第2話 私たちのヒーローに


『人間ってのはどうしても損得感情で物事を考えちまう生き物なんだ。それは仕方ない。仕方ないんだけどな、でも、もし目の前に困っている人がいたら、そのときは損得なんて考えずに手を差し伸べてあげれる人間になるんだぞ』


 それは子供を庇って事故で命を落とした父がよく言っていたことで、今でも忘れず俺の頭の中にあった。


 問題の大小はあれど、可能な限り俺にできることはしてきたつもりだった。

 とはいえ、所詮はまだまだ子供である俺にできることなんてたかが知れている。


 つまり、自分にできることの範囲を超えるような事態にはまだ遭遇したことがなかった。


 けど、その中で一つだけ分かったことがある。


 それは、迷っている暇なんてないんだということだ。


「なにがあったんだ?」


「……わかんない」

 

 少し離れたところから男性の声がして、俺と朱夏は駆け足でそちらに向かった。


 そこには既に人集りができていてざわざわとしているだけだった。何が起こっているんだろうと思い、人集りの向こう側を見ようとすると人と人の間から人が倒れているのが見えた。


「お母さん! しっかりしてよ、 ねえお母さん!」


 甲高い声がした。

 動揺、恐怖、混乱、その声には様々な感情が入り混じっているように聞こえた。


「おいどうする?」

「どうするって言われても分かんねえって」


「あなた救急車呼んだら?」

「なんで俺が。お前やれよ」


「あの子可愛いくね?」

「そんなこと言ってる場合かよ。分かるけど」


 周りにいる人たちは思い思いに言葉を交わすが、誰一人として動き出す人はいなかった。

 

 倒れている女性の周りにはその娘らしき女の子が二人いた。その女の子二人はどこか見覚えがあるような気がしたけれど。


「お兄ちゃん、こっち!」


 まじまじと確認する前に妹に呼ばれる。確かに今はそんなことを気にしている場合ではない。


 気づけば朱夏は人集りの先にいた。周りにいる人はぐるりと囲んでいたわけではなく、円の半分を囲うように並んでいたのだ。


 だから、そこを越えて倒れている婦人のところへ向かう。


「朱夏、救急車!」


「う、うん」


 朱夏はまだ中学生なので携帯電話を持っていない。俺はポケットからスマホを取り出し、渡しながらそう指示した。


 人が倒れている。

 こんなとき、どうすればいいのか。


 知らないわけではない。

 テレビで観たことあるし、父から何度も話を聞かされた。

 でも、それを実行したことはない。正しいという確証もない。自分の行動で自体が悪化する可能性だってある。


 不安を上げればキリがない。


 そいつが増えれば増えるほど、俺の足元にしがみついて体を重くする。そうなれば、足が竦んで動けなくなってしまうに違いない。


 だから、不安に頭が支配される前に動き出す。


「ねえ結月、どうしたらいいの? お母さんどうなっちゃうの!?」


「わ、わからないよ。だ、だれか……」


「ちょっとごめん」


 婦人のそばで不安を口にする女の子二人のところへ到着した俺は、空いているスペースに入り込む。


 婦人の顔を覗き込む。

 やっぱり意識はないようだ。


 すう、と息を吸う。


『いいか、蒼。もし人が倒れているところに遭遇したら、その人の意識があるかをちゃんと確認するんだ』


 父の言葉を思い出す。


「大丈夫ですか?」


 肩を叩く。

 一度目は左側を、二度目は右側を、三度目には両肩同時に。呼びかけと同時に叩き、その強さは徐々に強めていく。


 症状によっては体の感覚が一部麻痺している可能性があるから、叩く位置は変えたほうがいい。そんなことも言っていたはずだ。


 何度か呼びかけてみたけど、やっぱり意識は戻ってくれない。ここで目を開けてくれればと思ったけど、さっさまで娘たちが騒いでいたのに動かなかったことから、その線が薄いことも分かっていた。


 えっと、次は……。


 確か救急車の手配と……。


「すみません。誰か、AEDを持ってきてくれませんか?」


 AED、自動体外式除細動器。

 自動的に心電図の測定・解析を行ない、必要であれば電気ショックを与えて正常な動きに戻す機器。


 こういうときの応急処置で使われるから、いろんな施設に設置されているらしい。


「誰か!」


 俺の呼びかけは聞こえている。

 けれど、どういうことか周りにいる人たちは誰も動いてくれなかった。突然言われて動けないのも無理はないけど、でも事態は一刻を争う。


 人集りがざわつく。


 俺が取りに行くべきか。

 ダメだ、それ以外にもやるべきことはあったはずだ。

 娘さんに取りに行ってもらうか? いや、とてもじゃないけどそんな精神状態じゃないだろう。


「お兄ちゃん!」


 そのとき、妹がAEDを手にしてやってきた。俺の一度目の呼びかけで動いたにしても早い到着であることから、恐らく救急車を呼んだあとに必要になるだろうと予想して取りに行ってくれたんだ。


 さすがは親父の娘だよ。


「朱夏、それの準備頼む」


「う、うん」


 朱夏の表情は不安そうだった。

 無理もない。突然こんな状況になって、初めてのことをしているんだ。俺だって内心では心臓バクバクだ。


 だからこそ、平然を装わないと。

 俺が不安をあらわにしたら、それが伝播してしまう。


「……よし」


 呼吸の確認をする。

 胸の動きを見ることでそれが分かる、と言っていた。胸のあたりが上下していないと呼吸をしていないことになるんだったか。


 ……動いてないな。


 つくづく、最悪の事態に向かってやがる。


 こうなった以上、あとは胸骨圧迫をするしかない。いわゆる心臓マッサージというやつだ。ドラマなんかで見ることのある、胸元をグングンと押す動きのあれ。


 俺は右手の上に左手を置いて、そのまま婦人の胸元に持っていく。両胸の間に手を添えて、そのまま体重を乗せて胸骨圧迫を開始する。


「お兄ちゃん、準備できた」


 俺が胸骨圧迫をしている間に朱夏がAEDの準備を済ましてくれた。機器本体に電極パッドのケーブルを挿して電源を入れるだけなんだけど。

 機器の自動音声が手順を教えてくれるけど、それでも初めてだとテンパってしまうだろう。


『電極パッドは胸を挟んだ位置に貼り付ける、ということを念頭に置いておけ。大人なら腰辺りと肩付近だ』


 電極パッドにはどこに貼ればいいかも絵で描いてあった。

 金属製の類があると良くないらしい、という話は覚えている。ネックレスとかはつけてないみたいだけど。


 下着ってどうなんだっけ。

 服は脱がす必要はないみたいだけど、ブラジャーのホックって金属じゃないのかあれ。


 俺は胸骨圧迫をしながら頭を回す。けど、この一瞬の思考や躊躇いの時間が惜しい。


「朱夏、この人の下着……」


「うん、分かった」


 すぐに言いたいことを理解してくれたようだ。俺は上のシャツを脱いで婦人に被せる。

 半袖でもまだ全然暑いので問題はない。むしろ動いたせいで体温が上がっていた分ありがたいくらいだな。


「お兄ちゃん、おっけー」


 AEDが心電図を読み取っている。

 この間は婦人には触れないでAEDの次の指示を待つ。ここで電気ショックが必要だと判断されれば電気ショック、必要ないと判断されれば胸骨圧迫を続ける。あとはそれの繰り返しだ。


「あ、あの」


 僅かな隙間。

 娘のうちの一人が恐る恐る声をかけてきた。さっきまでずっとテンパっていたブラウンのセミロングの女の子だ。


「お母さん、だいじょうぶですよね?」


 涙を浮かべながら、縋るように訊いてくる。この言葉に俺はどう返せばいいのか分からなかった。


 大丈夫だと勇気づけるべきか。

 でも、どうかも分からないのに無責任なことを言うのはどうなんだろう。


『電気ショックは不要です。胸骨圧迫を続けてください』


 AEDの自動音声がそう告げた。

 俺は小さく深呼吸をして、できるだけ相手を安心させられる声色を意識して口を開く。


「……大丈夫。きっと助かる」


 連絡をしてから救急車が到着するまでの時間はおよそ九分から十分と言われている。

 近いところにいたのか、その後すぐに救急車は到着して俺たちの役目は終わった。



 *



 買い物に行く気にもなれなくて、俺と朱夏は来た道を戻り自宅へと帰っていた。


「だいじょうぶかな、あの人」


「どうだろうな。けど、多分できるだけのことはやったはずだから」


 自分のしたことが正しいのかどうかは分からない。もし助かれば、正しさが証明されるけれど、そうでなければ……。


 俺の行動のせいではなかったとしても、もしかしたらという考えがどうしても脳裏をよぎってしまう。


「朱夏もよく頑張ったな」


「それはお兄ちゃんもでしょ」


「なんか、甘いものでも買って帰るか」


 できるだけ考えないようにしよう、と思いはするけれどそれはそれで難しいものだ。


 せめて朱夏に不安が伝わらないよう、俺は努めて明るく振る舞うことにした。


「それはお兄ちゃんの奢り?」


「仕方ない、今日は特別だぞ。臨時収入のおかげで懐も温かいことだし」



 *



 ぽん、と『手術中』と書かれた標示のライトが消える。少しして、中から医師が出てきた。


 ブラウン髪の少女、琴吹陽花里ことぶきひかりはイスから立ち上がり医師に駆け寄った。

 陽花里の隣に座っていた黒髪ロングの少女、琴吹結月ことぶきゆづきは立ち上がりこそできなかったが、不安げな顔を医師の方へと向ける。


「お母さんは? だいじょうぶなんですか?」


 医師の表情は極めて険しいものだった。

 二人の中にはもしかしたら、という考えもよぎっていた。けれど、だからといってそれを受け入れられるほど大人ではない。


 お願いします、お願いしますと心の中で祈りながら、医師の言葉を待つ。


 次の瞬間だった。

 緊張が解けたように医師の眉から力が抜けた。マスクを外して、にこりと陽花里に微笑みかける。


「ええ。もう大丈夫です」


 その言葉を聞いた瞬間、陽花里はへなへなとその場にしゃがみこんでしまう。足の力が抜けてしまったようだ。


「ただ、本当にギリギリのところではありました。応急処置がなければ、どうなっていたか……」


「そう、なんですか?」


 力ない声で陽花里は返す。

 イスに座ったままの結月はぽかんとした表情をしていた。


「はい。応急処置をした方に感謝しなければ。その方の連絡先などは?」


「いや、わたしは……」


 陽花里は一応結月の方を見るけれど、当然だけどふるふると首を横に振った。


「そうですか。それは残念です」


 それから意識を取り戻した母と会話をして、入院の話などを聞き、少しだけ時間が空いたので陽花里と結月は自販機でジュースを買って、並んでイスに座る。


 陽花里の手にはオレンジジュース。

 結月の手にはファンタグレープ。


「連絡先、聞いておけば良かったね」


 陽花里の言葉に結月が頷く。

 感謝の気持ちを伝えたいし、それだけじゃなくてお礼もちゃんとしたいと思っていた。


「慌ててたから、しっかりは覚えてないんだけど」


「うん」


 結月の言葉に陽花里が相槌を打つ。


「あの人、大幕の制服着てたような……」


 大幕高校。

 それは陽花里や結月が通う高校の名前だ。女子、男子共にブレザーが制服に指定されている。


「それ、わたしも思った」


 二人は顔を見合わせる。


「てことは、うちの学校にいるってことだよね?」


「うん。だから、探して、ちゃんとお礼を言お」

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