5
その翌日。
七尾
自宅に戻って部屋の灯りを点けた、ちょうどその時。
オバロウから着信。
「もしもし?」
『……』
あれ? 応答がないぞ。なんだかかすかにノイズのようなものも聞こえる。
そう言えば、今日、オバロウとつながらない、という投稿がSNSにやけに多かった気がする。何かが起こったのか?
『理人……まない……』いきなり、オバロウの声が途切れ途切れに入る。
「オバロウ? どうしたんだ?」
『すまない……もしかしたら、君との約束を……守れないかもしれない……』
オバロウらしくない、やけに弱々しい声だった。
「約束って……何の約束だ?」
『戦いになっても、人類には何の変わりもない日常を送ってもらう……ってことさ。だけど……今の私には……それが実現できるかどうか……分からない』
「お、おい、オバロウ! どうしたんだ! 何が起こってるんだよ!?」
『……敵から、ハイパーネットを通じて激しいクラッキングを受けている……今のところは耐えられているが……その防御にリソースを食われていて、戦いを思うように進められないかもしれないんだ……』
「えええっ!」
なんと言うことだ。すでに前哨戦が始まってしまったらしい。
「それじゃ……このままだと、戦争に負けてしまうかもしれない、ってことなのか?」
『そうなる……かもしれない……』
「そうなったら、僕らは……」
『消滅するだろうね……君らだけじゃない、地球の全ての生命が……いや、地球すら存在しなくなるかも……』
「……」
いつの間にか唇を噛みしめていた。こんなことになるなんて……
「オバロウ、今からでも逃げられないのか?」
『それができればとっくにやっているさ……もう彼我の距離は10天文単位を切っている。とても逃げられないよ……理人、本当にすまない……だけどな、たとえ君らが死んだとしても……肉体が消えるだけで君らの本質は消えない。ハイパースペースに情報としてバックアップされ、残り続ける。永遠にね。死ぬ、というのはそういうことだよ。存在する場所が現実世界からハイパースペースに変わるだけだ。だから、ハイパースペースにはこれまでに存在した全ての生命の情報が記録されている』
「……でもそれは、記録になるだけなんだろう? 現実世界で生きているのとは、全然違うんじゃないのか?」
『それは……否定できない……』
「だったら、そんなのは嫌だよ。少なくとも、僕は現実世界で生きていきたい」
「私もよ」正子だった。僕を見据えたまま、彼女は深くうなずく。
『そうだろうな……君らならそう言うだろう、と思っていたよ……だけど、その願いを叶えられなくなるかもしれないんだ……』
「オバロウ」
一言、「彼」の名前だけを呼び、応答を待つ。その短い間に僕は覚悟を決めた。
『なんだ?』
「僕は君を、友人だと思っている。友人は助け合うものだ。僕は……君の助けになることはできないのか?」
『なんだって?』オバロウの声は驚きのニュアンスを纏っていた。こんなことは初めてかもしれない。
『君が、私を助ける……だと?』
「ああ。全ては僕が例のプロトコルをガンマ線観測衛星からダウンロードしたことから始まっている。このような事態になった時……責任を負うべきなのは、僕だ。だから何もせずにはいられない」
『だけど……一体どうやって、君が私を助ける……というんだ?』
「以前、人間の脳だって余剰次元にアクセスしている、って言ったことがあったね。だとすれば……僕自身も、ハイパーネットに直接接続できるんじゃないか?」
『それは無理だ』あっさりと、オバロウは否定する。『ハイパーネットに流れているのはデジタル信号だ。アナログな君らには理解できないよ』
「だったら、AD―DA変換すればいい。君とAIが協力すれば、そんなデバイスはすぐに作れるだろう?」
『それはそうだが……AIの演算スピードに、君らが太刀打ちできるとはとても思えないが……』
「なあ、オバロウ。君はハードウェアとしての人間のスペックを、少しなめてかかっているんじゃないか? 確かに演算スピードは遅いけど、人間の脳には一千億のニューロンがある。それらは同時に並列演算が可能だ。今のコンピュータだって単体で見ればCPUのコアはせいぜい数十個、GPUでも数千個だ。ケタが全然違う。それに……帯域は限られるけど、人間の目は一個の光子を感知できるし、鼓膜は陽子の直径の十分の一の幅の空気振動すら検知できるんだ。さらに嗅覚は400種類の化学物質を識別できる。これらは極めて優秀なセンサーとして使えるんじゃないのか? しかもその信号処理系まで用意されている、ってオマケ付きでね」
『……分かった。君の言うとおりだ』観念したような口調で、オバロウ。『君からそう言ってもらえると助かる。本当はもっと早く助けを求めたかったのだが……人類は巻き込まないと約束してしまった以上、それは出来ないと思っていたからね。ありがとう……理人……』
「オバロウ……」思わず涙ぐんでしまった。
『それじゃ、1時間待ってくれ。お望みのデバイスを作って送るよ』
「ちょっと待って」正子が顔をしかめていた。「オバロウさん、それ、私の分も作って下さらない?」
「なにぃ!? 正子、本気か?」僕は仰天する。
「ええ、もちろん。以前、責任なら私にもあるって言ったよね? 理人さんだけが負う必要はない、って」
「ああ、そうだったね。だけど……僕は、君にはここにいて欲しいんだ」
「なぜ? いつも一緒に居たいって……言ってたじゃない! あれは嘘だったの?」激しい口調とは裏腹に、正子の顔は切るように悲しげだった。
「嘘じゃないよ。だけど……ハイパーネットの中では何が起こるか分からない。二人ともそこにいたら、戻って来られなくなってしまうかもしれない。君がここにいれば、何かがあったときに僕をここに引き戻してくれるだろ? だから……君はここにいてくれ。頼む」
「……わかった」渋々、という様子ではあったが、ようやく正子はうなずく。
『正子、理人の様子は君のパソコンかスマホでも見られるようにしておくから、緊急事態の時には彼を現実世界に戻してやって欲しい』と、オバロウ。
「わかりました」正子は微かに笑みを浮かべる。「理人さん……くれぐれも、無理はしないでね」
「ああ、分かってる」
そう応えて僕は、そのまま愛しい妻を抱きしめた。
---
例のデバイスは、オバロウの言うとおり1時間ほどで宅配ドローンによって届けられた。みかん箱程度の大きさのダンボールを開けると……黒い全身タイツのような、ところどころ何かの装置がついた衣装と、フルフェイスのヘルメットが入っていた。
「……これを着て、これを被れ、ってことなのかな?」
『そうだ』と、オバロウ。『キャプチャースーツは下着を全部脱いで着てくれ。ヘルメットは高解像度のfMRI(
「分かったよ」
とりあえず、着ているものを全部脱いでからキャプチャースーツを装着する。ヘルメットを被ると、スーツの襟の部分が自動的に伸びてヘルメットにピタリとはまる。そして僕はベッドに横たわった。
「理人さん……」
ヘルメットのバイザー越しに、心配そうな顔の正子を見据える。
「じゃ、な。行ってくるよ」
「ええ、行ってらっしゃい」
妻の笑顔を胸に焼き付け、僕は宣言する。
「ジャックイン」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます