第5話 でっかい犬
距離にして五メートルほど先の木に寄り添うようにして額から角の生えた少女が立っているではないか。まるで最初からそこにいたかのような自然さで。
目視するまで彼女がそこにいることに全く気が付かなかった。
俺の住む街には様々な種族を見ることができるのだが、実際に見るのは初めての種族だ。額の両脇から長い角が伸びているが、鬼族とは異なる。
鬼族の角は真っ直ぐすべすべなのに対し、彼女の角はゴツゴツしたもので鬼族に比べると角が長い。ちょうど額の両脇から手の平を伸ばしたくらいの長さだろうか。
鬼族以外に角の生えた種族はいくつかある。獣人と呼ばれる動物の角に似た角を持つ種族で鹿族とかがいたな。
鬼族と獣人は街でも見かけるのだけど、お勉強に精を出してた俺が文献だけで知る角の生えた種族は二つある。
一つは魔族と呼ばれる種族で角だけじゃなく背中からコウモリのような翼が生え、細長い尻尾を持つ。もう一つは彼女のような角を持つ種族で竜人と呼ばれる種族だ。
竜人の親戚筋と言われる種族にドラゴニュートってのがあるのだが、こちらは鱗を持ち顔もリザードマンに近い。
一方で竜人は人間と似た顔で角を除けば人間そっくりに見える。ひょっとしたら尻尾があるかもしれないけど、彼女の姿からは尻尾が確認できない。
前置きが長くなったが、俺の見立てでは非常に珍しい竜人である彼女は、人間にすると歳の頃は八歳から十歳くらいといったところで銀色の真っ直ぐな長い髪をしていた。
もっとも目を惹くのが抜けるような透明な肌で、遠目でも分かるほど。
しかし、彼女……冒険者にしては装いが冒険者らしくない。旅装といえるような装いでもなかった。簡素な麻の服に裸足という家の中にいるかのような格好だったのだ。
ってことは、高台からだと見えなかっただけで、近くに村があるのか!?
マルチェロも俺と同じように目視するまで彼女の姿に気が付かなかったことから、只者ではない……はず。
丸腰だし、彼女からは敵意を感じられない。いや、彼女は俺たちのことなど見ていない。自然体で佇む彼女の姿に完全に毒気を抜かれ、警戒心もなくなった。
こちらに見られていることに気が付いていないわけはないだろうに、彼女はじっと流れる川の方向を見つめたままこちらを向こうとはしない。
彼女の目線の先――犬か。
川の流れはそこまで速くないのだが、川幅は20メートルほどある。川の中ほどに犬らしき頭が見え、流されては戻りを繰り返していた。
彼女の飼い犬だったのかもしれない。そう思うと彼女の目線が物悲しいものに見えてくるから不思議なものだ。
俺も前世では犬を飼っていたんだよな。長年連れ添った愛犬が亡くなった時は食事も喉を通らなかったほど。
もしかしたら、犬が彼女を守って川でもがいているのかも?
「待ってろ」
「おい、ティル、今はマズイ」
止めるマルチェロの言葉も聞かず、上着を脱ぎ捨て川に飛び込む。
余計なお世話なのかもしれないけど、自分の飼っていた犬と重なり居てもたってもいられなくり、衝動的に川へ飛び込んでしまった。
何故彼女が佇んだまま、川へ飛び込もうとしないかなども考えもせずに。
「発動、アルティメット」
川岸へ引き返す気など毛頭なく、引き留める彼への返答の代わりに最上級付与術『アルティメット』を発動した。
力ある言葉と共に緑色の光で複雑な文様を描かれた魔法陣が出現し、光となって俺の体に吸い込まれる。
強化率が最高のアルティメットを筋力、敏捷、そして五感全てに作用させるこの付与術は身体能力強化カテゴリー中、最強のものだ。
ところが、俺の魔力じゃ下級の身体能力強化を複数かけたくらいになってしまう。
それでもまあ、大人より力が強くなるし、感覚も研ぎ澄まされる。
川の流れは思ったより速くない。念には念をで『アルティメット』をかけたけど、ハイ系の強化でも十分だったかも。
……な、わけないよな。急いでいても衝動的であっても、頭はフル回転させろ。
緩んだ心を引き締め、声を張り上げる。
「待ってろ。今助けるからな」
顔だけ水の上に出ている犬を励ますように声をかけるも、彼は必死で浮き上がろうともがくばかり。
犬の元まであと少しというところで、足先が何かに触れる。やはりか。犬を引っ張り込もうとしている奴が。
ぐう、ナイフの一つも持っていない。きっと何かあると思って近寄ったのだけど、素手で何とかするしかない。
犬は柴犬より少し大きいくらいなので、今の俺であれば抱えて川岸に戻ることができそうだ。
問題は「何が」犬の邪魔をしているか。
「何か」に俺も捉えられないよう注意しながら、犬を抱きかかえるようにして彼の後ろ足の辺りをまさぐる。
「ワカメのような植物系の魔物かな……」
肉食系のワニや鮫のような魔物が喰いついていなかったのは幸いか。
状況はワカメぽい植物が犬の後ろ右脚に絡みついているだけである。しかし、このままだと状況を打破することは難しいぞ。
焦りはない。頭はキンキンに冷えている。
素手でワカメにふれようものなら、俺まで絡み取られ身動きできなくなってしまう可能性が高い。
「もう少し頑張れるか」
「ティル!」
犬にかけた声と、マルチェロの声が重なる。
ヒュルヒュル。
マルチェロの手から錘をつけたロープが放たれ俺の近くに着水した。
素晴らしいコントロールだ。マルチェロのいる川岸からここまで二十メートル近くあるんだけど、すごいな、彼の投擲技術は。
よっと。手を伸ばしロープを掴む。
「助かる」
彼に聞こえないくらいの声で感謝を述べる。
ただ俺を引っ張るためにロープを投げたわけじゃないだろうなと思っていたよ。
錘に使われていたのは幅広のダガーだった。包丁より大きく、
彼の位置から犬がどのような状態になっているのかは分からない。しかし、俺が動かないことを見て幅広のダガーを投げてくれたんだ。
ロープを腰に巻き付ければ万が一の時は俺を引っ張り上げることもできるからね。
彼の気配りはこれだけじゃない。彼は腰に山刀を装着していたのだが、投げてくれたのは幅広のダガーだった。
小回りがきき、枝を落としたりにも便利なナタや山刀がワカメを切るにも至適だ。
だけど、彼は俺の体格を考慮し幅広のダガーを託した。
凄いぜ。ベテラン冒険者ってここまで瞬時に判断できるものなのか。
ワカメに触れないようダガーを振るう。一度でやりきるのではなく、何度も何度も少しづつだ。
アルティメットで身体能力強化されているので、手元の感覚がいつもと異なるから余計に慎重に、ね。
「よっし、もう大丈夫だぞ」
「わうう」
はっはと舌を出す犬の頭を撫でる。
抱きかかえた彼を離すと、自分でバシャバシャと泳ぎ始めた。
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