僕と君(たち)との暮らし-Ⅴ

 例の神官服を脱ぎ、湯上り姿の甘奈が肌を上気させながら部屋に入ってくる。


 濡れた髪をタオルで巻いていて、着ているのはライムグリーンのパジャマだ。確かに唯が着ていた覚えがある。でも唯が着ている時と少し様子が違う。


(マジかよ……。あの唯の服だぞ……)


 惜しくもサイズが足りていないのだ。ライムグリーンのパジャマは無惨にも胸元で内側から押し広げられて、ボタンとボタンの間が少し歪んでしまっている。

 無論、奥の肌が見えるほどではない。だが、そのわずかな暗い隙間へ、視線が自然と落ちていってしまうのをやひろは自覚せずにいられなかった。


 いけないと思って無理に視線を外しても、今度はしっとりと濡れて赤くなった頬やゆるく開いた襟元から覗く素肌に目が行ってしまう。


「?」


 きょとんと首をかしげて、甘奈はその大きな目でまっすぐに見つめてくる。やひろは目を合わせることができない。


「ちょっと小さかった? 私のパジャマ」


 唯に声をかけられて、甘奈の視線がやひろから外れる。


「うーん、ちょっとズボンのウエストキツいかも。ゴム伸びちゃったらごめんね」

「ううん、気にしないで」


(絶対、ズボン以外にあるだろ!)


 思わず口に出そうになるのをやひろは必死に抑え込む。

 しかし、甘奈や唯のこの反応からして、女子からしたらさほど気になるほどではないのだろう。こっちが過剰反応しているだけだ。絶対に気づかれてはならない……! 


「じゃあ、美遊。次お風呂どうぞ」

「…………ゎぉ…………」

「? 美遊?」

「へ、は、はい! お風呂ですね、はい、行きます。行ってきます」


 何故か甘奈を見てぼぉっとしていた美遊が、唯に声をかけられて、何故か顔を赤くしながらぱたぱたと部屋を出て行く。

 ……どうしたんだ? 風邪じゃなきゃいいけど。

 美遊の様子に気を取られて生まれたやひろの一瞬の隙をついて、甘奈がすり寄る。



「ねぇ、やひろ」

「!」


 眼前に現れた甘奈にぎょっとして、やひろの体が思わずのけぞる。

 再会して以来、ちょくちょく思っていたが、甘奈はかなりパーソナルスペースが狭い。再会直後に抱きついてきたし、話す時、歩いている時、そういった普段のやり取りからいつも少しずつ近い距離にいる。


「さっき何か言いかけてたけど、どうしたの?」


 こうして話していても、もう半歩も前に出れば互いの胸が当たる距離だ。

 肌から漂う入浴剤の残り香が、襟元の奥の薄暗がりが、はっきりと知覚できてしまう距離間。

 顔が熱い。傍から見ると赤くなって見えるのだろうか。そう考えるとますます熱くなってしまう。


「やひろ?」

「あっと、部屋の準備が……、そう! マットレスとか持って来ないとだからさ、俺ちょっと行ってくるね!」


 やひろは、そう言って甘奈から視線をそらして、部屋を早足で出て行く。


 危なかった……。

 薄暗い廊下でゆっくり息をして、心臓の鼓動を落ち着けることに集中する。


 美遊を引き取って半年ちょっと。一緒に暮らしていたら、女子の寝間着姿を見かけることぐらいで動揺しなくなるし、興味のないポーズをとるのにも慣れてきた。

 けれど甘奈と暮らしていたわけではないし、寝間着姿でも気にせず近づいてくる分、美遊や唯とはまた勝手が違うのかもしれない。気をつけないと……。



「あ、やひろー。わたしも運ぶの手伝うよ!」

「うぉわ!」


 後ろから甘奈に声を掛けられて、本気で驚きの声を上げてしまう。


「むぅ、お化け扱いされたー」

「甘奈! 大丈夫だから戻ってて!」

「え、でも、一人で寝具持ち運びするのしんどくない? マットレスだけじゃないでしょ?」

「そ、それはそうだけど……」


 マットレスの他に、枕や毛布もある。二回、三回は往復するつもりでいた。


「いやでも……」

「それにわたしの部屋の準備、みんなにやってもらいっぱなしなのもやっぱり嫌だし」

「…………そこまで言うなら」


 廊下自体の電気はついてなくて、光源は準備中の部屋やリビングから差し込む光だけ。甘奈の表情は薄暗くて良く見えない。

 だが、不満げな様は声だけでも伝わってきていて。さっき秘密の会話のために風呂に行かせたことや、風呂上がりの姿に若干のよこしまな視線を向けてしまった罪悪感から承諾してしまった。


「ふふーん、任せて! さ、行こ行こ! お布団はどこかな?」


 晴れやかな声でそう言って、甘奈はやひろの背中をぽこぽこと叩く。湯舟でしっとりと温まった手の温度感。またやひろの心臓がどっと跳ねる。


 ……この薄暗さなら、見た目は気にならないと思ってたけど。


 一度意識してしまうと素知らぬ振りは難しい。胸元や水気をはらむ素肌が目に入らなくなっても、うっすらとしか見えない表情や風呂上がりの香りに意識が向いてしまって、却って蠱惑的こわくてきに思える。


 ……気にしない気にしない……。


「二階だからこっち。ついてきて」


 ぶっきらぼうな調子でそう言って、やひろは廊下を歩いて行く。


「はーい」


 少しキツい口調のやひろの言葉に、甘奈はむしろ懐かしそうな声で応えて後ろをついていく。


「少し階段急だから気をつけて」


 照明をつけて古い階段を登る間も、一階と比べると和製な廊下を歩いて、寝具を収納している押し入れに向かっている間も、やひろは後ろを振り向けない。


 ……流石にこれは良くない、感じ悪すぎる。


 防菌カバーされた枕やシーツを手に取り、やひろは意を決して振り返る。


「はい、これ。持っていって――、なに笑ってんの?」

「ん?」


 渡された寝具を受け取りながら、甘奈はにこにことした表情を浮かべていた。


「だって、なんか楽しくて。ベッドの準備一緒にするなんて、お泊まり会みたいじゃない?」

「お泊まり会っていうか、しばらくここで暮らしてもらうんだけど」

「うん。だから、こういう準備一緒にしてるとね、これからやひろと暮らせるんだなぁ、って楽しくなってきちゃった」


 まるで邪気のない笑顔を見せる甘奈に、また一段と強く心臓が跳ね、ぐっと息が詰まる。


「……そう。それは良かった」


 やひろはまた口調を堅くして答える。顔は多分赤くなって、変に強ばっている気がしてならない。


「うん」


 甘奈にやひろの様子を気にする素振りはない。むしろ懐かしそうに朗らかな表情をしている。

 きっと思い出しているんだろう。小さかった頃、自分といた頃のやひろを。


 ……だから、良くないってこれは。


 これは、子供の頃からのやひろの悪癖だった。

 誰かに好意を示されたり、感謝されたりした時、それがやひろにとって嬉しかった時、過剰に緊張して、却ってかたくなな態度を取ってしまう。

 最近はずいぶんまともになったと思うが、小学生の頃は、その性格が災いしてか、ほとんど友達がいなかった。それこそ甘奈くらいしか。


 昔から甘奈は誰にも物怖じしなかった。きっとそれは、今も変わらないのだろう。

 ……俺は……。


「……あのっ、さ」


 やひろは、はやる心臓を抑えて声を出す。ちゃんと聞こえるようにと紡いだ言葉は大きすぎて、慌てて抑える。


「ん、なぁに?」


 甘奈がやひろに顔を寄せる。その顔をやひろは必死な思いで見つめ返す。


「……俺も、嬉しいよ。甘奈と、暮らせるようになって」

「へ」

「……だから、ありがとう。信じて、うちまで来てくれて」

「…………」


 甘奈は何も言わない。

 大きな目をさらに見開いて、やひろをまっすぐ見つめてくる。

 先に限界を迎えたのはやひろの方だった。


「ほら、早く下行こ! あの、唯も心配すると思うし!」

「う、うん」


 寝具をぎゅっと握り締めて階段へ向かう甘奈の後ろを、やひろもマットレスを抱え込んで、ついていく。

 ちょうど上る時と逆の形で、階段を降りていく。マットレスで階段が見えないから慎重に。


「ふふっ」


 塞がれた視界の向こうから、甘奈の笑い声が聞こえてくる。


「……なんだよ」

「なんでもなーい」


 聞き返しても楽しそうな声が返ってくるだけ。

 ……こいつ。

 その後も部屋につくまでの間、前から愉快げな笑い声が途切れ途切れに聞こえてきた。


「二人とも、お疲れ様~。やひろくん、受け取るよ」

「ん、頼む」


 甘奈の部屋につくと、唯の声がして反対側からマットレスを支えてくる。

 マットレスの重みが向こうに移ったのを確認してから、やひろは手を離す。


「じゃあ、やひろくん。後は私たちでやっとくから、やひろくんは食器洗いとかお願い」


 唯が抱えたマットレスの奥から精一杯顔を出して、こちらを見てくる。


「……大丈夫か? 結構サイズあるけど」

「大丈夫大丈夫、明日も早いだろうし、手分けしてみんなで早く寝よ」


 首が圧迫されて、唯の声が変な感じに聞こえる。……正直ちょっと面白い。


「ありがとう。じゃあよろしく頼むよ」

「唯~、明日って何かあるの?」


 甘奈が持っていた寝具を机に置いて、唯の持っているマットレスを支えながら、聞く。


「ん、っはぁ、甘奈のお洋服とか足りない家具とか、色々必要なもの買いに行こうって話してて」

「ほわぁ、みんなでお買い物だね!」


 楽しそうに話す甘奈。唯と二人で折り畳まれていたマットレスを広げ始めている。

 大丈夫そうかな。

 キッチンに戻ろうとしたところで、甘奈に呼び止められる。


「あ、やひろ」

「なに?」


 甘奈は、はにかむように笑って、


「おやすみなさい、また明日もよろしくね」


 少しだけ恥ずかしそうな甘奈の表情が新鮮で、自然と口がほころんだ。


「ん、おやすみ。また明日な」


 軽く手を振って、今度こそ部屋を後にする。


 また明日、か。

 そういえば、『また明日』なんて挨拶だって九年振りなんだった。

 そんなことを今更になって思い出す。


 それでやひろは、ようやっと、甘奈とまた会えたのだと実感できた。

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