第3話「異国の血を引く稀有女 ~葵③~」

目を開くとそこには片目を失い、身体中傷だらけで足を引きずる十五の姿がありました。

彼は手を伸ばして私の頬に触れると静かに涙を流します。



「ごめんな、葵。お前のこと、守ってやれなかった」

「ううん、もういいの。十五が生きててくれるならそれでいい」


その言葉に彼は苦笑を浮かべるだけでした。

親指の腹で何度も私の輪郭をなぞり、血で染まった手を震わせます。


私は私にとっての真実しか語る気がありません。


「十五……私、十五が好き。大好きよ」

「うん。俺も葵が好きだよ。葵に出会えてよかった。俺にとって葵が世界の全てだった」


「いつか……いつか必ず一緒に外に出よ? それで世界を回るの。目の青い人にたくさん会って、世界を大きくするの」

「……あぁ、それはいいな。でもきっと、葵以上に綺麗な青はないんだろうな」


目を細め、穏やかに微笑む十五を見て、私の頬を伝っていた涙がこぼれ落ちます。


世界はあまりに静かで、十五の向こう側に白い光が見渡す限り横に伸びています。

青い世界に浮かぶそれに、聞こえるはずのないさざ波の音が近づいてきました。


私たちは静かに唇を重ね合わせます。


誰も見ていない。


何の音も聞こえない。


世界にいるのは私たち二人だけでした。


そっと唇が離れると同時に、私の頬を触れていた十五の手も離れていきます。


泥で汚れ、固まりかけた血をまとっているというのに、十五はこれまで見てきた中でもっとも満たされた微笑みをしていました。。


十五の口が動き、何か言葉を発しますが、音には鳴りません。

ちゃんと聞き取りたいのに、私の意識は十五から離れようとします。


なぜ、なぜ、なぜ……。

どうして私を連れていってくれないの?


声は詰まるだけで、何一つ届かぬままに私は底なし沼に落ちていきました。


***


次に目を開けたとき、あまりに頭が痛く、身体も動かそうとしても言うことを効かない状態でした。


華やかな外観の裏、どぶ臭い匂いが風にのってくる裏庭で、木に縛り付けられた私を姉女郎が縄を切って受け止めます。


姉さんの琥珀色の瞳にはボロボロで生気のない未成熟な女が映り込んでいました。


これは私なのか、と情けなさに乾いた唇を動かすとピリッとした痛みが走ります。


「ねえさん。十五は……十五は無事ですか? どこにいるんですか?」


縄から解放された私を姉さんはそっとやさしく抱きしめます。


いつだって虚勢を張って戦うねえさんが、肩を震わせて鼻をすすっていました。

あたたかな腕の中で私は唇を硬く結び、意地をはって姉さんの背にしがみつきます。


ねえさんが告げる答えを、私はすでに気づいていたのかもしれません。

それでも言葉で答えを聞かなくてはならなかったのです。


「十五は、死んだよ。最後まであんたの名前を呼んでいたよ」

「……うそ。だって十五と約束したもの。一緒に世界を見て回ろうって」


上ずった声で姉さんに言葉をぶつけます。


目の前がズシっと暗く重たいと感じた瞬間、十五の笑った顔が脳裏を過ぎります。

頭がぐらぐら揺れて、目玉はぐるんぐるんして、内側に引っ込んでしまいそうでした。


もう気づかずにはいられない。

喉が焼けて、このまま二度と声は出なくなると思えるほどに引き裂かれそうです。

長年押し殺していたどうしようもない感情が爆発しました。


「どうしてっ……ただお互いが好きになっただけなのに! どうして私たちは未来を見ることを許されないの! どうして、どうしてなのよぉ!!」


これは沼に囲まれ逃げられぬ運命の女だけが味わわなくてはならないのか。

外に出れば私たちは手を繋いで海を見ることが出来たのか。


想像さえ許してくれない現実を恨みます。


ここは苦界、はじめから私たち遊女に自由一つありませんでした。


ただ早いばかりの呪わしい言葉の羅列に、甲高い声で叫ぶしかありません。

姉さんは狂った私をただただそっと、リズムを刻みながら背中をやさしく叩くのでした。


「苦しいね。誰かを好きになることは、この苦界で生きていくには辛いことだね」


私だけではない。

この苦界で生きる女たちは誰ひとりとして笑顔で誰かを愛することが出来なかったのです。


生きるも地獄、死ぬのも地獄。

この苦界から逃れることが出来ず、私たちはみな、花を散らしていくのでした。



――目を閉じれば十五が笑って、そして私に背を向けて去っていきます。


いくら追いかけても距離は離れていくばかりで、いつしか姿が見えなくなりました。


最後に会った十五はすでに亡くなっていました。

魂が形を成して私の目の前に現れたのかもしれません。


それをいつまでも認められないまま、私は魂の抜けた状態で座すばかり。

十五の笑顔が思い出せないほどに、いいえ、思い出すことさえ否定して無感情になりました。


長い月日が流れ、身を削り、すっかり壊れた頃、ようやくさざ波の音が聞こえたので私は願いました。


”二人で描いた夢が叶いますように”と。


波音に向かって私は走り出しています。


おだやかに微笑む恋しい男の手のひらにそっと指を絡めます。

波音の先は、私たちだけの夢の場所。


叶うのならば、あなたとまた口づけを。



〜葵編 完〜

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