6.埃が積もった玄関前


 とうとう土曜日がやってきてしまった。瞳さんは朝、まだ布団を出たばかりのあたしに「今日、何がいい方法なのか考えよう。またお母さんに電話することになるだろうから」と言って、いつもの支度を始めた。

 ランチタイムを迎える前に多くお客さんが入ったため足りなくなりそうな食材を買ってきてほしいと瞳さんにお金を渡されたあたしは、元の制服に着替えるためこっそり二階に上がった。

 ママはきっと、あたしだけでも戻ればとりあえず満足するだろう。麻里衣はある施設で預かってもらっている、そのうち迎えに行かないといけないと嘘を言おうと、借りていた服をたたみながら考える。

 あたしが大人の体になってもっと稼げるようになれば、ママは麻里衣のことは忘れるかもしれない。そのためには肉や魚も、何でもおなかいっぱい食べないといけないと言えばいい。うまくいけば、食事に困る生活から抜け出せるかもしれない。あたしはこのやり方が一番いいと思っている。

「……ごめん、瞳さん、麻里衣」

 瞳さんから預かっているお札を握りしめて、あたしはそろそろと居住スペースから直接外に出られる扉を開けた。そうしてなるべく音を立てないよう、外階段を下りる。

 グレーの曇り空からは、雨は落ちてきていない。駅までの行き方は記憶に残っている。麻里衣と一緒に入って菓子パンを買ったコンビニも。ここに来た時には汚い町だと思ったけれど、今となっては確かに幸せな時間を過ごすことができていたと、感謝さえ覚える。あたしは今、その道を逆方向に進んでいる。不幸が待つ方向へ。

 それでいい。麻里衣を守れればいい。あたしはそのためなら何でもする。嘘だってつく。ママの財布からお金を盗んだり、瞳さんのお金で電車の切符を買ったりもする。それくらいなんてことない。麻里衣と一緒にいられなくなると思うと悲しくなるけど、きっとそのうち悲しみにも慣れていくだろう。

 電車に乗って三時間半で、あたしは家に着いた。駅前で時計を見た時は午後二時半だった。そろそろ三時になる頃だろう。ママはまだ帰ってきていない。戻るつもりはなかったとはいえ、家の鍵を持って出なかったことに気付き、アパートの玄関扉にずるずると背中を預けて座り込む。

「……またスカート洗わなくちゃ……」

 埃が積もった玄関前で、むっとした空気が半袖のブラウスから出る腕や首にまとわりつく。息が詰まって喉の奥が痛い。ふと頬を触る。指が濡れる。

「麻里衣……」

 お姉ちゃんお姉ちゃんとあたしを慕ってくれた妹を守るために、学校の授業以外はいつも一緒にいた麻里衣。この家に住んでいた時には表情が乏しかったけれど、瞳さんのカフェに居着くようになってからはどんどん表情豊かになっていった麻里衣。思い出すだけで胸が痛い。

「ごめん、麻里衣、ごめん」

 「お姉ちゃんと一緒なら」という麻里衣の言葉が、頭の中で何度も再生される。本当にこれでいいのだろうかとあたしが疑問を持ち始めた時、アパート前の道の方向から「お姉ちゃん!」と声が聞こえた。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

「……な、んで、麻里衣……? 瞳さん、も……」

「この馬鹿! 何やってんだ!」

 突然現れた二人に「お、お店、は」などと弱々しい声が出てくるけれど、「そんなの気にしなくていい! 馬鹿!」と、瞳さんにまた怒鳴られる。

「お姉ちゃん、自分が犠牲になればいいって思ってたんでしょう!」

「そ、そう、いうわけでは……」

 「犠牲」は大げさな言い方に思える。あたしは麻里衣が幸せに暮らせて、自分も生きていくために食べられるようにと――

「あたしはお姉ちゃんと一緒じゃないと嫌なの! 何で我慢するの!」

「我慢、そんな、してな……」

「いつもいつもあたしのために我慢ばかりして、何も言わないでっ……! ……ごめん、お姉ちゃん、ごめん……」

「ち、違う、麻里衣、あたしが自分で考えて……」

 麻里衣があたしに抱きついたまま泣き出してしまった。肩に麻里衣の熱い息がかかる。あたしのしたことは、やっぱり間違いだったのかもしれない。麻里衣を泣かせるなんて。「心配かけてごめんね」と小声で言うと、麻里衣の嗚咽は大きくなった。

「……ねえ愛美、あんたの裸の写真、売られてたんだろ」

「えっ……?」

「だから母親は週末に帰ってこいって言ったんだよね。写真撮らないといけないから」

「……そう、そうです。ママが、売ってて……」

 瞳さんはお見通しだったのだろうか、的確に言い当てられ、恥ずかしさで目眩を感じる。

「自分から進んでやってたので、ママも……麻里衣には何も……」

「それ、亮平に全部言える?」

「亮平さん、に……? ……あ、えっと、何でですか?」

「あんたたちが虐待されてるって証拠になるから。でも愛美が嫌ならやめておく。とにかく、店に帰ろう。さ、麻里衣も泣いてないで、行くよ」

 麻里衣はこくりとうなずいた。「虐待」という言葉が刺さったというのに「帰ろう」という言葉がくすぐったくて、あたしも麻里衣より少し遅れて小さくうなずいた。

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