第57話 サービスシーンはお預け


「私はね、私を甘やかしてくれる人が好きなんだよぉ。つまりね、後輩くんのことはとても好きだと言うことなのです」


 午後十時。

 結局、バイト終わりまで待たされた俺はしお先輩と並んで帰る。よくよく考えると彼女がいるのに、他の女の子と一緒に帰るのって良くないよな。


 俺のシフトが終わった時点で帰っておくべきだったな。疲れてダラっとしてしまったのが間違いだった。


 あと、賄いの誘惑に負けた。

 この人、こんな感じなのに料理めちゃくちゃ美味しいんだよな。レンジで温めているだけのはずなのに、なんでああも美味しくなるのか不思議でならない。


「それって告白ですか? 俺、もう彼女いるんでごめんなさい」


「あらら、振られちゃった。私は別に愛人でもいいんだよ?」


「ダメでしょ。倫理的に」


 堂々と二股してる俺が倫理を語るなっていう話なんだけど。


「ざんねーん。けど、こうして一緒には帰ってくれるんだね?」


「先に帰るべきだったかなとは思ってますよ。彼女とかできたことないんで、その辺まだしっかり考えられないんですよね」


 気が回らないというか。

 俺が自分を責めるように言うと、しお先輩はふふふと楽しげに笑う。


「まあまあ。歳上の可愛い先輩に無理やり残らされたと言えばいいよ。私のことはいくらでも悪く言うがいいさ」


「嘘ではないんですけどねそれ」


 しお先輩が着替え終わり、カラオケ店を出る。退店の際に同僚から睨まれたけど、多分あの人はしお先輩のファンだ。


「しお先輩って彼氏いないじゃないですか。必要ないとも言ってましたけど」


「うん」


 二人並んでエレベーターに乗り込む。無言なのもなんなので、気になったことを訊いてみた。


「バイト先でいいなと思う人とかいないんですか?」


 さっき受付にいたファンだけでなく、うちの職場にはそこそこしお先輩に好意を寄せる男はいる。

 高校生や大学生、大人まで相手は様々だ。選びたい放題な状態なので、もしかしたら条件を満たす人だっているかもしれないのに、とか思う。


「後輩くんだよぉ?」


「お、ふ、いや、そうじゃなくて」


 素でこんなこと言ってくるんだから、そりゃ男なら勘違いしちゃうよな。

 魔性の女というか、小悪魔というか。男を魅惑するのがとにかく得意と見た。


「甘やかしてくれる人が好きだって言うなら、みんな俺より甘いと思うんですけど」


「ただ甘いのも胃もたれするのだよ。たまにはしょっぱいものを口にしたくなったりしてね。だから、ちょうどいい塩梅が必要なの」


「わがままだな」


「そうなの。私はね、わがままなんだぁ。つまり、私の言うことに従順なわけじゃないけど、ちゃんと私のことを甘やかしてくれる後輩くんが一番なのさ」


 しお先輩はキメ顔でそう言った。

 ぱちん、と指で音を鳴らして俺を指差し、ぱちりとウインクする。どこのホストだよと思わせる仕草だった。


「俺ももうちょい甘くか、厳しく接すればいいのか」


「だよ。でもね、きっと後輩くんにはそれはできないと思うよ」


「どうしてですか?」


 俺が尋ねると、しお先輩はふふっと含んたように笑った。


「後輩くんは優しいから。人の嫌がることはできないと思うよ?」


 そう言ったしお先輩は、俺がこれまで見た彼女のどの表情よりも大人びていて。


 俺は自分のすべてを見透かされているような感覚に襲われた。


「それって――」


 訊こうとしたとき、俺は思わず言葉を失った。驚きが喉に蓋をして、言葉が詰まってしまったのだ。


「どうしたの?」


 きょとんと、さっきまでとは打って変わって子供っぽい顔をして、しお先輩が首を傾げる。


「えっと」


 動揺を隠しきれない俺を不思議に思ったしお先輩は、俺の視線を追ってその先を見た。


 俺たちはカラオケ店を出て歩き、ちょうど駅前辺りに差し掛かっていた。

 先ほど電車が到着したのか、ちろちろと降車した人が改札から出てきていて。


 その人の中に陽花里がいたのだ。


「女の子……と、男の子?」


 男と一緒に。

 二人で。


「後輩くん?」


 相変わらずリアクションのない俺の方に視線を戻すしお先輩。

 俺はようやく目の前の景色を飲み込み始めた。


「……えっと」


「あれが、彼女さん?」


「はい」


 察したしお先輩が気まずそうに呟いた。俺はそれにこくりと頷く。


「男の子と二人でいるね」


「そう、ですね」


「それも、こんな遅い時間に」


「そう、ですね」


「彼女さん、笑ってるね」


「そう、ですね」


「……私となし崩し的に付き合うのも悪くないと思うんだけど」


「……それはどうなんでしょう」


「良かった。ちゃんと意識があった」


 真面目な顔でしお先輩が呟く。

 しかし、そのボケのおかげで俺もようやく冷静になれてきたようだ。


 冷静になると、改めて目の前の景色の異様さが理解できない。


「とりあえず、ちょっと追いかけてみようか」


 マイペースに言ったしお先輩が二人が進む方向を指差しながら提案してくる。


「いや、尾行はどうなんでしょう」


 陽花里はかつて、尾行していた結月を怒っていたこともあったしな。


「けど、そんなモヤモヤした気分のまま帰ってぐっすり寝れるかな?」


「寝れませんね」


 一人になった瞬間からずっとぐるぐる考えてしまいそうだ。今はしお先輩が話し相手になってくれているから冷静でいれている気がする。


「そういうわけで、ちょっとだけ。ね?」


「……」


 この気持ちに逆らうことはできなかった。

 俺としお先輩は前を歩く陽花里と一定の距離を保ちながら進む。


「よくよく考えると、あっちからすれば俺たちも同じことしてるんですよね」


「それは気にしないほうがいいよぉ」


 そんなことより、としお先輩が視線を前に向ける。そんなことよりで済ましていい問題じゃない気がするけど。


「隣にいる男の子は見覚えないの?」


「……どうだろう」


 よく見ると、うちの学校の制服を着ているし、顔も見たことあるような気がする。

 ということはクラスメイトの可能性が高いんだけど、クラスの奴ら全員の名前と顔を一致させてないから答えに辿り着かない。


 まさかこんなところで弊害があるとは。


「いや、あれって」


「思い出したかい?」


 あの横顔……。

 俺は自分の記憶をぐるぐると徘徊し、この違和感の正体を探る。


「橘だ」


「どちら様?」


「……名前以外は分かりません。ただ、あいつはイケメンです」


「それは見れば分かるよぉ」


 うちのクラスのイケメンが陽花里と何をしてるんだ?

 俺は答えのない問題を頭の中でぐるぐると考え続ける。結局、結論が出ないまま、気づけば陽花里の自宅付近まで辿り着いていた。


 そして、じゃあねと手を振って分かれた。


「夜遅くなったから、送ってくれただけなのかな?」


「……です、かね」


 だとしたら感謝するべきなのか?

 変態や痴漢に襲われでもしたら大変だし。もし陽花里がそんな目に遭ってしまったらと考えると心臓をぎゅっと握られたような気分になる。


「帰りましょうか」


「そうだねぇ。夜遅いし、後輩くんはおうちまで送ってくれる?」


「……この流れで断るのは至難の業だな」



 *



 その日の夜。

 俺は自室で寝転がりながら、結月に電話をかけていた。三コール目で通話に応じてくれた結月は弾んだ声で『もしもし?』と口にした。


「あ、結月。いま大丈夫か?」


『もちろん大丈夫よ。蒼くんからの電話ならどんな状況でも出てみせるわ』


「いや、それはちょっと」


 重いよ。

 俺から結月に電話をかけることはあまりない。遠慮している、というわけでない……こともないんだけど、まだ緊張するから躊躇ってしまうのだ。


 けど、今日はそうもいかなくて。


『それで? 蒼くんから電話をくれるということは何か話したいことがあったんでしょ? それとも、もしかして私のサービスシーンをお求めかしら?』


「サービスシーン?」


 何を言ってるの、という気持ちでオウム返しをする。


『私は今、お風呂に入っているところよ』


「タイミング間違えたな」


『むしろベストでしょ。今ここで私がビデオ通話に切り替えれば、蒼くんには何が見えるでしょうか』


 うふふ、と笑う結月。

 これは油断してるとずっとからかわれるやつだな。


 いやでもこのシチュエーションでの適切な返し方とか知らないし勝てっこないぜ。


「そりゃ、あれだよ。湯気とか」


『照れちゃって。では、正解発表といきましょうか』


 結月の声が途絶えた。

 まさかと思い、スマホを耳から放してディスプレイを見てみる。さっきまでは結月のアイコンが表示されていたけど、今は画面が暗くなっていた。


 そして、次の瞬間、パッと画面が切り替わり、結月の顔が映った。

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