君の記憶は夕焼け色-Ⅳ
「やひろー!! 早く早くー!」
唯と別れ、大体徒歩三十五分。ちょっとした小山の頂上に、その神社はある。
「待てってば、かんな!」
小学生の低学年までは別邸の方に住んでいて、こっちの学区の小学校に通っていた。その小学校の裏手の小さな山の神社が、その頃の
「おそいよー! ネコいなくなっちゃう!」
「な、なんでそんなに足速いんだよ、おまえ……」
高校生になった今は大したことないこの階段も、小学生の体にはかなりきつかった。そんな階段を甘奈はいつも容易く登っていた。体を動かすのが好きで、ちょっとしたことではしゃぎすぎて、せがんで買ってもらった白のワンピースを一日で泥だらけにしては、母親に叱られてわんわん泣いていた。
「にゃんこー? どこ行ったのー?」
「あーあ、またそんな地べたにねっころがって」
神主もいないような、小さくさびれた神社だ。でも、子供の頃はずっと広く思ってた。境内を鬼ごっこしたり、ばちあたりにも鳥居をゴールにしてサッカーしたり。
「やひろがおそいから、にゃんこいなくなっちゃったじゃん」
「むー、ほんとにいたのかよ」
「いたの! かわいいしましまのコネコ! じまんしたかったのにー」
その日も二人で縁の下に潜って、猫を探してた。でも暗くて見つからず、最後には疲れて二人で座り込んで話してた。
「はぁ、ズボンぐしょぐしょになる……」
「……ねぇ、やひろ」
「なにー?」
「キスしたことある?」
「なにいってんの!?」
多分それは、好奇心からくる子供の言葉だったんだろう。でも当時の自分は本気で動揺してしまった。
「昨日テレビで見てね。キスってどんななのかなー。やひろはきょうみない?」
「きょうみは、あるけど……」
「じゃあしてみる?」
「え」
どうしてだろう。顔も見えないほど真っ暗だったはずなのに、期待に満ちたきらきらした目を今でも覚えてる。
「………………い、いいけど」
「じゃあ、目つむって?」
そう言いながら、甘奈は幼い自分の肩を掴んだ。その手がやけに力が強くて、怖くて、でも震えながら目をつむる。
「……いくよ」
喉が渇いて返事ができなかった。
肩をつかむ力がさらに強くなって、鼻の頭に温かな息が当たって、荒い呼吸がすぐ近くで聞こえて、
暴力的に引き剥がされる。
「きゃあ!?」
「な、なにっ!?」
思わず目を開ける。真っ暗だったはずの神社の縁の下は、いつの間にか薄紫の霧が埋め尽くしていた。まどろみの中で見る悪夢のように、柔らかく湿った冷たい空気が全身にまとわりつく。
「やひろ!」
白い白い、光で出来たような無数の腕が、蛇のように甘奈に絡みついて、霧の奥へ引きずりこんでいく。もう下半身は見えない。
「かんな!」
訳もわからずに甘奈の元へ飛びついた。その腕に手を伸ばすように。その指先が甘奈の手をつかんだ瞬間、無数の手が、腕が、目もないのに睨みつけるようにこちらを見た。
衝撃が小さな体を襲って、一瞬つかんだ指先はすぐに離れてしまった。それでもなお止まらず、幾本もの腕が順番に自分の体を突き飛ばしていく。
「っつう~!」
二、三秒空中を浮遊したのち、地面に叩きつけられる。打った頭を抱えながら立ち上がると、
「……かんな?」
その時にはもう霧は晴れていて、無数の腕も、甘奈の姿も、どこにも見つけられなかった。
「かんな! おーい、かんなー! かんなぁ!!」
それから、やひろは日が沈んで父や甘奈の両親が探しに来るまで、神社の中を繰り返し繰り返し甘奈の名を叫んだ。その時の絶望感は今も克明に覚えている。心の奥底に刻み込まれたようにはっきりと。
親たちにも、霧と腕の話はした。誰も信じてくれなかったけれど。警察も呼んで日付が変わるまで捜索したらしいが、甘奈は見つからなかった。
「………………そりゃあ異世界に連れてかれたんじゃあな」
甘奈がこの世界からいなくなって、もう九年になる。
一年、また一年と時間が経てば経つほど、刻まれた絶望感が諦観に変わっていく。その感覚が、指先から熱を奪っていく。
神社の中央にある賽銭箱に、財布から五円玉を取り出して放り投げる。目を閉じて手を合わせる。体の芯に残る熱量をまっすぐ見つめるために。
……どうか甘奈が生きていますように。異世界で幸せに暮らしていますように。苦しい思いをしていませんように。どうかどうか、いつかこっちに帰ってきて、また会えますように。
そう祈りながら、風が木々を揺らす音を静かに聞き続ける。
「帰ろ……」
そう独り言ちて、やひろは踵を返し神社の階段を降りていく。
唯には感謝しないとな。
当然何も得られるものはなかったけど、落ち着いた穏やかな心地だ。一時でも甘奈のことだけ考えていられる時間を、思いのほか自分は必要としていたらしい。
階段を降りて、やひろは狭い道路を渡る。神社の小山がある場所自体がちょっとした高台になっていて、別邸のある町がガードレールの向こうに見下ろせる。
何かお土産に買って帰ろうかな、確か子供の頃好きだった洋菓子店がこの町にあったはずだ。
「でも待たせている手前、早く帰った方がいいかな――え」
不意に、冷たい風が背筋を震わす。霧が、薄紫色の霧が、異様な速度で後ろから押し寄せてくる。背中から組み付いて目を塞ぐように、町を覆い隠していく。景色が薄紫色に染まっていく。
「これ……!」
あの時の霧だ……!
心臓の鼓動が突然激しくなっていく。耳元でどくどくと音がするほどに。
霧はやひろの背中側から漂ってきた。神社の階段を降りてまっすぐ来たやひろの。
あの神社に異界と行き来する門が開いてる……!
その思考がふらりと、やひろの足を勝手に動かしていた。逸る気持ちに反して、走り出すことさえままならず。
歩き出したやひろの体を閃光が照らした。
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