7.少し欠けた月


 『帰り』の電車の中で、あたしは熟睡してしまった。座席に座ることができ、ぼんやりと窓の外を見ていたら眠くなってしまって、気付いたら乗り換え駅に到着していた。

「愛美、大丈夫? 疲れてる? もう少しで着くから」

「お姉ちゃん、あたしがお店のお手伝いがんばるから、休んでていいよ」

「うん、ありがとう、麻里衣。でも大丈夫。大丈夫だよ」

 乗り換えた電車もすいていて、人がまばらにいる程度だ。麻里衣が心配そうにあたしを見るから、頭がまだ少しぼうっとしているけれど、つい「大丈夫」と繰り返してしまう。

「明日、店が終わったあと亮平が来るからさ。話したくないこと以外は話してほしい」

「あ……、はい」

「あのね、気付いてたんだ、私。あんたたちがかなりの事情を背負ってるってこと」

「えっ、なんで……?」

「あんた、後ろに麻里衣をかばっただろう、最初に私と会った時。普通はそんなことしないんだよ」

「普通は……」

 瞳さんが短くため息をついて、あたしの目を見る。ママやこども食堂のオーナーのような媚びた表情も、学校の大人のような同情の色もない、役所の出張所にいるおばさんのような無機質な堅さもない、豊かに動く、人間の目。

「しかも二人とも制服で、平日の昼間に海にいるなんて。……その、小柄な体格も気になったし、麻里衣以外の人を射抜くような鋭い視線も……何もかも、普通と違ってたから」

「そう、ですか……そんなに怖い顔してたんだ、あたし……」

 自分ではわからなかった。普通ではなかったなんて。

「でもね、そのおかげであんたたちはここまで生き延びてこられたんじゃないかって、何となく勘でね、思うんだ。……ああ、もう着くね」

 電車はスピードをゆるめ、駅に到着する。ホームに降りると海の方から吹いてくる風に、潮の匂いをうっすらと感じた。

「ああ、なんかこの匂い、懐かしい……」

 初めて来た街で感じた匂いがあたしの心の奥深くまで染み込んでいく。胸がぎゅうっと締め付けられて、涙が頬を濡らす。するとあたしの肩を瞳さんの温かい手が覆い、耳を麻里衣が「お姉ちゃん」とつぶやく声で満たす。

「おなかすいただろう。おいしいもの作ってやるから」

 涙は、とても静かに流れ始めた。瞳さんの言葉に頬をこすりながら「うん」とうなずくあたしを、湿っぽい夜の空気の中でぼんやりと輝く、少し欠けた月が見下ろしていた。


 ◇


 翌日の日曜日の夜、仕事が休みだという亮平さんがカフェを訪れた。

「こんばんは。愛美ちゃん疲れてるって聞いたけど、体調はどう?」

「あっ、す、すみません、あたし大丈夫です」

「そんなにかしこまらなくていいよ……と言いたいところだけど、おじさん相手じゃそうなっちゃうか」

 ははは、と快活に笑う亮平さんに、瞳さんが「あんまり愛美を怖がらせないでよ。ああ、そんなに近付くんじゃない」と低い声で言う。麻里衣はキッチンで飲み物を用意しながら、にこにこと笑っている。

「あの、あたし、平気なので……話したくないことも、ないです。もう、決めたんです。麻里衣と一緒に幸せになれるように何でもするって。そのためなら何でも話します。亮平さんのこと……、信じます。瞳さんが信じている人なので」

 そう、何でもすると決めた。だから昨日はここを離れようと決意した。でも、その方向が間違っていたから麻里衣と瞳さんはあたしを叱ってくれたんだ。二人はあたしを大事に思ってくれている。そんな人たちに黙って出ていくなんて本当に馬鹿なことをしたと、今ならわかる。

「そうか、信じてくれてありがとう。きみは強い子だね。じゃあ早速なんだけど……」

 亮平さんはあたしが裸の写真を撮られていて、インターネットで売られていたことについて細かく質問してきた。食事をもらえていなかったことも、生理用ナプキンやブラジャーを買ってもらえなかったことも、聞かれたことには何でも答えた。麻里衣も協力してくれた。

「……物理的な暴力は受けていないみたいだけど、うーん……。まあとにかくありがとう、じゃああとはおじさんに任せておきなさい」

「はい」

「亮平、いいところ見せてよ。また夫婦になるんだからさ」

「それそれ。うれしいこと言ってくれるね。瞳、愛してるよ」

「しょうがないじゃないか、夫婦じゃないと引き取れないんだから」

 大人同士の会話にまた目を丸くしていると、麻里衣が横から「また夫婦になるって素敵ですね」なんて茶々を入れ、瞳さんが照れたようにそっぽを向いた。

「二人を学校に通わせたいしね。きちんと手続きを踏まないと。あと他にもいろいろあるんだ、やってやりたいことが」

「そうだろうな。たぶん俺にはできないことだから、瞳がやらないと」

「うん。買ってやりたいものもあるし、毎日の食事だって……」

「……あっ、あの、瞳さん、お金……ごめんなさい、電車の切符買ってしまって……」

「え? ああ、まあいいよ、気にしないで。もうあんなことしたらだめだけどね」

「はい……ごめんなさい……」

「お金のこともそうだけど、それより、黙ってどこかに行ったりしたら心配するからってことだよ。わかってる? 愛美、あんたは自分を大事にしなさすぎる」

 瞳さんがあたしを見る。血が通った人間の目で。

「心配……かけて、ごめんなさい」

「よし、よく言えた! お金じゃなくてそっちの方を謝ってほしかったんだ」

 あたしの頭に瞳さんの手がぽんと乗り、数回なでられる。

「瞳さん」

「なに?」

「……ありがとう」

 そう言うと、頭の上の手はあたしの髪をぐしゃぐしゃにした。

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