第8話 そしてスローライフがはじまった

「あ、ああああああ。マルチェロー! も、戻らなきゃ」

「わお?」

 し、仕方ない。元の場所に戻ろうにも道がまるで分らない。ここまでクーンにお任せだったのでどうにもこうにも。スマートフォンもGPSもないから離れたらもうそれまでだ。

 虹のある渓谷へ向かうと彼に話をしていたから、そこで落ち合えれば……。

「ご、ごめんなさい。マルチェロ」

 謝罪の言葉を口にするも、彼に聞こえるわけもなく。覆水盆に返らずとはまさにこのことであった。

   

 ◇◇◇

 

 一体どんな景色が待っているのだろうか。ハクの住む村って。

 走ること体感で一時間くらいかな? パッと周囲が開けた。

 高台の上に出たようで、谷があり台地になっていて左右には山が見える。

 そして何より、山と山を繋ぐように綺麗な虹がかかっていたんだ!

「うおおお」

 ここは、フェンリルが教えてくれた虹のかかる渓谷じゃないか。

 絶好の場所になるまで見えない、って意図的に作ったかのようだ。大自然の神秘とはまさにこのこと。

 美しい。俺が見た自然の景色の中でも一、二位を争うほど。

 時間帯も奇跡的だったってのもある。

 ちょうど、夕焼け空が広がり、渓谷に沈む夕日と虹のコントラストが奇跡の瞬間を生み出してた。

「ここに住んでいるの?」

 翼を畳み、コクコクと頷くハク。

 これだけ風光明媚なところだものな。俺だって住みたい、と思うよ。

「ここからは歩こうか」

 クーンから降りると彼はブンブン尻尾を振り、俺の周りを回ってからハクを追う。

 俺もダッシュで追いかけるも、急な下り坂で転びそうになり速度を落とす。クーンは四つ足だから安定感が違うのかあっという間にハクに追いつき軽く飛び跳ねる余裕っぷりである。

 俺は俺でのんびりいくかあ。

 のどかで良い場所だよな。

 食べ物は周辺で狩猟すれば何とかなるけど、街と違って便利な生活道具もなければ……美味しい食事も柔らかなベッドもない。どうやって生活していくかが鍵だ。

 村の人から道具を借りることができれば、今の俺ならなんとかやっていけると思う。

 お、小川や池まであるのか。水源も豊富で畑をやるにも困らなそうだ。

 ん、あっちの小さめの方の池は湯気が出てるような……。

「わおん!」

「すまんすまん、行く行く」

 俺がゆっくり過ぎたのでクーンが戻って来てはっはと足もとで「行こう、行こう」とはしゃぐ。 

「廃村……だったのか」

 ハクの進んだ先は朽ちて落ちたらしき木材が点在する場所だった。ここからでもバッチリ虹は見える。

 木材の集まり具合からして家は全部で20前後ってところか。まともに使えそうな家は今のところ見つかっていない。辛うじて一部の壁が残っているのがせいぜいってところだ。

 お、一軒だけ家を保っているな。他は木の家だったけど、あの家だけ石造りだから形を保てていたらしい。

 石造りの家は平屋で屋根もちゃんとある。家族四人で暮らすには狭いが一人で暮らすには広い。それくらいの家だった。

 ハクは慣れた様子で石造りの家の扉を開ける。なるほど、唯一のこったこの家が彼女の住処だったんだな。

 他の村人がいない中、彼女は一人で暮らしているようだ。何か深い事情があるのかもしれない。

「おじゃまします」

 中は簡素ながらもかまどや藁を積み上げて丸く固めたベッドなどがあり、生活感がある。

「ここで一人で住んでいるの?」

「今は巣が一つ」  

 念のため聞いてみたが、答えは予想通りだった。

 家が完全に崩れ落ち廃材だけになるのにはどれくらいの年月が必要なのか想像がつかないけど、一年や二年じゃあ、ああはならないはず。

 それにしても「今は」か。かつて村だった頃から彼女はここに住んでいて、という可能性もある。となれば、彼女は見た目以上に長く生きているのかもしれない。

 あくまで人間基準の見た目なので、彼女の種族基準でないことに注意が必要だ。自分も似たようなものだし、さ。

「確かに他の家は崩れて使い物にならなくなってるものな」

「ティルの巣を作る?」

「作りたいのはやまやまだけど……」

「わおん」 

 クーンが悩む俺を見上げ……てもないな、目線は俺より高いくらいだったもの。

 首元をわしゃわしゃして彼女の家へ入る前に見かけたあるものについて思い出す。

 彼女の家でくつろぎたいところであるが、先に確認したい。

「招いてくれたところで悪いのだけど、少しだけ外に出たい」

 そう言い残し、ハクの家から外へ出る。

 彼女の家に招かれる前にちらりと目に入った小さな池のことを覚えているだろうか。

 そう、湯気の出ていた池のことだ。

 彼女の家から歩くこと五分くらいで目的の湯気の出る池に到着した。家で待っていてもらおうと思っていたのだけど、ハクとクーンも同行している。

 もわもわと湯気が出る池の前でしゃがみ込む。

 手を伸ばし、指先でおそるおそる池に触れる。

「お」

 こいつは腕まで池の水……ではなくお湯の中に突っ込む。

 そのままでもちょうど良いお湯加減ではないですか。 

「こいつは良い温泉だ」

 お湯の流れはどうだ。池の中から湯が沸いていて、細い水路からお湯が流れていっている。

 池の中のお湯が一定の水位に達すると自然とお湯が出て行く感じか。特に何か人の手が入っているわけではなさそうだな。

 かつて村があった時にはここで温泉を楽しむ村人もいたのかもしれない。

 景色良し。周辺の自然は豊かなので食材も恐らく良し。そして、温泉まである。 

「ハクから道具を借りれば何とか暮らしていけそうだ」

「わおん」

 パタパタと尻尾を振るクーンが池に足をつけ、驚いて引っ込めていた。

 水だと思って触れたからビックリしたのかな? 犬……ではないけど、彼にとっても気持ちのよい温度だと思うのだけど。

 感じ方は生き物それぞれなので、彼にとっては熱すぎる可能性もある。

「熱かったの?」

 手をつけてみたら、心地よい暖かさだった。これならそのまんま入ってもいけそうだ。

 って、クーンがばしゃーんと温泉に飛び込み首を上にあげ気持ちよさそうに目を細めている。

「ティルも入る?」

「今日は川に飛び込んだし、もういいかな……」

 いつの間に後ろに立っていたんだろ。ハクは気配の消し方が半端ないな。今の俺がハイ・センスで強化すれば彼女のことにも気がつけるようになれるだろうか。

 さすがに腹が減って仕方ないけど、今日のところは我慢だ。明るくなってから食材確保に動くことにしよう。

 え? 街から出たことのない箱入り貴族のボンボンである俺が、採集や狩なんてできるのかって?

 問題ない、問題ない。

 マルチェロから借りっぱなしになっているダガーがあるからね。うまくやる自信もアテもある。明日のお楽しみってことで。

 そんなこんなで、成り行き任せのスローライフが始まったのだった。

 生活に慣れてきたら、遠出して俺の住んでいた街がどの辺りにあるのか調べたりもしたいな。

 魔法の大家オイゲン伯爵家にとって俺がいないほうがよいのだろうけど、両親や兄を妬ましく思っていたわけでも憎んでいたわけでもない。

 むしろ、彼らのことが大好きだから家の名誉を汚さないためにも俺はどこかで隠居生活を送った方がいいと考えていた。

 盗賊に攫われた後、怪鳥に連れ去れたとなれば家名に傷がつくこともないだろう。不意に始まったスローライフはちょうどいい機会だった。

 

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