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 四月。小林さんは院生として僕の研究室にやってきた。ナチュラルメイクだがグレイのタイトなニットワンピースが彼女の豊かな体のラインをくっきりと浮かび上がらせていて、ずいぶんと艶やかな印象だ。


 実は彼女は穴水に接している七尾市ななおし中島町なかじままちの出身で、実家から車でここまで来ているらしい。その気になれば自転車でも通えそうな距離だ。


「柳田先生! これからよろしくお願いします!」満面の笑顔で、小林さん。


「ああ、よろしく……で、さっそくですが、一つ聞きたいことがあるんですけど」


「はい、なんですか?」


「小林さん……なんで警察を辞めたんですか?」


 かなり逡巡したのだが、結局僕は聞いてしまった。とたんに彼女の顔が曇る。ああ、やっぱり、地雷だったかな……


「う……それは……いろいろありまして……」


 それまで快活だった小林さんの口ぶりが、一気に重くなってしまった。


「やっぱ、あの例の不正アクセスがらみの話?」


「い、いえ! それは関係ないです!」


 キッパリと否定したものの、その前に彼女が一瞬見せたギクッとした表情が、図星を突かれたことを雄弁に物語っていた。そうか……僕に気を使ってくれてるんだな……


 ま、いい。今はまだその辺りは深くツッコまずにいよう。それにしても……


 こうしてみると、彼女はやはり美人だな、などと思ってしまう。だが、僕は彼女の指導教官なのだ。教え子に手を出すのは御法度。そう考えると……彼女がうちの研究室の院生になるのも、痛し痒しな部分が無きにしも非ず、だな。


 それに……


 僕はフリーだけど、彼女はこんな美人なんだし、彼氏くらいいてもおかしくはないか……


  ---


 基本的に院生とのゼミは週二回。小林さんは宇宙線物理については素人なので、まず彼女にはその辺りから自分で勉強してもらうことにした。とは言え学部で物理はちゃんと学んできているので、特に苦労することもないようだ。加えて彼女は非常に優秀かつ熱心で、僕のところにもたびたび質問に来る。これなら一ヶ月ほどで宇宙線物理の基本的な部分は一通りマスターできるだろう。


 そして、ゴールデンウィーク直前の本日、観測所の新人歓迎会……と言う名の飲み会が開かれることになっていた。場所は七尾市内の居酒屋。穴水にも居酒屋はあるが、僕以外の観測所スタッフはみな七尾市内に住んでいるし、交通の便もいいのでそういうことになったようだ。時期的にはやや遅いが、観測所の宴会部長を自認する二宮さん――惑星形成研究室の准教授――が海外出張から帰ってくるのが四月の中頃だったので、こうなったのだという。


 今回歓迎される立場なのは、小林さんと青山研のM1の男子の二名。歓迎する側は僕を含めたスタッフ三名と所内の院生五名だった。


 会場は二階の大きな座敷で、僕の右隣はM2に上がった北条君、左隣が小林さんだ。青山さんの音頭で乾杯し、一人ひとり立ち上がって自己紹介を行う。ちょうど小林さんが自己紹介を終えた時だった。


「はいはい、はーい!」


 二宮研のD2の院生、佐藤君がいきなり手を挙げた。彼はいわゆる陽キャで、既にかなりできあがっているようだ。顔を真っ赤にして、目が座っている。


「質問でーす! 小林さん、彼氏いるんですか~?」


 ざわっ、と場が沸き立つ。


「こら、佐藤。そういう質問はセクハラだぞ」二宮さんだった。四十台の男性だが、あらためて見ると一ヶ月の海外滞在で少し太ったようだ。


「げげっ! すいませ~ん」佐藤君が一気にシュンとなる。


「あ、いえ、別に私は気にしてませんから」取りなすように、笑顔で小林さんが言った。「彼氏は今はいません……けど」


「けど!? なんスか!?」食い気味に、佐藤君。


「気になってる人は……います……」


 そう言って小林さんが恥ずかしそうに目を伏せると、


「おお……」というどよめきが場にあふれ出した。


「だ、誰っスか!」佐藤君はもう倒れそうなくらい身を乗り出している。


「え、そ、それは……」


 口ごもりながら、小林さんは……ちらりと僕に視線を送った。


「ええー!」どよめきが悲鳴のような叫びに変わる。案の定、佐藤君はテーブルに突っ伏していた。それでも料理を完璧に回避したのはさすが、と言うべきだろうか。


「ま、マジッスか……柳田先生ッスか……うっわ、秒で失恋したわ、俺……」


 起き上がった佐藤君は、大げさにうなだれてみせる。


 え、ええと……これは、どういう反応をすべきなんだ? というか、小林さん、本気……なのか? それとも、これは……


 僕が何も言えずに固まっていると、青山さんが真顔で口を開いた。


「柳田さん、教員が教え子に手を出すのはダメですよ。た、だ、し」


 そこで彼はニヤリとして、続ける。


「ちゃんと責任取って結婚する、というのなら構いません。どうぞご自由に」


 その瞬間、本日一番の歓声……というか怒号が座敷内に響き渡ったのだった。


  ---


「すみません……なんだかご迷惑をおかけしてしまって……」


 小林さんが気まずそうに苦笑する。歓迎会が開いた今、僕らは二人並んでリボン通りを歩いていた。通りの入口と出口に金属で出来た大きなリボンが乗ったアーチがあることからそう呼ばれている。


「いや、気にしないで下さい。分かってますから。アレはああいう手合いからのアプローチを牽制するための、カモフラージュなんでしょ?」


「……すみません」彼女はバツの悪そうな顔になる。


 やはりか。多かれ少なかれそういう意図はあったんだな。モテる女は辛いね。


「いいですよ。指導教官なんだから、いくらでもカモフラージュに付き合いますよ」


「てへへ……ありがとうございます……」


 苦笑いする彼女も、可愛いな、などと思う。


 あの後、周囲が僕と彼女をくっつけるように動き、新歓がお開きになった後で僕は彼女を送ることになった。ま、もう僕も一々そんなことでドキドキするような年でもないのだが……女性と二人きりになるのは久しぶりで、なんだか悪くない気分だ。


「ね、小林さん」


「はい?」


「電車の時間まで、まだ結構ありますよね。せっかくだからちょっと飲み直しませんか?」


「え……」彼女はポカンとした顔になった。


「ああ、別に下心とかはないです。青山さんの言うとおり、僕は教え子に手を出す気はありませんから」


「……そうですか」


 そう応えた彼女が、一瞬なんだかちょっと残念そうに見えたのは……気のせい、だよな……


「いい機会だから、ちょっと話がしたいと思いましてね。もちろん全然色気のない、真面目な話です」


「わかりました。いいですよ」小林さんはニコリと微笑んだ。


  ---


 一本杉いっぽんすぎ通りのカフェバーのカウンターに、僕らは並んで腰を下ろした。マスターの趣味なのか、店内にはサーフボードやサーフィンの写真が品良く飾られている。僕ら以外にもそこそこ客は入っていた。


 彼女はモスコミュール、僕はジントニックをオーダーする。二人だけの、乾杯。スピーカーから流れるバド・パウエルのピアノが心地よい。


「『クレオパトラの夢』、ですね」うっとりとした顔で、小林さん。


「おや、詳しいですね」


「ええ。私、ジャズ好きなんで。エロール・ガーナーが特に好きなんです」


「ああ……『ミスティ』とか、いいですよね」


「おおっ? 先生も詳しいですね!」


 小林さんの笑顔が、心底嬉しそうに輝いた。


 いい雰囲気だ。音楽の好みもピッタリなことだし、彼女を口説けばコロっと落ちそうな気もする。ま、そんなことはしないけど。


「ね、先生」小林さんが、クリッとした眼差しを僕に向ける。


「なんですか?」


「私、ずっと聞きたかったんですけど……先生の下の名前って、なんてお読みするんでしょう。理科の『理』に『人』で……『りひと』ですか?」


「ええ、その通りです」


「わぁ、いいお名前ですね! まさしく理系の人って感じで、ピッタリじゃないですか! どういう由来なんですか?」


「両親によれば、『リヒトLicht』はドイツ語で『光』を意味していて、そこから取ったらしいです。英語でいう『ライト』ですね。でもさすがに日本人でライトっていう人名はちょっと、ってなって、重箱読みですけどまだ日本人ぽい『リヒト』にしたらしいです」


「なるほど……確かに、『ライト』だと極悪な表情で『計画通り』とか言っちゃいそうですよねぇ』


 ……。


 もしかして、小林さんって実は結構なオタク?

 まあでも、あんまり深くツッコまない方が良さそうだ。


「はぁ……」小林さんが深くため息をついた。「いいなあ、素敵なお名前で。私なんか、『まさこ』ですよ。昭和かよ、って、ねぇ。同年代でももうかなりシワシワな部類に入りますからね」


「いやいや。鎌倉幕府の『尼将軍』と同じ名前でしょ? あと、やんごとない女性にも同じ名前の方がいらっしゃるじゃないですか。いい名前だと思いますよ」


「先生にそう言ってもらえると、うれしいです」


 そう言うと小林さんは、ふふっ、と声を立てて笑った。


 この心地よい空気感に、ずっと酔っていたい。だが……それでは彼女を誘った目的が達成できない。


「小林さん……僕もね、あなたにずっと聞きたいことがあったんです」そこで僕は真顔になる。


「……なんですか?」気配を察したのか、彼女もすぐに笑みを消した。


「本当のことを話してくれませんか。あなたが警察を辞めてまでうちの研究室のドクターコースに来た……本当の理由を……」

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