第2話 夢を追う者

 窓から、梅雨を告げる音が聞こえる店内。坂田は、床の掃き掃除をしている。慣れた手つきで、ホコリを塵箱に入れていく。その時、扉のベルが鳴った。

「すみません。一人ですが、大丈夫ですか?」

 アスファルトの匂いが鼻孔に入っていくと同時に、二十代と思われる男が目に入った。黒のツーブロックに赤の半袖に紺色のジーンズ。今どきでも、時代遅れでもない普通な格好。

「えぇ。どうぞこちらへ」

 坂田は、男をカウンターの中央の席に座らせた。塵箱に入ったホコリをゴミ箱に入れ、掃除道具を片付けると、男の前に立った。

「では、何を飲まれますか?」

「そうですね。ジャックダニエルをお願いします」

「結構、渋いウィスキーを選ぶとは」

「あのー、いけませんか?」

 男が、怯えた子犬な目つきで坂田に聞いた。

「いえ、問題ありませんよ。お客様が注文したウィスキーをグラスに入れるのが私の仕事ですから」

 坂田は、球体の氷が入ったグラスにジャックダニエルを入れた。氷と白の照明によって、ジャックダニエルの濃い茶色の液体が、艶のある銅のように輝く。

「ありがとうございます」

 男は、彼に頭を下げると、一口、流し込む。

「ふー、ウィスキーは、格別だな。ワインやビール、チューハイと違って、上品や活気とは違って、ロマンという大人の味を表現している」

「ポエムのようなことをおしゃっていますね」

 すると、男の胸ポケットに入ったスマホが振動した。男は、頬の筋肉を固める。

「……選考の結果だな」

 男が呟くと、スマホを取りだした。画面にタッチすると、右耳に当てた。

「はい、室伏です。……そうですか。理由を聞いてもいいですか?……そうですか。ありがとうございます」

 室伏と名乗った男は、スマホの画面を右耳から離し、カウンターに置いた。顔を下に向け、ため息を吐く。

「……今回もダメだったか。……あーあ」

「『選考の結果』とおしゃっていましたが、なにか応募しているのですか?」

 室伏は、坂田の問いに、首を縦に振る。

「えぇ、小説のコンテストに応募していまして」

「もしかして、小説家になりたいのですか?」

「はい。子供の頃から、本を読むのが好きでして、特に仕事関係や家庭といったテーマのジャンルが好きなんです。中学から、書き始めようと思い、コンテストに応募したり、小説を発表するサイトに投稿したりしているのですが、落選ばかりで」

「ちなみに、お仕事は?」

「蔵本のスーパーでアルバイトをしています。時給千二百円で、朝九時から午後六時までの八時間労働で週4日。もう、高校卒業から働いているから、かれこれ三年になりますね」

「ご家族は、お客様が『小説家になりたい』ということについて、なにか言っていましたか?」

 室伏は、左肘をカウンターにつけ、目を閉じた。左手と左側の顔を互いにこすりながら答える。

「大反対でしたよ。『小説家は、一握りの人間しか、食っていけない』とか『いい加減、しっかりとした会社に就きなさい』と」

「まぁ、正論ですね」

「まぁ、喧嘩して、スーパーの近くにある家賃三万のアパートで独り暮らししています。で、毎回、帰った後に考えるのです。『夢を追うなんて、馬鹿なのか』と」

 坂田は、弱弱しい口調で喋る室伏を、石像のように見つめ続ける。

「でも、夢を諦めて、年を取ったあとに後悔しそうです。『やはり、夢を追っていえれば良かった』という言葉が。僕の進むべき道は、どっちなのでしょうかね」

「お客様、と思っていますか?」

「え?」

 室伏は、腑抜けた顔で、坂田を見た。

「もし、『はい』と答えるなら、夢を追うべきだと、私は考えています。自分の世界観や表現を読者に伝えて、楽しみませたいなら、小説家になるべきです。ですが、お金稼ぎをしたい、名誉を得たいなら、止めるべきだ。貴方は、どちらですか?」

「そ、それは」

 室伏は、顔を下に向いた。

「今のお客様なら、後者のようですね。なら、申し訳ありませんが、止めるべきです。小説だけではなく、なにかしらの夢を叶えたい人を選考する者は、自分の信念がしっかり持っているかを見ているのです」

「で、でも、私は小説家に――」

「貴方は、楽しませたいという思いを男です。このまま、続けたら、一生、小説家になれない。それに、アルバイトですよね。いつ、クビにされるかおかしくない。別の会社に就くか、今、勤めているスーパーで正社員になるしかありません」

 室伏は、坂田の言葉に聞き、沈黙する。数秒後に口を開く。

「……確かに、おっしゃる通りです。私は、小説家になるには、大きな賞が取れるコンテストばかり、応募していました。『名誉を得たい』、『大金を得られる』と。やはり、夢を諦めるべきですね」

「私が言ったから、諦めるのですか?」

「はい?」

「『止めたほうがいい』と言ったら、夢を追うのを諦めるのですか? 私は、貴方に冷たい事を申しました。しかし、最初におっしゃったじゃないですか、『子供の頃から、本を読むのが好き』と。今は、名誉と大金に気を取られているだけです。なら、簡単。それを忘れて、自分の信念を伝える為に努力すればいい」

「店員さん」

 室伏は、希望の光を受けたかのように、目を輝かせていた。

「大きな賞を目指すのは、良い事です。もう一度、申しますが、名誉と大金を忘れて頑張るのです。室伏さん、今、くよくよする時間は、ありますか?」

「店員さん……そうですね! ありがとうございます! おかげで、目が覚ましたし、自信がもてました! じゃ、お会計をお願いします」

「大丈夫ですよ。今回は、タダで大丈夫ですよ」

「よ、よろしいのですか?」

「えぇ、私の言葉で気づいてくれたので。でも、今度から、お代は頂戴しますからね」

「はい。店員さん、ごちそうさまでした! では、頑張ってきます!」

「はい、気を付けて」

 室伏は、足枷が取れたかのように、軽快な足取りで、店を出た。彼は、未来が見えない暗黒の夜が明け、晴れ晴れしたかのような顔つきだった。



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