8.仄白い切っ先


 亮平さんにこれまでのことを全部話してから、一週間が経った。その間、あたしたちは平和に暮らしていた。瞳さんはあたしと麻里衣にブラジャーや生理用ショーツを買ってくれ、「安いものでごめん」と言いながらTシャツやスカートなども買ってくれた。食事もたっぷり用意されるものだから、麻里衣とあたしは少しずつ体重が増えてきている。

「お店のお手伝いがんばらなくちゃね、お姉ちゃん」

「そうだね。あまり太ってもよくないし、動かなくちゃ」

「お姉ちゃんが太ってるのなんて想像できないなぁ」

 麻里衣はここに来た時より幸せそうに笑う顔を見せるようになった。あたしはそれがうれしくて、口数が多くなっている。瞳さんはそんなあたしたちを見てにこにこ笑う。絶対になくしたくない、穏やかな日々。

 ある日、閉店の直後で薄曇りの空が少しずつ明るさを失っていく頃、ギイと扉が開く音がして「すみません、もう閉店です」と言うと、そこには嫌というほど見知った顔があった。何の前触れもなしに訪れたママだった。

「本当にいた! まさか、こんなところに!」

「……ママ…!?」

「全く、こんな遠いところまで勝手に来て!」

 ママが喚く声が鬱陶しくてたまらず、手が耳を塞ごうとしてぴくりと動いてしまいそうになるのを見咎められないよう懸命に押さえつける。麻里衣は店の奥へと逃げ込んだ。それでいい、そのまま姿を見せないでほしい。

「な……、何で……」

「競艇場で拾った新聞に愛美の写真があったのよ。カラーのだからわかりやすかったわ。さ、帰るわよ」

 地域新聞の取材の日、瞳さんに買い物の用事はあるかと尋ねに行った時に偶然撮られたのかもしれない、後ろ姿だったかもしれない、顔を載せなければいいと思われていたのかもしれない――様々なことが脳裏をよぎるけれど、それよりも今は――

「い、いや……、戻らない。黙って出てきたのはわるかっ……」

「何言ってんの! あんたの家はあそこしかないでしょう!」

「……あっ、えっと、外で話そう。ね?」

「はぁ? まあいいけど」

 どくん、どくんと、胸の鼓動が激しく大きくなる。自分の細い声が聞こえなくなるくらいに。それでも、あたしは声を出す。できるだけ冷静に、暴れ出した心臓のことなんか知らないとでもいうように。

「ママ、なにで来たの? 電車?」

 小さく痙攣するように震える手で扉を開けて店の外に出ると、海の上には細い月が顔を出していた。ここに来てからよく見るようになった月は、今日は大きく主張せず、控えめに浮かんでいる。そんな弱々しい光でも目に映ると冷静になれる気がすると、ママへの拒否感が溢れ返る心の隅で思う。

「車だけど? それが何だっていうのよ」

「そう、雨が降るといけないもんね」

 瞳さんは一人で近所のスーパーに卵を買いに行っているはず。きっとすぐに戻ってくるだろう。それまでに何とか追い出したい、せめて店内では迷惑をかけたくないと、どうでもいいことを話しながらママと一緒に扉の外に出て車五台分くらいの駐車場へ出た。一台だけ停まっている車はママが乗ってきた車だろう。それ以外に停まっている車はない。店内にママの大きな声が響くより、道路を走る車の音で軽減される方がいい。麻里衣が店の奥から出てきた様子はないからきっと今頃パントリーにいるのだろうと思うと、少し安心する。

「ま、レンタカーだけどね。……で、あんた何でこんなとこにいんの? 早くうちに帰りなさい」

「……あたしと麻里衣は、もう帰らないよ。ママとは別れて、ずっとここで暮らすの」

「はっ、バカじゃないの」

「食べるものにも……、生理中のナプキンにも困る生活は……もう、嫌なの」

 あたしの言葉に、ママの目が見開かれた。一瞬気圧されそうになるが、負けじとその目を見ながら続ける。月は細いけれど、自分を見ていると信じている。

「写真も、売ってほしくない」

「……何を、生意気なことを……あんたたち未成年なのよ? 親の保護なしじゃ生きていけないんだから」

「そう、未成年だから、成長するために栄養が必要なの。手続きとかは……」

「手続きって何? 誰があんたにそんな入れ知恵したの?」

「誰、って……」

「あんたがそんな難しいことわかるわけないのよ! 誰なのよ、よけいなこと言ったの!」

「だ、誰でもない! 自分で考えたの!」

「はぁ⁉️ あんたそんなに頑固だったっけ⁉️ もういいわ、これがあるんだから……! これであんたが言うこと聞かないなら、殺すしか……」

「……えっ?」

 |呪いのようなセリフを言いながらママがハンドバッグから取り出したのは、大きめのナイフだった。ナイフを覆っていた白無地のガーゼ布が、その手からはらりと地面に落ちる。煤けた防犯灯の仄白い光で鈍いきらめきを持ったその切っ先は、こちらにまっすぐ向かっている。ママとの距離はたぶん二メートルくらい。相手が女の人とはいえ、刃物を持つ大人に立ち向かうなど、小柄で細身のあたしには無理だ。

「こ、殺す……!?」

「誰があんたたちをたらし込んだの! 殺してやる! あんたはあたしのために金づるになっていればいいんだから!」

「だ、誰も、たらし込んだり、して……な……」

「……誰? 愛美、何やってんの?」

「瞳さん!? 来ないで! こっち来ないで!」

 タイミング悪く、瞳さんが買い物から帰ってきてしまった。後ろには亮平さんがいて、二人とも大きな買い物袋を手に持っている。

「……ねえ、ママ、お願い。そん、な……危ないもの……しまって……、ね?」

「……こいつらね、あんたたちに入れ知恵したのは!」

「ち、違う違う! やめて! 瞳さんは何も……!」

 ママはあたしの懇願する姿をちらりと見てから、先端を前に向けたナイフを構えたまま瞳さんの方へ一歩を踏み出した。距離は四メートルくらい。その鋭い先端は両手が塞がっている瞳さんへと一瞬で近付き、無防備なお腹を――

「麻里衣…!? 麻里衣! きゃあああああ!」

 瞳さんをかばうように割り込んできた麻里衣の腰にナイフが刺さったのと、あたしが麻里衣の名を叫んだのは、ほぼ同時だった。

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