第六章-こころ

 当時、小さな職場で事務員をしていた若き日のおばぁさんは、橋の袂で小さな子猫を見つけました。

 子猫の背中に小さなハートマークを見つけたおばぁさんは、「こころ」と名付けました。

 しかし、おばぁさんはペット禁止のマンションで一人暮らしの身。

 その子猫を連れて帰ることはできませんでした。

 そこで会社の行き帰りに、その子猫の世話をすることにしました。

 こころはあばぁさんの与える餌でみるみる元気になっていきました。

 そんなある日、街に台風が上陸しました。

 台風は猛威を振るい、多くの川が氾濫しました。

 こころのいる川も例外ではなく、おばぁさんが駆け付けたときには、既に水位は上昇し、子猫の姿は何処にも見当たりませんでした。













 若き日のおばぁさんは、頭が真っ白になりました。



 目の前に広がる景色があまりに信じられなくて…。

 張り裂けんばかりに大きく見開かれる目。

 川は昼前からの大雨で増水し、土手の3分の1近くまで水位が上がってきていました。


 「~~っ!…あ…ぁ……。」


 そんなおばぁさんに、後から追いかけてきた女性が追いつきます。

 女性の持つ傘は、一本はボロボロに壊れ、意味を為していません。

 二人は全身ずぶ濡れです。

 それでも、呆然と立ち尽くしているおばぁさんに、もう一本の傘をさしかけてあげました。


 「あけみ?」


 そっと女性がおばぁさんの横顔を覗き込むと、その顔色は蒼白になり、唇が小刻みに震えていました。


 「あけみ! あけみっ!?」


 女性はあけみの肩を強く揺すります。

 その衝動で、あけみはようやく女性に視線を向けました。


 「マ…紀……。」


 あけみは小さな声で女性の名前を呟きます。

 しかしその呟きは、暴風雨の音でかき消されて、麻紀の耳には届きません。


 「何っ? 何、言っているのっ?」


 あけみの口が小さく何か呟いているものの、やはり聞き取ることが出来ません。

 僅かに聞こえたのは「こころ」という単語。


 「こころっ? 心がどうしたのっ?」


 麻紀には、何のことだかさっぱり解りません。

 あけみは一歩、また一歩と川に近付いていきます。


 「危ないからっ!」


 麻紀は肩を押さえて、あけみを引き止めます。

 けれど普段の穏やかなあけみからは想像できない程、強い力であけみは前へ進んでいきます。


 「ちょ…っ!? あけみっ!!」


 麻紀は傘を投げ出して、あけみの腰にしがみつきました。


 「! はなしてっ!!」


 あけみは体を大きく振って麻紀を振りほどこうとします。


 「邪魔しないでっ!!!」

 「っ!?」


 あけみは体を大きくひねって、ついに麻紀を振りほどくことに成功しました。

 麻紀は反動を殺しきれず、地面の上に倒れ込みます。

 急いで顔を上げると、あけみが川に向かっていくのが見えました。


 「~~あけ、み…っ!?」


 立ち上がろうとしますが、ぬかるみに足を取られて上手く立ち上がれません。

 焦れば焦るほど、麻紀の足は滑ってしまいます。

 唇を噛みしめて、足を踏ん張ってようやく立ち上がった麻紀の視界から、あけみの姿が消えました。


 「!?」




 急流の中に飛び込んだあけみは、必死になってこころを捜しましたが、何処にも見当たりません。

 土手の水位はあけみの太腿まできていました。

 ベニヤで出来た簡易な造りの小さな小屋は、あるべき場所には見当たりません。


 「こころっ!? どこ、こころっ!?」


 土手の上からは、同僚の麻紀が何か叫んでいます。

 しかし、あけみには全く聞こえていませんでした。

 あけみは闇雲に、増水した川の土手を歩き回り、こころを探し回ります。

 奥に入り過ぎたあけみは、川に足を踏み入れ、川底へ引きずり込まれてしまいました。

 大量の水が口から鼻から入り込んできます。

 気が動転しているあけみに、冷静な対応がとれるわけもありません。

 急な流れの中、あけみは次第に意識が遠退いていきました。




 流れに足を捕られたおばぁさんは、気が付いたときには病院のベッドの上でした。

 それ以来、おばぁさんの心にはこの事が大きくのしかかり、野良猫の世話をするようになったのです。

 やがて、おばぁさんは猫好きの男性と出逢い、結婚し、二人で野良猫の世話をするようになりました。

 多くの野良猫が立派に成長し、二人の許から巣立っていきました。

 その夫も去年、おばぁさんを置いて、空の向こうへ旅立っていきました。

 それと入れ替わるようにおばぁさんの前に現れたのがミケさんでした。














 気が付けば、目の前にはその人が居た。

 ずっと淋しく泣いていた私に、その人は優しく手を差し伸べてくれた。

 嬉しかったな。

 頭に、体に触れる手がとても温かかったな。

 一日の短い時間だけど、それでもあの人だけが私に触ってくれた。


 ずっとこの時間が続くと思っていたのに…。




 雨と風に体温を奪われ、荒れ狂う川に押し流されたあの日。




 もう、助からないと思っていた―。

 もう、あの手に触れることもないと―。





 あの日、私たちは引き裂かれた………………。









 でも―。








 やっと見つけたよ。

 こんなところに居たんだね。

 永い永い時間を駆け抜けて、やっと廻り逢えた。


 見た目は変わっていても、すぐに解ったよ。


 もう一度、その手で触れて。

 もう一度、その腕に抱き締めて。

 ずっとずっと願い続けていたの。


 その優しい声で名前を呼んで。

 その温かい瞳で私を見詰めて。


 もう、離れないよ。


 今度こそ、ずっと傍にいるからね。












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