Morning Call-Ⅰ

 惰眠だみんむさぼる、という言葉がある。


 甘美な響きだ。怠惰な眠りを貪り食らう。欲深く魅力的。

 誰にだって経験はあるだろう。休日の朝、目を覚ました後もだらだらと緩慢に寝床に居座り、もう昼手前になってから起き出してくる。日々自らを拘束する労働や勉学から解き放たれ、贅沢に自由を浪費する時間。人の身には抗えぬ悦楽。


 ただその代償は大きい。昼まで寝ていると仮定すると、基本的に週二日しかない休日のうちの半日、実に1/4を無駄にする。無論、極端な計算だが、気持ちの上ではそうだ。その罪悪感や後悔が心地の良い休日に与える悪影響を加味すれば、あながち間違いとも言えない。


 つまりは朝、より素早くよりはっきりと目を覚ますことは、より良い人生において、重要な意味を持つと言える。

 少なくともやひろのご先祖達はそう考えていたらしい。


「んっ……」


 いつも通り、窓から差し込む朝日でやひろは目を覚ます。

 やひろの自室は、屋敷の二階、東側にある。今はいない兄や父母の部屋もそうだ。この屋敷はそこで暮らす住民の部屋に、朝日が入り込むようにできている。建物の影にならないよう、わざわざ高台の住宅地の東端に屋敷を建てる徹底ぶり。


 やひろはベッドから抜け出しながら、枕元の目覚まし時計のスイッチを止める。現在時刻は5時30分。このアラームがどんな音で喚くのか、やひろは忘れてしまって久しい。

 立ち上がってまず窓の向こうを見る。朝日に照らされる町にはまだうっすらともやがかかっている。カーテンを開ける必要はない。窓にかかっているのは遮光性の低い薄手のものだけだ。無論これでは、窓の外からやひろの部屋が覗き放題である。この屋敷が高台の端である以上、ドローンでも使えば、の話だが。

 続いてやひろは、ほとんど無意識の慣習で、寝間着を脱ぎジャージに着替える。部屋を出て他のみんなを起こさないようにそっと階段を降り、玄関を出た。



 夏も間近に迫ったこの季節でも早朝は肌寒い。やひろは手早く体を伸ばし、まだ薄暗い住宅街を走り出す。

 早朝のジョギングは六歳頃からの習慣だ。朝、母に無理矢理起こされ家族みんな一緒に走る。染みついた習慣は一緒に走る家族が屋敷を離れても体から抜けない。やひろは一人で走りながら、時折同じように早朝から花壇の水やりやジョギングをしている近所の住民に会釈をする。

 約十分後、屋敷に戻ってきたやひろは、シャワーを浴びて普段着に着替え直し、キッチンに立つ。


(……そういえば、カレーもうないんだっけ)


 流しにある、昨日洗っておいた鍋を見て、ようやっとそのことを思い出す。カレーを作った日は、大体次の日も残るものなのだが、昨日は甘奈というイレギュラーがあり、ほとんどルーが残っていなかったのだ。冷蔵庫に入っているお椀に移しておいたルーだけでは、四人分の食事には足りない。


 仕方なく冷凍しておいた鮭の切り身を取り出す。が、三切れしかない。当たり前だ。買った時は甘奈のことなんて想定していなかった。


 ……そっか、そうだった。


 困った事態だと頭で思いながら、心では全然違うことを感じていた。

 そうだ、甘奈が戻ってきたんだった。今日から俺が甘奈の食べるご飯を作るんだ。

 いまだにぼんやりしていた脳に、酸素が回り出すのを感じる。


「おはよう、やひろ君。……どうしたの、にやけちゃって」

「へっ!?」


 顔を上げると、腕に洋服を抱えた寝間着姿の唯がやひろを見ていた。寝起きなので眼鏡をかけている。優しい色のピンクのフレームで、唯の表情も昼日中よりどこか柔らかに見える。


「ああいやなんでもないよ、おはよう唯」

「そう? シャワー借りるね」


 特に気にした様子もなく、唯は脱衣所に消えていく。


「……そんなにやけたりしてたかな……」


 ぐりぐりと頬を指でマッサージする。表情筋にたっぷりと乳酸が溜まっている気もする。

 ……気をつけよ……。

 脱衣所の向こうから水音が聞こえてくる。やひろはとりあえず珈琲を淹れる準備をしようと、ヤカンをIHコンロに置いてスイッチを入れた。



「上がりましたー」


 十数分後、ほかほかと上気した顔で脱衣所から唯が出てきた。目には既にコンタクトをしている。

 目元が見た目に与える影響は大きい。眼鏡だと穏やかでリラックスした印象だった唯の表情は、理知的で敏活に見える。着ているパーカーとズボンはオーバーサイズ気味でゆったりしている。そんな服も唯が着るとかっちりと整った印象になるのがいつもながら不思議だ。

 やひろは、フライパンから少し目を離し声をかける。


「珈琲、テーブルの上に置いといたから」

「あ、ありがとー。後でもらうね」


 そう言って唯はカーペットの上に体を広げる。いつものストレッチだろう。


「そろそろ暑くなってくるし、珈琲冷たいのにする?」

「ん? あー、やひろ君の好きな方でいいよ。淹れてもらってる立場だし」


 前屈しながらだからか、少しくぐもった声だ。だがそれを差し引いても、なんだか遠慮しているように聞こえる。


「……もしかして、まだ暖かい方がいい?」

「あー……。なんか私、夏でも冷たい飲み物って苦手で。全然飲めはするんだけど」

「ああ、確かに暖かいお茶ばっかり飲んでるよな」

「でも、やひろ君の好きな方で大丈夫。ちょっと飲むのに時間かかるだけだから」

「いやいいよ。どうせアイス珈琲にしろお湯出ししてから冷やすんだし。冷やす前のを入れるようにするから」

「……ほんと? じゃあお願いしちゃおっかな」

「ん、おっけー」

「気配り屋さんだよねー、案外」

「……案外は余計だよ」


 前傾姿勢から首だけ振り向いて笑いかけてくる唯から目をそらし、やひろはフライパンに向き直る。

 鮭の切り身はさらに一口サイズに切り分けて火を入れた。一切れが小さくなるから、焼き上がったらきのこと野菜のバター炒めと合わせて、ひもじく見えないように。一切れずつ裏返しながら、時折隣にある卵の味噌汁をかき混ぜる。


「よっし、じゃあ私テーブル拭いとくね」

「ん、お願い」


 やがて、ストレッチを終えて立ち上がった唯は、用意していたふきんでテーブルを拭き始める。


「……おはようございまぁす……」


 大きなあくびを手で隠しながら、美遊がリビングに入ってくる。

 美遊は朝に弱いタイプで、寝起きはいつも眠そうにしている。


「おはよう、美遊。朝ごはん、後少しだからもうちょっと待ってて」

「……あい」

「美遊、テーブル拭いてご飯食べたら、髪結ってあげるからね」

「……あい」


 椅子に座って、ただこくこくと頷いている美遊。眠そうというか、半分寝ている。


「後は甘奈だけだね」


 唯のその言葉に、どきりとやひろの心臓が跳ねる。


「……そうだな」

「? やひろ君、どうかした?」

「いや、なんか緊張しちゃって。起きてきたらどういう顔すればいいだろって」

「え、今更じゃない? 昨夜の方がよっぽどだと思うけど」

「いや昨夜はさ、みんなに納得してもらえるかとか、そういう緊張が勝ってたんだけど、その辺が落ち着いてきたら、一緒に暮らすことに緊張してきた」

「あぁ~。確かに、昨日はやることも多かったもんね。それに朝、一日の始まりを共有するのってちょっと特別だし」

「だよな」


 唯の言葉に頷くやひろ。

 そうだ。これから始まるのだ。やっと帰ってきた甘奈との暮らし。新しい四人での生活が。


「……早く起きてこないかな」


 その無意識の呟きを聞いた唯がからかうような微笑みを浮かべているのに、やひろは気付かなかった。

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