穢月祓 ―ミナツキハラエ―(改訂版)

祐里

1.ただの丸い物体


 明日になんか、ならなければいいのに。

 明日になったら体が成長してしまっているかもしれない。もう中学三年生なのに、ママはあたしの体が大きくなると嫌がるんだ。

 明日になったら学校に行かなければならない。誰もあたしに近寄ってくることなんかない、つまらない学校に。流行りのキャラクターグッズも持っていない、にこりとも笑わない、どんどん女らしい体型になっていく女の子たちの中で一番小柄でやせているあたしは、きっと仲間ではないと思われている。人気の動画の話にもついていけなからだんだん誰も話しかけてこなくなって、今ではいつも一人でいる。

 明日になったら生理が来るかもしれない。生理になったら、片道徒歩二十分かかる役所の出張所にナプキンをもらいに行かなければならない。学校のトイレに置いてあるものは、誰かに見られているかもしれないから手に取りにくい。保健室でももらえるけど、保健の先生も担任の先生と同じようにあたしをかわいそうにという目付きで見る。「妹さんも連れてきたら? 二年生よね?」なんて、よけいなお世話。きっと制服がいつまでもぶかぶかでよれよれだから……ううん、前にママが職員室で怒鳴ったからかもしれない。

 明日なんか、来ないでほしい。


 ◇


 こども食堂でよく出てくる野菜炒めには、肉が入っていない。あたしはそれを口に入れ、噛みしめる。とにかく何かしら食べないといけないと、食堂のパイプ椅子に座るといつも思う。

「今日はデザート付きだよ」

 食堂のオーナーのおばさんが、腹の肉を揺らしながら大きなトレイを運んでくる。脂身が多そう、まあ何の肉でもいいんだけど、という穏やかではない考えが浮かんだ。

「ありがと」

 隣に座る妹の麻里衣まりいは、堅い笑顔を作って受け取っている。あたしも同じように紺色のプラスチックの容器を受け取り、また箸を手に取った。

 とろりとした透明の液体に包まれた丸い黄桃は切り口を下にして盛られている。いつ見てもただの丸い物体にしか見えない。こども食堂で教わった箸使いで、黄桃の真ん中に箸を刺す。そのまま箸を動かして半分に切ると、透明の液体がぎざぎざの断面をとろりと滑り落ちていくのが目に映った。

「お姉ちゃん、何だか怖い顔してる」

「そんなことないよ」

 麻里衣に指摘され、慌てて表情を和らげる。麻里衣は守っていかないといけない、汚い人間から――そう思うと、自然と気合が入る。

「麻里衣」

「ん?」

 声を潜めて話しかける。

「前から、考えてたことがあるの」

「考えてたこと?」

「ここは生きていくのがつらいから」

「……そうだね」

「一緒に逃げよう、ここから」

「うん」

 思っていたより素直に、麻里衣はうなずいた。

「もう家には戻れないかもしれないよ。……いい?」

「うん、お姉ちゃんと一緒にいたいから」

「……わかった」

 普段はあまり表情を動かさない麻里衣が見せた深い笑みは、あたし以外誰も見ていないみたいだった。


 ◇


 電車賃は、真夜中にママの財布から盗んでおいた。お風呂以外散らかった家でも、ママのバッグは派手だから簡単に見つかった。

 長時間電車に揺られてたどり着いた町は、海に近いらしい。シャッターが下りた古い商店や曲がったまま錆び付いたガードレールが目に付き、華やかなものやきれいなものは見当たらない。警察官の姿は見えない。

 あたしには、町の住人も汚く思えた。ひなびた駅のベンチに座っているだけで、通りすがりのおじさんにじろじろ見られた。道を歩いているだけで、中学生くらいの男子が大声で笑いながらわざと自転車で二人の間をすり抜けていった。腕に自転車のハンドルが少し当たったようで、麻里衣が「いたっ」と小さく漏らした。文句を言おうとしたけど彼はすぐに走り去ってしまった。

「麻里衣、大丈夫? 怪我は?」

「……ん、怪我はないけど、ちょっと痛い」

「そっか。痣になるかもしれないけど、すぐに治るよ、きっと。コンビニで何か買って食べよう」

「うん」

 通りかかった観光案内板はところどころ錆びている。とにかく海を見てみたいという一心で案内板の地図表示を頭に入れ、麻里衣を連れて駅から徒歩で海へ向かった。途中のコンビニで菓子パンを一つずつ買い、二人で食べながら歩く。

 十分ほどで海に着き、ざらざらの砂が積もった道路から浜辺に続く階段を降りる。制服のプリーツスカートが海から吹く風で翻るのが鬱陶しい。住んでいる町は海に面していると聞いたことはあったけれど、あたしたちは中心部の狭い範囲しか知らなかった。初めてこの目で見る波は、寄せて引いてを繰り返している。放置された大きな網からは魚の腐敗臭が漂ってきた。そこを離れても潮の匂いが容赦なく目と鼻を襲う感覚に、めまいがしそうだ。

 浜辺で麻里衣と二人、ぼんやりと正面から差す薄い西日を浴びる。グレーがかった青にきらきらと光が反射する眺めは、あたしに何の感情ももたらさなかった。それが心地よかった。あたしはこういう落ち着きが欲しかったのだと、海に感謝した。

「あんたたち制服で昼間から何してんの? 補導されるよ。ていうか、これから雨降るって予報なのに、傘持ってないの?」

 真後ろから突然、女の人に話しかけられた。何を言えばいいかわからず、麻里衣を背中に隠して黙っていると、彼女は名前を佐川さがわひとみと名乗った。

「今年は梅雨入り早かったんだから、天気には気を付けなさいよ。うちで雨宿りしてく?」

「……えっ?」

「すぐそこのカフェ。飲み物くらいはタダで出してあげる」

「あ……、えっと……」

 学校やこども食堂の大人たちと違う、不自然な微笑みもわざとらしい困った表情もない、女の人。

「怪しくなんかないよ、うちは地元の人がよく来てくれるカフェなんだ。ねえ、名前教えてよ。下の名前だけでいいから」

「あ、あたしは……、愛美あいみっていって、この子は妹の麻里衣です」

「じゃあアイミ、悪いけどこの袋持ってくれる? 牛乳入ってるから、ちょっと重いかもしれないけど」

 スーパーのロゴが描かれているビニール袋を持たされる。いざとなったらこれをぶつけて逃げればいいだろう。背は高いけれど、細い体だ。

「は、はい」

 あたしは麻里衣を彼女から少し遠い位置で歩かせて、カフェへと足を運んだ。


 カフェには、瞳さん――佐川さんではなく瞳さんと呼んでくれと言われた――に牛乳入りの袋をぶつけることなく到着した。最初はあたしの後ろで警戒していた麻里衣は今、テーブルでミルクティーのカップを両手で持ち、笑みを見せている。

「ねえ、二人とも店手伝ってよ。夕飯出すから」

「えっ……、あ、はい」

「それでさ、今日はうちに泊まって行けば?」

「泊まって、って……いいんですか……?」

 耳を疑った。大人がそんなに親切にしてくれるなんて。瞳さんは、あたしたちに同情するような表情をしない。眉を下げて目を細める、あの嫌らしくて気持ち悪い顔なんか無縁のように思える。

「着替えある? 夜の片付けとか手伝ってくれたら、私、楽になるんだ」

 他に理由なんてない、という意味に思える。

「着替えは、ブラウス一枚ずつと下着しかないです」

 麻里衣は出されたミルクティーをこくこくと飲んでいる。砂糖を多めに入れたからきっと飲みやすいのだろう。終始黙っているが、いつもよりほんの少しだけ柔らかい表情になっている気がする。

「一応聞くけど、親は?」

 ドキッと、嫌な鼓動が胸を刺す。正直に言うべきか迷った末に、あたしはおそるおそる口を開いた。

「……親には……、黙って……」

「そう。何か事情ありそうだけど電話とかしなくていい?」

「えっ……、あ、はい」

「なら楽でいいや。いたいなら、ずっと……と言いたいところだけど無理かな。ま、今日は泊まっていけばいいよ。ああ、ほら、降り出した」

 瞳さんの視線の先に、木の枠にはめられたガラスに雨粒が落ちてきているのが見える。

「ほんとだ」

「だから言っただろう。難しいことはさ、明日考えよう」

 瞳さんの言葉に、麻里衣がうなずいた。

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