第45話 寝坊助
見上げた父の背中は大きかった。
自分のことなど顧みず、誰かのために何かができる父を格好いいと思っていたし尊敬もしていた。
こんな大人になれればいいなと思った。
思っていた。
『ねえ、父さんはどうして人助けをするの? 消防士だから?』
いつだったか、ふと疑問に思った俺はそんなことを父に訊いたことがあった。
人助けをするのは格好いいけれど、でもそれが人として変わっていると感じ始めた時期かあったのだ。
人というのは第一に自分のことを考えている。自己中心的といえば聞こえは悪いかもしれないが、考えてみれば大抵の人間はそうだろう。
それがおかしいわけじゃない。
むしろそれは普通だと思う。
だからこそ、自分よりも他人を優先できる父の考えに疑問を抱いたのだ。
『どうしてそう思う?』
『消防士は人を助ける仕事だから』
詳しくは知らなかった。
ただ、イメージの中にある消防士という仕事は火の中に飛び込んだりしていたのだ。
俺がそう言うと父はおかしそうにガハハと笑った。
『前提が違う。消防士だから人助けをするんじゃない。人の役に立ちたいから消防士になったんだよ。人の為になにかできるなら別になんだって良かったんだ。ただ、そこに消防士という選択肢があって、俺がそれに魅力を感じたってだけだ』
その答えに、なるほどと思わされた記憶はある。けど、それは俺の質問の答えではなかった。
父さんがどうして人助けをしようと思ったのかは結局分からないままだった。
理解に至る前に、父はこの世を去ってしまった。
人を助けて死ぬ。
父さんは最期の最期まで自分を貫いた。
けど、それは美談なんかではなかった。残された俺たちは悲しみ、涙を流した。
『お父さんはね、人を助けたいと思ったら体が動いちゃうのよ。理屈じゃなくて、本能……ううん、反射的な行動かしらね』
『はんしゃ?』
母さんの言葉に俺と朱夏は首を傾げた。父さんの死の悲しみの中ということもあったけど、母さんの言葉を難しく感じたのだ。
『私は、最期まで人の為に生きたあの人を誇りに思うわ』
そして、これは黒歴史と言う他ないんだけど、俺にはやさぐれていた時期があった。
人の為に生きた父が俺たちに残したものが悲しみしかなかったと勘違いしていたから。
俺はああはならないと自分の生き方を改めたのだ。
友達を作らず。
人と関わらず。
自分のことだけを考えて。
いつしか、人との接し方さえ忘れてしまって。
そうやって生きていた。
けど。
いつだったっけ。
公園で泣いている女の子がいた。
同い年くらいの子だったと思う。
走って転んだのか、膝から血が出ていた。
知ったこっちゃない。
どうだっていい。
そう思って通り過ぎようとした俺だったけど、妹がいた手前、女の子が泣いているのは見過ごせなかった。
だから俺は家に帰って救急箱を持って公園に戻った。五分くらいかかったけど、その子はまだ泣いていた。
消毒をして、絆創膏を貼った。
俺だって子供だったんだ。せいぜいその程度のことしかできない。
けど、手当てをしたからかその子は泣き止んだ。
『ありがとう』
そして、その子はにこりと笑ってそう言った。
その瞬間、俺の心はポカポカと温かい何かに満たされた。
そのときだった。
きっと、父さんもこんな気持ちだったんじゃないかと思ったのは。
それから、俺は考えを改めた。
もちろん、自分の身を投げ出してまで誰かを助けようとは思わなかったけれど、自分にできることはしようと思った。
できることを増やそうとも思った。
これまでは父の背中を追って人助けをしていた。
それからは、人助けをすることで父の背中を追うようになった。
『危ないッ』
あのとき。
結月と陽花里に危険が及んだとき、俺は咄嗟に手を伸ばした。
自分がどうなるとか、考えてはいなかった。
その瞬間に思った。
ああ、こういうことなんだって。
俺にとっては彼女たちはとても大切な存在だった。それこそ、自分の命と引き換えにしてでも守りたいと思えるほどに。
そういう存在になっていた。
父さんにとっては、世の中の困っている人すべてがそういう存在だったというだけなんだ。
大切な人が誰だったかというだけ。
その瞬間が眼前に訪れたとき、体は動いてしまうのだ。
理屈ではなく、本能で。
「……」
目を覚ますと見知らぬ白い天井が視界に入る。
視線だけを動かして状況を把握する。どうやらここは病院で、俺は死なずに済んだようだ。
きょろきょろしていると、りんごを剥いていた朱夏と目が合った。
暇を持て余していたのか、りんごの皮を丁寧に剥いていてウサギを作っていた。
お皿にはすでに二個分くらいのウサギりんごが積まれていた。俺そんなにりんご好きなイメージあったのかな。
朱夏はりんごを剥いていた手をぴたりと止め、ぽかんと口を開け目を見開いた。
こういうとき、第一声はどんなものがいいんだろうかと悩むかと思ったけれど、不思議と口が開き声が出た。
「……おはよう、朱夏」
我ながら危機感のない第一声だ。
朱夏は剥いていたりんごをお皿に置いて、そしてにこりと笑う。
「寝坊だよ、お兄ちゃん」
そう言った朱夏の頬を一粒の涙が伝った。
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