2.不気味な淡赤月


 「難しいことは明日」という瞳さんの言葉に完全に従ったわけではないけれど、あたしは店の二階の住居部に用意された布団に入ってすぐに寝入ってしまった。本当は、家を出てどうするかもっと考えないといけないと思っていたのに。

 麻里衣も熟睡できたようで、すっきりした顔で「お姉ちゃん、おはよ」と言う。瞳さんがあたしたちの服も洗濯してくれることになり、手伝えることはないかと尋ねると「いいから歯磨きとかしちゃいなよ」と言われた。洗面所に行くと、着替えの服が用意されていた。制服以外の服を着るのは久し振りだ。

「あ、あの、着替え、ありがとうございます」

「ああ、着替えは私のお古なんだ。我慢しといて。で、どうする? 電話しとく?」

 瞳さんの返答に、気が重くなる。ママに電話したら何と言われるだろう。

「……電話……」

「一応さ、カフェでは親戚の子預かってるってことにしとくから。とりあえず朝ご飯食べよ」

 麻里衣はあたしの横でうつむいてしまった。そうだ、この子だけでも守れればいいと決意を固めて、「はい」と返答する。

「麻里衣、大丈夫だよ。うまくやるから。……瞳さん、あたし何か手伝います」

「あ……、じゃああたしも」

 きちんと片付けられた部屋で瞳さんを追うあたしと、あたしを追う麻里衣に「キッチンに三人はきついなあ」と笑顔が返ってきて、胸が苦しくなった。


 瞳さんが作ってくれた朝食はトーストとスクランブルエッグだった。「シンプルでごめん」と笑う瞳さんの前で、あたしと麻里衣はすぐにお皿を空にしてしまった。

「電話はしといた方がいいよね?」

「そう、ですね……」

「雨が降り続いてるからいつ帰れるかわからないとか言っとく?」

「……その、実はあたしたち、食べ物をもっと食べられるところに行きたくて……どこかそういうところ知りませんか?」

「ああ……親に食事もらえてないんだ」

「え、っと……体が大きくなるのが……嫌みたいで……。パパはいないから、あたしがお金……」

 ここまでしゃべって、あたしははっと気付いて口をつぐんだ。犯罪だと、口に出してはいけないことだとわかっているのに。

 あたしと麻里衣の親はママだけで、パパは麻里衣が生まれてすぐに家を出て行ったらしい。今どこにいるのか、誰なのかも知らない。ママは毎朝出かけて、ギャンブルで遊んで夜に帰ってくる。夜に帰らない日もある。ギャンブルで勝つとたまに菓子パンを買ってきてくれることもあったけど、一袋しかもらえず、二人で半分ずつ食べた。ママはだんだん食事を用意してくれなくなって、片道徒歩三十分のこども食堂に通い始めた。

「……さ、ここ片付けないと。今日も雨でお客さん少ないかもしれないけど、開店するから」

「あ、あたし、も、できることなら……」

 毎週末、夜になるとお風呂で撮られるあたしの裸の写真は、ママの機嫌を良くした。麻里衣を撮らせたくなくて、いつも自分がやりたいと申し出てにこにこ笑いながら撮られていた。でも、本当は嫌で嫌で仕方がなかった。

「あはは、愛美はやる気十分だね」

「えっと……、がんばります」

 「細い体も良い」と、ママは言っていた。その時は気付かなかったが、きっとやせている体も需要があって売れると言いたかったのだろう。写真がインターネットで売られていることに気付いたのは、十二歳の時だった。

「ふふっ。いいねぇ、いつも一人だから楽しいよ。麻里衣はどうする……ああ、呼び捨てでいい?」

「あ、はい、麻里衣でいいです。あたしも何かやります」

 自分の裸体が知らない誰かの目に晒されていると知った時は急に気持ちが悪くなり、トイレに行って吐いてしまった。出てきたものはこども食堂で食べたワカメのかけらや黄色っぽい粘液だけだった。それでも、内臓まで出てきてしまうかもしれないと思うくらい、思い切り何もかもを吐き出した。涙と鼻水が顔を濡らし、便器や床に垂れた。吐き続けて吐き続けて、胃や喉が苦しくて痛くなった。顔や服を汚したあたしを見たママは「汚い」と怒っていた。

「麻里衣もいい子だね。さ、食器持っておいで。洗っちゃうから」

「はい。お姉ちゃん、あたしやるからいいよ」

「う、うん」

 出せるもの全てを吐いてから、あたしはいつか麻里衣を連れてこの家を出ようと決意した。こども食堂で「集まってくる子供をいつ売るか」などと大人たちがひそひそ話していたのを聞いてしまった直後だったから、というのもある。扉の影で息を潜めて聞いた話では、こども食堂のオーナーが、労働力を欲しがっている養護施設に一人一人子供を連れていっているということだった。かなりの金額が入ってきているというのに、出てくる食事やデザートは安いものだ。デザートなんて缶詰の黄桃以外に出てきたこともないのにと思うと、怒りで体が熱くなるのを感じた。

 「顔は写してないから、安心しなさい」「あんたはこれくらいしか能がないんだから、せいぜい役に立つのよ」「いいじゃない、それで学校に通えてるんだから。給食費だって払ってるのよ」

 ママは、あたしが「写真が売られるのは嫌」と伝えた時こう言った。子供の裸の写真はよく売れるらしい。あたしたちの体が大きくなるにつれて、ママの態度は冷たくなっていった。

 初めて生理が来たのは、あたしが十四歳、麻里衣が十三歳の時だった。タイミングはほぼ同じだった。

 「えっ、二人とも生理来ちゃったの? 体型が変わっちゃうじゃない。小さくなった服買い替えるのも嫌なのに。もう、ずっと制服着てなさい」

 ママの尖った口調に、ブラジャーも買ってほしいという言葉を、あたしと麻里衣は飲み込んだ。

「愛美、牛乳全部飲みなよ」

 瞳さんの言葉にはっと我に返ったあたしは、牛乳のカップを持ったまま小さくうなずいた。


 ◇


 「瞳さんのそばにいると安心するの。言葉は乱暴だけど」と、麻里衣は話した。瞳さんのカフェに居座るようになってから、丸一日経つ。梅雨の晴れ間には、多くの客が来るらしい。「うち、値段は高めだけど人気があるのよ」と彼女は言っていた。

「今日も雨だったからお客さん少なかったなぁ。ああ、もう閉店だから扉閉めておいで」

「はい」

 シンプルなグレーのエプロンの肩紐を直しながら言う瞳さんに麻里衣が素直に返答し、さっと立ち上がった。木でできた素朴なデザインの扉がギイと音を立て、やがてパタンと気持ち良く閉まる。

 背の高い瞳さんは店のキッチンで洗い物をしていると腰が痛くなるとのことで、あたしは代わりに洗い物を担当している。麻里衣は客の注文を取ったり飲み物を運んだりする担当だ。

「あ、雨止んでるかな。夕食にしよう、もう七時過ぎたね」

「はい。……その、瞳さん、あの……」

「麻里衣? どうしたのかはっきり言いなよ」

「あっ、はい。生理……なっちゃった、みたいで……」

 小さな声の麻里衣に瞳さんは「ああ」と軽く返してから、店の奥の小さなクローゼットを顎で指した。

「ナプキンならそこに入ってるから、好きなの使って……と言いたいところだけど、夜用のは買ってこないといけないんだった。明日は一緒に買い物に行ってもらおう」

「はい」

「今日はまだ夜用じゃなくて大丈夫かな?」

「はい、大丈夫です」

「よかった。一日目の最初から量が多い人もいるからね」

 二人のやり取りを見て、あたしはほっとした。ママは、あたしたちが生理になると気が狂ったように怒鳴り散らしていた。おまえらが女になるなんて許さない、子供のままでいろと、何度も無茶を言われたものだ。麻里衣は学校のトイレに常備されているナプキンを三個ポケットに入れたら、クラスの女子に小突かれたと言っていた。それでもママにナプキンを買ってほしいと言い出せず、仕方なく役所の出張所に行って、子供向けキャラクターをエプロンに付けた無表情のおばさんからもらっていたのを思うと、天国のようだと思う。

「体調は?」

「今はまだ何ともないです」

「そう、よかった」

 「早くトイレに行ってきな」と付け足すと、瞳さんはフライパンを取り出して夕食作りを始めた。あたしに冷蔵庫から出すカット野菜などを指示しながら、フライパンに薄緑色の油をたらす。

「好き嫌いするんじゃないよ。ま、あんたたち嫌いなものはなさそうだけど」

「……嫌いなもの、あります」

「へぇ? 何が嫌い?」

「黄桃。缶詰の。栄養があるフリしてそうだから」

 瞳さんは、あたしの言葉に「ははっ、栄養があるフリか」と楽しそうに言うと、フライパンに細切りベーコンを入れた。

「黄桃にも栄養は一応あるだろうに。ビタミン類とかさ。あと、糖分も取らないと、頭に栄養がいかないって聞いたことあるよ」

「……頭、なんて……学校なんて……」

「愛美が十五で麻里衣が十四だっけ?」

「そうです」

「ああ、愛美、そこの……そう、それ」

 瞳さんに言われる前にアスパラガスが入ったバットを渡すと、「さんきゅ」と短く言われる。

「あんたたちいると楽でいいわ」

「そうですか、よかった」

 あたしの返答を聞いてニヤリと笑う瞳さんが動かしたフライパンからは、油っぽくてしょっぱい、おいしそうな匂いがした。

「瞳さん、ありがとうございました。間に合ったみたい」

「ああ、いいよ、別に。ほら、食事にするから」

「はい。いい匂いですね」

 トイレから出てきた麻里衣が表情をゆるめた。やせてぎすぎすした印象の自分よりふっくらしていてかわいいと、逃げる理由の一つになった麻里衣の笑顔を見るたびに思う。きっとママは麻里衣が成長してきれいになったら体を売れと言うだろう。そうなる前に逃げたかった。どこでもよかった。ただ、海を見たことがないことに気付き、移動に時間がかかりそうなこの町を選んだだけだった。

 食事の最中、瞳さんは黙っていた。でも、「おいしい」と言ったあたしと麻里衣にうれしそうな笑顔をくれた。

「ごちそうさまでした」

「おそまつさま」

 ふと見上げた窓の向こうには、淡赤うすあかがかった不気味な月が低いところまで昇ってきている。黒い海の上にぽっかりと浮かぶ少し欠けた月は人々のけがれで覆われているように見え、あたしは窓から目を逸らした。

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