4.淡く輝く満月


「お姉ちゃん、瞳さん……おはよ」

「麻里衣、もう大丈夫? お腹痛くない?」

「治ったみたいです。ありがとうございました」

 二階から下りてきた麻里衣の顔色は良くなっていた。瞳さんの問いに答える顔にも赤みが差している。

「薬が効いたみたいでよかった。三人揃ったし、外に出てみる? 雨が降ってなかったら海行こうよ。風がちょっと強いけど」

「あ、はい」

 椅子から立ち上がった瞳さんに続いて、扉を出る。雨はすっかり上がっているみたいだ。片側一車線の道路を渡れば、すぐに浜辺に下りることができる。あたしたちが生まれて初めての海を見た、潮の匂いが濃いところ。

「うわぁ、大きい月が出てる。満月かな」

「ん、満月だね。今日はちょっと雲が邪魔だけど。あんたたちに見せたかったんだ」

 はしゃぎ気味に先頭を歩く麻里衣が声を上げ、すぐ後ろを付いていく瞳さんが答える。空では小さな雲が梅雨時期であることを主張するかのように、次々とまだ低い月を隠そうとしている。しかし雲はあたしたち三人が砂浜に立って海と月を見ているうちに風に流されていって、夜の黒の中に淡く輝く黄色い円があらわになった。

「今日の月、あまり赤っぽく見えないですね。きれいに光ってて」

「ああ、赤っぽい時あるね。気持ち悪い感じ」

「……海って、広いんですね。昨日、初めて見ました」

「初めてだったんだ? ここは湾だから狭い方だけど。湾の向こう側は隣の県だよ」

 ざざん、ざざんと音を聞かせる波を見ながら、あたしと瞳さんはぽつりぽつりと言葉を交わす。雨が降ったせいでまだ湿っている砂は、時折吹く強風にも巻き上げられずに地面に吸い付いている。

「……あたしたち、たぶん、あそこらへんから来たんです」

 暗い海の向こうの陸地に、大きな煙突の明かりがチカチカと赤く点滅しているのが目立っている。

「あの明かりは火力発電所だったかな、確か。古いやつ。もっと右の方にいくと工業地帯だね」

「そうなんですか。知らないことばかり」

「これから知っていけばいい」

「……はい」

 昨日まで知らない同士だった人と、並んで海を見ている。言葉も交わしている。そんな不思議な気分に頭がくらくらする。

「ああ、そうだ、私もちょっと電話しないといけないんだった。あんたたちはどこにも行かないで、ここにいてね」

 そう言うと瞳さんは離れた場所で電話をかけ始めた。時々道路を通る車のヘッドライトが彼女の顔を照らし、その顔が柔らかく微笑んでいるのが見える。

「ねえ、麻里衣、ずっとここにいたい?」

 波打ち際すれすれまで海に近付いていた麻里衣に後ろから尋ねると、麻里衣は「うん」と即座に答えた。

「あたし、瞳さん好きだな」

「そう、わかった。あたし、がんばるから」

「……ありがと、お姉ちゃん」

 何をどうがんばればいいのかなど、本当は全然わからない。ただ、麻里衣を安心させたくて言ってしまった。現実としては二人でどこかの施設に行くべきなのだろうと、わかっていても。

 考え込むあたしの隣で、麻里衣が「満月きれいだね」とつぶやいた。


 海から店に戻ると、瞳さんはあたしと麻里衣をテーブル席に座らせてキッチンにこもった。しばらくしてから「スペシャルデザート。さ、食べて」と、高い足のついた平らなガラス製の器にプリンを乗せて、周りにフルーツと生クリームを飾り付けたものを持ってきてくれた。

「プリン・ア・ラ・モードっていうんだよ」

「プリン、あら……」

「プリン・ア・ラ・モード」

 はは、と軽く笑って、瞳さんはプリン・ア・ラ・モードを三つテーブルに置いた。「わぁ、すごい」と麻里衣の歓声が上がる。

「今は缶詰のフルーツしかなくて悪いんだけど、みかんとさくらんぼと白桃と黄桃……って、ああ、黄桃は嫌いなんだっけ?」

「味は別に嫌いじゃないんです」

「そうか。ま、食べてみなよ」

 あたしは瞳さんの言葉にうなずいて、スプーンを生クリームにゆっくりと刺した。ふにゃりと形を崩す白いクリームの感触が心地よい。

「何だか崩すのもったいないです。きれいだから」

「うん、でもそれを崩しながら食べるのが醍醐味なんだよ」

「んー、おいしい。あたしこれ好き。プリンもおいしい」

 麻里衣はさっそく生クリームとプリンを食べたようだ。同じように口に入れてみると、軽やかな生クリームの甘さをまとったプリンのほろ苦さが舌を刺激する。

「……おいしい……」

「だろう?」

 周りのフルーツもスプーンで取って食べてみる。黄桃は細くスライスされていても歯ごたえを感じられ、牛乳を感じさせる生クリームの濃厚な香りやみかんの酸味と合わさって、口の中で良い味に仕上がった。

 あたしも麻里衣も夢中で食べてしまい、気付いたら器は空になっていた。

「これ、店で出そうと思ってるんだ。できそうならメロンとかも乗せて」

「わぁ、お店で出すのいいと思う。あたしこれ好きです」

 麻里衣が目を輝かせて瞳さんに感想を告げた。そんな姿に安心感を覚える。

「ん、あたしも、いいと思います。おいしかったし」

 明るく笑う麻里衣と控えめに笑顔を作るあたしを交互に見て、瞳さんはゆるりと表情を崩した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る