5.ガラスに落ちる雨粒
水曜日の午前中、カフェ特集の取材で地域新聞の記者がやってきた。瞳さんが「ごめん、言うの忘れてた。二階に行ってていいよ」と言ってくれたため、あたしと麻里衣は二階の居室でテレビを見て過ごすことにした。
テレビにも飽きてきた頃に一階に下りて「買い物行きましょうか」と瞳さんに尋ねてみたが、「買い物はあとで行くからいい」と言われてしまい、本当にすることがなくなってしまった。
階下から居室に上がってまたテレビの画面に目を移すと、コマーシャルで『あなたの夢、叶えます』という言葉が流れていた。
「ねぇ麻里衣、夢ってある? 何かになりたいとか、こういうことしたいとか」
「ん、夢? うーん……瞳さんみたいになりたいな」
「それってカフェを開くってこと?」
「うん。お客さんにおいしいもの出して喜んでもらうの。お姉ちゃんは?」
「……え、あたし? あたしは別に……」
あたしはこれまで、将来の夢について考えることなどなかった。小学校で作文として書かされたことはあったけれど、『大人気のアイドルになりたい』という、他の大多数の女子たちも書いていそうな嘘を書いただけだった。
「お姉ちゃんも、何かになるんだよ。きっとお姉ちゃんなら何でもできるよ」
――そうだ、自分も何かになるんだ。でも、何に――
考えてみても、何も浮かばない。麻里衣を守りながら生きていくのに必死だった日々は、何も生み出していなかったのかもしれない。そう思うと気分が暗くなっていく。
「……まずは、家に帰らなくていいように……」
「そうだね」
「生まれてからずっと住んでたところ離れるの、嫌じゃない?」
「ううん、お姉ちゃんと一緒なら。でも我慢するのはやめてね」
「……麻里衣は優しいね。あ、そうだ、瞳さん、赤ちゃん流産したことがあるんだって。だからそういう話題は出さない方がいいよ」
「え、そうなんだ……。わかった、気を付ける」
「あと、あたしの写真が売られてたの、言わないでね。恥ずかしいから」
「うん」
頭が重くなるのは低気圧のせいかもしれないと、テレビで言っていた。ゆるく効いているエアコンのおかげで快適な気温なのに重苦しい気持ちも低気圧のせいなのだろうかと大きな窓に目をやると、雨粒がぽつりぽつりとガラスに落ち始めていた。
テレビ番組や雑誌、新聞などの取材はこれまで断っていたと、瞳さんは言う。「面倒だから」というのが理由だそうだ。
「いっぱいお客さん来ちゃったら、瞳さん一人だと大変だもんね」
「そう、それもある。昨日のは、そろそろ売上を増やしておきたいと思ったからなんだよね」
そんな麻里衣と瞳さんの会話を聞きながらランチタイムのサンドイッチに使う卵を茹でていると、一人の男性が扉を入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「こんにちは。空いている席へどうぞ」
まず麻里衣が対応した男性は、礼儀正しく微笑んだ。
「ああ、来たね」
瞳さんがぱっと明るい表情になり、彼に気軽に声をかける。知り合いなのかと思っていると、「別れた夫で、
「え、佐川って、瞳さんと同じ?」
「別れたなんて、ひどいじゃないか。僕は離婚はしないっていつも言ってるのに」
「あーそうだ、私は別れたつもりでいるんだけどさ……、離婚はまだしてないんだよね。このとおり、頑固な人で」
そんな大人同士のやり取りに驚いて麻里衣を見ると、やはり口を挟むこともできずに立っているだけだった。
「ごめんね、びっくりしたかな」
「あ、いえ、その……ご注文は……」
男性の言葉ではっと我に返った麻里衣が尋ねると、彼は「アイスコーヒーください」とにこやかに言った。「かしこまりました」と言い残して麻里衣がキッチンへ引っ込む。
「仕方ないんだよ、僕はまだ瞳を愛しているんだから」
「はいはい、わかったわかった」
「この間久し振りに電話もらえてうれしかった。愛しているよ、瞳」
「いいから、大人しく座ってて」
人前で「愛している」と平気そうに言ってしまう男性にまた驚くが、そんなそぶりは見せないようにしてあたしはアイスコーヒーを用意して麻里衣に渡した。
「お待たせいたしました」
「すごいな、しっかり接客できてるね。きみが……ええと、十四歳の子?」
「えっ……」
驚いて彼から体を少し引いた麻里衣に、瞳が慌てて声をかける。
「あ、麻里衣、そいつ弁護士だから怖がらなくていいよ。私が呼んだんだ。あんたたちにずっとここにいてほしいから、労力を使ってもらおうと思ってね」
「えっ……ずっとここに……!? 本当ですか!?」
「そうか、麻里衣にはまだ言っていなかったな、ごめん」
「ごめん、黙ってたわけじゃないんだけど」とあたしも謝ると、麻里衣は首をぶんぶんと振って否定した。
「そんなこといいの。うれしい。お姉ちゃんと一緒にここにずっといられたら、すごくうれしい。えっと、亮平さん……? よろしくお願いします」
「特別養子縁組ってことになると思うんだけど、具体的にはまだ考え中でね。がんばるよ」
亮平さんの笑顔に、麻里衣の表情が更に明るくなる。満面の笑みがとてもかわいらしい。
亮平さんはしばらくスマートフォンを使って、忙しそうに何かのやり取りをしていたようだ。ランチタイム近くになり、客が集まってくると「じゃあ、また来るね」と言って千円札を置き、扉を出ていった。
「もう、お代はいらないって言っといたのに」
亮平さんが去るのを見届けてから文句を言う瞳さんはとても幸せそうに見える。週末まではあと二日。あたしが何とかすれば、きっと、きっと――
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