Morning Call-Ⅱ

 ところが、『新しい生活』はなかなか始まらなかった。


「……ごちそう様でした」


 美遊が手を揃えておじぎをした。

 朝食が出来上がったのが、午前七時すぎ、そこからしばらくして、冷めてしまうからと食べ始めるまで約十分、やひろや唯が食べ終わるまで十五分、美遊が食べ終わるまでもう十五分。それだけの時間が経っても、甘奈は起きてこなかった。


「さすがに遅すぎる……」


 すっかり冷めてしまった甘奈の分のお味噌汁を、一度鍋に戻しながらやひろは呻いた。妙に緊張した状態を引き延ばされ続けたせいか、その声には少し苛立ちが混じっている。


「やひろ君、あんまりかりかりしないの。私、もう一回起こしてくるよ」

「……はぁ、ごめん、お願い。ノックしても起きなかったら部屋に突入しちゃって。あんまり朝遅いと体に悪いし」

「はーい」


 唯が立ち上がってリビングから出て行く。


 数分後、「わぁあああ!」という甘奈の悲鳴がリビングにまで響いてくる。朝から大きな声だ。やひろは呆れながらもほっと胸を撫で下ろした。とりあえずこれで、朝起きたらいなくなってる、なんて馬鹿げた妄想は頭の中からポイッと放り出せる。


 すぐにどたどたと廊下を走る音がして、リビングの扉が勢いよく開けられた。


「おっはよー!」

「……おはよう、甘奈」


 満面の笑みでリビングに突撃してくる甘奈の姿をちらと見て、やひろはすぐにそっけなく顔をそらした。

 起きてそのままリビングまで来たのだろう。明るい茶混じりの長髪は、寝癖やらなんやらで、冬毛のうさぎのようにふっくらと膨らんでいる。それに多分寝相が悪いのだろう、パジャマのボタンの一番上が外れてしまっている。


 ……指摘しない訳には、いかないか。

 やひろはちらとだけ目を向けて、


「ボタン、外れてる」

「え? あ、ひゃっ」


 すると、甘奈は胸元を手で隠しつつ、


「え、えへへへ……」


 そう真っ赤な顔で誤魔化すように笑っている。

 ……普通に恥ずかしがったりするんだぁ……?

 羞恥と少しの苛立ちがやひろの顔を赤くする。


「……イチャイチャしてる……」

「こら、揶揄やゆしないの。ほら美遊、髪結ってあげるからこっちおいで」


 甘奈の後ろから着いて戻ってきた唯と美遊がこそこそと話してるのが、またいたたまれない。


「甘奈、今ご飯と味噌汁準備するから。先座ってて」

「はーい」


 二つのお椀にそれぞれご飯と温め直した味噌汁をよそって、甘奈の席まで配膳する。


「ありがと、やひろ。いただきまーす!」

「ん、召し上がれ」


 勢いよく手を合わせ、一口サイズの鮭の切り身を口に運ぶ。


「んん、美味し~。今朝のも唯が作ったの?」

「ううん、普段はやひろ君が作ってるの」

「ほえー。ありがとう、やひろ! 鮭もお野菜も美味しいよ」

「……もうすっかり冷めちゃってるけど」

「え~? 冷めてても美味しいよ」

「……そう。ならいいけど」


 頬杖をつきながら答えるやひろを、箸をくわえたままじっと見つめる甘奈。


「ねぇ唯。やひろってば、なんでこんなに不機嫌なの?」

「ああ、やひろ君ね、甘奈と一緒に朝ご飯食べるの楽しみにしてたのに、甘奈がいつまでも起きてこなかったから拗ねてるだけなの」

「え」

「あっ、このっ、唯!!」


 子供っぽい感情を洗いざらいバラされて、唯を批難するように睨む。

 が、唯は余裕そうな微笑みを返すだけ。『何か言い開きがあるなら、言ってみて?』と目でからかってくる。実際、幼稚な振る舞いをしていたのは事実だし、何も言い返せない。


 甘奈の方に視線を移すと、こちらを見つめたまま、大きな目を見開いて固まっている。顔がやはり少し赤い。


「……悪いか」

「う、ううん、全然! ふ、ふーん、そうなんだ、そっかそっか、えへへ」


 慌てて視線を戻して、食事に戻る甘奈。おかずを取り寄せる箸の動きがさっきよりも早い。


「わたしももっと早く起きるつもりだったんだけどね、なんかすっかり熟睡しちゃって。あっ、あのベッド! 寝心地良すぎない? 柔らかくて気持ちよくて、すぐ寝入っちゃった」

「そう? 客用のだから、体に合ってないかもと思ったけど」

「ううん、全然!」

「まぁでも、いつまでも客用のってのもあれだし、今日マットレスとか枕も買おっか」


 そう言って、やひろはタブレットを手に取ってメモに追記する。


「ええっ、いいよそんなの! あのベッドで十分!」

「常用するなら、客用じゃないんだよ……。あ、ついでだし唯のも買おうか。ずっと客用のを使ってもらってるし」

「いや、それはおかしくない……?」

「でもせっかくだし……。オーダーメイドの枕とかすごいんだよ。睡眠の質、ひいては人生の質が段違いで」

「お、オーダーメイドぉ!? やひろってば、オーダーメイドの話してたの!?」

「うん。でもそんな大した話じゃないよ。ゼロから作ってもらうんじゃなく、骨格測定して診断してみたいな感じ。体の負担が全然違うから」

「……確かに、わたしのベッドもすごい寝心地いいです……」


 と、うちに来た時に合わせてベッドを買った美遊が呟く。


「じゃあとりあえず、唯はともかく甘奈の分は買おうか。客用のも空けないとだし」

「オーダーメイド……」

「それで後、衣類は買うとして、他に欲しいもの、必要なものってある?」

「……うーん、特にない、かなぁ」

「そう? まぁ、何か思いついたら気兼ねなく言って。で、今のところ、昼前十一時くらいに家出るつもりだから、そのつもりでお願い」

「はーい。……あ」

「ん、なに?」


 甘奈は珍しく少し逡巡して、


「お買い物の前に行きたいところあるんだけど……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る