第8話「月に宿すは十五の祈り~菊月①~」
「えぇか。この世界は苦界や。だけどね、苦界の中でも上に立つんよ。男を選べる女になりなさい。それが私からの最期の言葉」
私の姉女郎は間夫と共に廓を抜けようとし、捕まって折檻されました。
そのむごい折檻が原因となり、身体を壊して河岸見世送りとなります。
一度は見世の中でも上位に立ち女郎の栄華を手にしたはずの人が、たった一人の間夫に溺れて落ちたのです。
姉女郎は見世を離れる前に私に言葉を告げます。
返答が出来ぬまま立ち尽くしていると、姉女郎は作り笑いをして底辺の河岸見世へ向かったのでした。
それから私は今まで以上に、知識や芸事、言葉遣いから仕草と貪欲に学んでいきました。
晴れて私は水揚げをされ、今では廓の看板といっていいほどに地位を確立します。
必ず年季を明け、この苦界から脱してみせる。
それが私、菊月の生きる指針となっておりました。
しかしここ最近、心中穏やかでない日々が続いております。
初会、裏と返しようやく馴染みとなった男がおりますが、どうにも出会ったときからおかしな男でした。
普通、男ならばすぐに手を出してくるというのにその気配がありません。
それどころか声をかけてみると「興味ない。寝るなりなんなり好きにしてろ」と軽くあしらわれる始末です。
ここまで邪険にされると女郎の名が廃る。
私の矜持が許さないというもの。
金があってちょいとお偉い家系のお侍だからといって、女郎をなめることが許されるというわけではありません。
こちとら血反吐を吐く思いで生きている。
だからこそ冷ややかさえ通り越して、眼中にいれない男の態度に怒りさえ覚えました。
いっそのこと袖にしてしまおうか。
いや、そんな簡単に振ってしまうのも女が廃るというもの。
ふと過ぎった考えを振り払い、今宵も訪れた男こと、衛藤 景春という名の侍に酒を注ごうと近寄りました。
「景春 様。お酒でもお一口、いかがですか?」
「いらん。今日も好きに過ごしていていい」
あいも変わらず可愛げのない男。
込み上げてくる怒りを抑えて笑顔を浮かべ、私は側にいた禿たちを下げます。
二人きりとなると部屋の窓際まで移動し、そこから見える十五夜月を眺めてました。
「月は好きか」
不意に問いを投げかけられ、私は慌てて振り返ります。
畳の上に寝転び、手で頭を支えながらこちらを見る景春様の姿がありました。
私は景春様に身体を向け、口端をくいっと持ち上げて艶やかに微笑みます。
「えぇ。月は風情があり、美しいと感じます。まるで私を別世界へ連れて行ってくれるかのような、そんな感覚が致します」
「別世界か。お前はこの廓から抜け出たいと思うのか」
「……いいえ。私はこうして景春 様とお会い出来るこの場所を好いておりますゆえに」
一瞬、言葉が詰まり返答が遅れてしまいます。
思い浮かぶのは間夫と逢瀬を重ねる姉女郎の姿でした。
普段は気品ある強い姉女郎でしたが、間夫の前でははおぼこい少女のような顔をしておりました。
それを見ながら私は絶対にあぁはならないと思うばかりでした。
その姉女郎が最後に残した言葉が胸に引っかかります。
私は男を選べる女になった。
なのに心に空いた隙間は埋まらない。
あのとき、姉女郎はたしかに幸せそうでした。
その表情を思い浮かべる度、叩き割りたくなるほどの苛立ちが募りました。
手練手管で男を虜にしてきた。
それでも満たされない。
私の心は満月とは程遠い欠けた月のようでした。
作り上げた笑顔を浮かべ、問いに答える私に対し景春様はどこかつまらなさそうにため息を吐きます。
立ち上がり、私の隣まで歩み寄ってきました。
こんなにも近い距離になるのははじめてのことで、思わず私は身を引きそうになりますが、そこは耐えます。
月明かりに照らされる景春様は口を引き締めており、そこに凛々しさとたくましさが垣間見えて強烈に私を引きつけます。。
夜空の瞳に私の姿が映り、物珍しさについ魅入ってしまいます。
「お前は決められた台詞しか言えない大根役者のようだな。つまらない女だ」
そう言いながらも景春様の表情はやわらかく、笑みの形は少しばかり意地の悪いものでした。
私の結い上げた髪を崩さぬよう、やさしい手つきで撫でてきます。
「景春 様は……不器用な方でございますね」
「そうだな……。そうかもしれない」
顎に指をすべらせる景春様の横顔は、どこか遠くを見ているかのようでした。
憂いを秘めたそのお顔に、ろうそくの灯火のごとくチリリと胸が痛みました。
「だがお前ほどではない」
景春様は再び畳の上に寝転びます。
目を閉じると長い睫毛が顔に影を作り、それが妙に切ないもののため触れたくなります。
手を伸ばしたところですぐに引き戻し、私は咳払いして誤魔化します。
また夜空に輝く月へ目を向け、やさしい空気にしっとりと息を吐きました。
それから景春 様が訪れるたびに、一言二言言葉を交えては黙って夜を過ごすようになりました。
共に過ごしていくうちに、景春様が真っ直ぐすぎるだけの不器用な方を知りました。
言葉に棘があるように聞こえますが、率直に言っているだけであって悪気がまったくないのです。
無口で眉間に皺を寄せてることも多いが、特別怒ってというわけではないこと。
また無下にしているわけではないと、困ったように私の頭を撫でるのが景春様なりの親睦だということもわかったのです。
なんと不器用なことかと笑みが溢れ、最初に出会ったときほど景春様に対して不快になりませんでした。
むしろ気持ちは景春様の動向一つ一つ目で追ってしまう状態でした。
その分、欠けた月を刺激されることは増え、私は胸に手を当てて首をかしげておりました。
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