第2話「異国の血を引く稀有女 ~葵②~」

「葵。お前の初客が決まったぞ」

「え……」


主の言葉に私の心臓は大きな音をたて、喉の奥が詰まるような感覚を覚えます。


無意識に呼吸は止まり、続く主の言葉が耳に入ってきません。


「正直、お前を買ったときはどうなるかと思ったが良き方へと向かってくれた。異国の血が混じる女なんぞ前例にないから、その物珍しさにお客がどう反応するかわからなかった。だがお前の水揚げという人がたくさん出てな……ようやく決まったのだよ」


水揚げとは一人前の遊女として客と寝所を共にし、はじめて身を売ることをさします。


いつその日が訪れるのかを不安に揺れておりましたが、いざ現実を突きつけられると呼吸さえ困難に。


青ざめた顔で主を見つめ、背中を伝う嫌な汗に震えながらもおそるおそる口を開きます。


「それは、もう皆が知っているのでしょうか?」


「あぁ、皆知っている。そういえばお前が入ってもう十年が経つのぉ。入ったばかりのお前さんは十五に懐いていたな。もちろん、このことは十五も知っておるぞ」


あぁ、もうあの人は知っていた。

いつからか、十五が私を見る目が変わっていました。

なるべく私といることを減らそうと避けられていることにも気づいていました。


もし今、この場に十五がいたならば私は壊れていたかもしれません。

私は人形のように青白い顔で笑みを浮かべ、手をついて主に礼をしました。


部屋を出てからは涙が塞き止められず、袖で顔を隠し、遊郭から飛び出します。


走って走って走って……。


私は遊郭界隈の唯一の出入り口である門の近くまで行くとそれを睨みつけます。


母の手を離れたあの日からこの外に出ることは許されない身となりました。

それでも十五がいたから私は孤独を感じずに生きてこれました。


売られたばかりの頃は自分の置かれた身をよくわかっておらず、報われない想いを抱くことに躊躇はありませんでした。


どうして私は十五に触れることが許されないの。

どうして私は十五を愛してしまったの。


答えはわかっているのに何故と問うことしか出来ませんでした。



突如、腕を引っ張られ私は驚きで目を見開きます。

後ろへと振り返るとそこには汗を流し、呼吸を乱す十五の姿がありました。


「十五……」

「このバカ! 急に飛び出したら足抜けと思われるぞ!」

「……いいよ、そう思われても。十五も知ってるんでしょう? 私が水揚げされること」


それは肯定の証、苦しそうに表情を歪ませる十五に私はさめざめと涙を流します。


十五の胸にすがるように頬を寄せました。

愛くるしさを演出する浅ましさを実感しつつ、大きくて温かいぬくもりに頬ずりをします。


たくましい背中に手を回すと、十五は右手で額を抑え、私の手首を掴んで見世へと戻ろうとします。


そんな理性的ではいられないと私は首を振り、十五の手を振り払おうとしましたが敵いません。


十五の進むままに足を動かしました。

たどり着いた先は見世ではなく、人の通らぬ路地裏でした。


人の目がなくなるとすぐに十五は振り返り、強く私を抱きしめます。


「十、五……」

「……俺にとってのお前は、光なんだよ」

「光……?」


「俺は生まれてからこの場所以外を知らない。この狭い世界で生きてきた。あのクソ主に何度言われたことか。”お前が女であったならば”と。俺には最初から下男として生きる道しかなかったんだ。そんな現実に歯向かって何度も殴られたよ」


十五の生きる世界はあまりに狭かったのです。


たった一つの出入り口から出ることも許されず、死んだ母親の借金を生まれながらに背負い、この世界で生きてきました。


十五の母はそれはそれは美しい女だったと、今でも楼主は口にします。


もしも十五が女だったならば、この遊郭で花を咲かすこともできたというのに惜しいと、何度も何度も言っていたのです。


まるで十五はいらぬと言う残酷な笑いでした。


逃げることも出来ず、十五は自分を否定するだけの場所でしか生きることが出来ません。


「そんな俺の前に現れたのが葵、お前なんだよ」

「私……?」


「お前のその目を見たとき、俺ははじめて世界を知った。あの門の向こう側には俺の知らない世界がずっとずっと広がっているのだと。青い瞳が……お前のことを本当に綺麗だと思ったんだよ」


その告白は私の心を満たすには充分すぎました。


もし私がこの場所にきた意味があるのだとしたら、それは十五に出会うためだったのでしょう。


彼の言葉で私は強く、気高く生きていける。

十五にとって私が光だったというならば、私にとってもまた十五は光だったのです。


「俺はいつか必ずここを出る。その時は葵、お前も一緒だ」

「私を待っていたら……何年かかるかわかんないよ?」

「何年でも待つさ。葵と一緒に外を、世界を見たいんだ」

「十五を信じる。私の心、十五に預けるよ」


私たちの唇は自然と重なり合いました。


いつか堂々と門をくぐり抜け、二人で外の世界に出る、そんな夢を見て涙が流れました。


飽くことなく深く唇を重ね、互いに求め合います。

もうお互いに時間が残されていないことを、無意識に自覚していたのかもしれません。


唇が離れた時にはもう、私たちの逃げ道はありませんでした。

楼主をはじめとした見世の男たちが私たちを囲みます。


「怪しいと思ったらやはり。お前たち裏で通じていたか!」

「楼主様……」

「十五! お前を育ててきた私に対し、恩をアダで返すか! ええい、この二人を捕まえろ!」


ーー夢を見たかった。


二人で世界を見て回る、そんな夢を見たかった。


この想いが通じただけでも、私はこの廓で生きた女として幸せ者。


彼が私の手を引いて走り、私もまた全力で走ります。

ですがすぐに私たちは捕まってしまい、力ずくで引き離されました。


「十五! 十五っ!!」


手を伸ばし、必死に十五の手を掴もうとしますが届くことはありません。

あっという間に私たちは引き離され、互いに触れることが叶わなくなりました。


私は仕置きと見せしめとして木に身体を縛り付けられ、鞭で身体中に傷を付けられました。


頭から井戸の冷たい水をかけられ、身体の感覚がなくなっても続き、意識を飛ばしました。


真っ暗闇の中、私が目にしたのは幼い私と十五の姿でした。


「葵! お前また泣いてるのか?」

「だって……姐さんたちが私のこと気味が悪いって。青い瞳だなんてモノノ怪のようだと」


「そんなことない! お前は綺麗だ! 俺は絶対にお前のこと忘れないぞ。こんなにも綺麗なやつのこと、忘れてたまるか!」

「……ありがとう」


その小さな恋がいつしかこんなにも大きくなっておりました。

貴方がいとしくていとしくて、周りに嫉妬したのです。


すべてを投げ出そうとしてしまうまでに貴方をお慕いしていました。


貴方と見る世界はどれだけ美しかったのだろう。

貴方の手を取って新しい光景を見ることがどれだけ楽しかったのだろう。


思いを馳せると涙を流しながらも、描くことのできた未来に笑みを浮かべました。

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