にしている。体が温まっているからか、頬は赤く染まっていた。


 顔から視線を落としていくと、首があって白くて細い肩が見える。さすがにそれより下は見えない。見えたらいろいろとまずいので心の中で安堵する。


 俺はふうと息を吐いてベッドに座り直した。


『蒼くんもビデオ通話にしてよ』


「いや、別に俺がする必要はないし」


『私が蒼くんの顔が見たいの。ダメ?』


 甘えるような声と、意図的に作られた上目遣いを向けられる。陽花里ならば身長差でよく起こるけれど、結月の上目遣いは珍しい。


 なので、威力は絶大だ。


「……まあ、別にいいけど。何も変わらないぞ」


『プライベート蒼くんが見れるだけで眼福よ』


 俺は慣れない手つきで操作してビデオ通話に切り替える。結月が『あ、映ったわ。蒼くんが見えた』と言っているので成功したのだろう。


 結月が揺れるとぱちゃぱちゃと水が跳ねる音が聞こえた。実際に見えたわけではないのに、不思議と脳裏に景色が浮かぶ。


 これはさっさと用事を済ませて電話を終わろう。うん、それがいいな。


「それでさ、ちょっと気になることがあって」


『なに? 私のオールヌード?』


「違う」


『照れなくてもいいのよ。せっかくの機会だし、もうちょっとサービスしましょうか?』


 俺の即答も意味をなさず、結月がマイペースに話を進めていく。

 

「いやいい」


『今って肩までしか見えてないもんね。さすがにそれじゃ蒼くんは捗らないでしょうし』


 俺の言葉はもう届いていないのかもしれない。電波悪いのかな?

 

「大丈夫」


『もうちょっとだけカメラを下に向けて上げましょう。あなたの彼女である私の見事なまでの谷間まで五秒前……四、三……』


 結月がわけの分からないカウントダウンを始める。

 カウントダウンが一秒進むごとにカメラの角度がわずかに下がっていく。最初は微かに肩の上辺りだけが見えていた画角に、気づけば鎖骨が映っていた。


 その光景は俺がこれまでに見たことのないものだった。


 小さい頃に朱夏と風呂に入ることは確かにあったけれど、そのときはあいつもまだまだ子供だった。

 最近でもバスタオル一枚を体に巻いてリビングに来たりすることはあるけれど、そんなものとは比べ物にならない色気というか、魅惑的な力が彼女にはあった。


 水滴が垂れる白い肌は言い表しようのない刺激を俺に与えてくる。ごくり、と気づけば生唾を飲み込む自分がいた。


『……二……一……』


 カウントダウンはついにクライマックスを迎え、カメラの画角は鎖骨を越えてついに胸の谷間がチラつき始めた。


 そのときだ。


 カウントダウンはゼロに達することなく、結月の手は動きを止める。角度はそのままにスピーカーから彼女の声が届いた。


『蒼くんって、結構すけべよね』


「うるさい」


『口では否定するけど、実際目の前でえっちな光景が広がると抵抗とか全然しないもの』


「やめて」


『何だかんだ言って、私の谷間楽しみにしてたんでしょ? まだかまだかと子どものようにワクワクしていたんでしょう?』


「ごめんなさいもう許してください」


『ふふ、蒼くんも男の子なのね。安心したわ』


 結月はなおも楽しそうだ。

 そりゃ俺だって男だ。目の前に魅力的な女の子がいれば心惹かれ、視線だって釘付けになる。


 まして、結月は贔屓目なしにしても女の子として周りの女子に比べても頭一つ抜けたスタイルをしているのだから、そんなものをチラつかされれば誰だって自分の欲望には抗えまい。


『ではそんな蒼くんの期待に応えまして』


 言いながら、カメラの画角は変わらないまま高さだけが変わる。これまで湯船に浸かっていた彼女が立ち上がったのだろう。


 立ち上がっちゃダメでしょさすがに。


『出血大サービスぅー』


 電話の向こうの結月は夜のテンションなのか、少しはしゃいでいるように感じる。


 ちら、ちら、と言いながらカメラを少し下に向けては上に戻してを数回繰り返す。


 鎖骨からさらに下を捉えたカメラはついに、一瞬だけど彼女の胸の谷間を映す。


 俺の中で見ないようにしようという自制心と、見たいという欲望が戦争を始めていた。

 目を手で覆い、しかし指を開いてちらと見て、やっぱり目を瞑りながら、しかし薄目で見てしまう。


 そんな行動を繰り返していた、そのときだ。


『ひゃっ!』


 結月の驚いたような小さな悲鳴が聞こえた。


 どうしたのか、と俺はスマホの画面を見て彼女の様子を確認する。


 そこに映っていたのは……。


「……」


 思わず言葉を失った。

 一瞬過ぎて、しっかりとは見えなかったんだけど、画面には結月の全身が映っていたような気がする。


 全身が肌色で。

 腰の辺りはキュッと引き締まっていて。

 お尻から太もものラインも綺麗で。

 胸元にはしっかりと膨らみがあって。

 その膨らみも包み隠さず映っていたような……。


 それに、腰から下も……。


 いや、さすがに気のせいか。

 動揺しながら俺はもう一度スマホを見る。すると、そこにはさっきまでと変わらない結月の顔があった。


 ただ、比べ物にならないくらい真っ赤だった。のぼせたのかな、と思えるほどだけど、理由はそれではない気がする。


『……見た?』


「……いや、あんまり」


『……ちょっとは見たのね?』


「……まあ、うん、ちょっとだけ」


『……』


「……」


『……見た?』


「……」


 気まずい沈黙。


『……蒼くんのえっち』


 そして、通話は結月によって強制終了させられた。


 俺は何かを考えることができないほど脳が働くことをやめていて、ベッドに寝転がって、しばし天井をぼーっと眺めていた。


「……あ」


 結局、陽花里のこと何も訊けてない。



 *



『もしもし? どうしました? 蒼から電話をしてくれるなんて珍しいですね?』


 三十分ほどだろうか。

 部屋でぼーっとしていた俺は我に返り、どうしたものかと考えた末に陽花里に電話してみた。


 暇していたのか、陽花里はすぐに応じてくれた。開口一番がその感想である。


「ああ、ちょっと」


『家にいても蒼とお話ができるなんて嬉しいです。最近、あんまりお話できてないから、寂しかったんですよ?』


「陽花里、なんか忙しそうにしてないか?」


『実はバスケ部に助っ人をお願いされてまして。ちょっとの間だけお手伝いすることにしたんですよ』


「助っ人?」


『はい。うちのバスケ部が人数ギリギリなのは知ってますか?』


「……まあ」


 もちろん知らない。

 けど、ここは一応強がっておこう。


『それで、一人がケガしちゃったみたいで。とりあえず今度の練習試合までっていう約束で』


 陽花里の運動神経はアスリートにも負けず劣らすのレベルであり、きっとバスケも上手くこなすのだろう。

 だからこそ助っ人を頼まれているのだろうし。


『せっかく同じ実行委員になったのに、残念です』


「卒祭の作業はまだ続くし、そういうことならバスケ部の力になってあげればいいよ。たまになら、電話とかもしていいし」


 正直あまり電話は好きじゃない。

 けど、話せない日が続くのであれば俺だって寂しく感じるので、好きじゃないとかも言ってられないというか。


『ほんとですか? じゃあ、助っ人も頑張っちゃいます! 練習試合は応援に来てくださいね?』


「……気が向いたらね」


 あはは、と俺は笑って誤魔化す。

 バスケの試合に興味がないというわけではないんだけど、練習試合を観に行くという行為がなんか恥ずかしい。


『ところで、何か用があったのでは?』


「そうだった」


 俺はごくりと喉を鳴らす。

 今日の帰り道、陽花里がクラスメイトの橘と帰っているところを見かけた。


 陽花里に限って変なことはないだろうけど、その光景を思い出すと胸がざわつく。


 それくらいに、俺は陽花里に心惹かれているんだと実感する。


「……今日さ、バイトの帰りにたまたま陽花里を見かけたんだけど」


『ふぇっ!?』


 俺が話題を振ると、陽花里は分かりやすく動揺する。そのリアクションに俺の中の不安はさらに膨れた。


 が。


『ち、ちがうんです! あれは浮気とかじゃなくて、ただ夜道は危ないからって送ってくれただけで……わたしも断り切れなくて……ほんとにやましいことはないんですぅ』


 あわあわしながら必死に言葉を並べる陽花里。この様子からそれが真実であることは伝わってくるし、そもそも陽花里が嘘をつくとは思っていない。


「いや、ちょっと気になっただけで別に疑ったりはしてないよ」


『ほ、ほんとですか?』


「もちろん。夜道が危ないっていうのは事実だし、むしろ感謝してもいいくらい?」


 俺が冗談めかして笑うと、電話の向こうで陽花里がほっと息を吐いた。

 

『良かったです。わたしが好きなのは蒼だけだから……浮気とかは、ほんとにしないです。絶対です』


「……分かってる。ありがとう」


 やっぱり俺の考えすぎだったな。

 橘も部活で遅くなって、たまたま陽花里と帰るタイミングが一緒だったから提案しただけだろう。

 もしかしたら橘もバスケ部なのかも。そしたら、練習が終わるのも同じだったりするのかな。


 俺の中のモヤモヤも晴れたところで、あとは雑談を少し交わして、夜も遅いのでそろそろ寝ることにした。


 電話を切ろうとしたとき、陽花里が思い出したように声を漏らした。


『そういえば、さっきお風呂上がりの結月がすごく心ここにあらずって感じだったんですよね。なにか知ってますか?』


「……知らない」


『なんですかその間は』


「…………なんでもない」


『一体なにがあったんですか!?』

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