死んだ花
ルリア
死んだ花
花が死んだ。
一般的に花が死ぬ瞬間がいつなのかは明確に定義されていないけれど、おそらく大半のひとたちは枯れた花を思い浮かべるかもしれない。
そういう意味でいえば、わたしの目に映ったその花はまだ、咲いていた──そう、それはまちがいなく──そしておそらく、とても美しく。
わたしがその花を手にしたのがいつだったか──それを思い出しても意味はない。
だってもうわたしが持っているこの花は、死んでしまったから。
激しく降った雨はすこしまえに上がったものの、まだ空には厚い雲が浮かんでいて、ところどころに晴れ渡った夜空が遠慮がちにこちらをのぞきこんでいる。わたしの目に見間違いがなければそれらは、こちらを見下ろしている。
その夜空の隙間から見えるはずの一等星の輝きすらも許さないほどに、この街はありとあらゆる照明で明るく照らされている。手に持ったものがきちんと見えるように──転ばないように、足元がきちんと見えるように。
満月から一日だけ過ぎた月が、雲の合間から顔を出したかと思えばそれはすぐに厚い雲に覆い隠された。
あれほど明るく輝いているくせに、いともかんたんにその光は遮られてしまう。
地面にできた水たまりに、どこからともなくぴしゃりと雨の名残りの水滴が落ち、凪いでいた水面に波紋を呼び寄せる──わたしのこころに落ちた不安とおなじように、反射した景色をゆらゆらと揺らす。
油と水は混ざり合わない、どんなに素早く撹拌しようと、混ざり合うことができない──それらにとって最適な温度がそこに存在しない限りは。
つまり、わたしは 温度を失ってしまった。そこにそれなりの適切な温度さえ存在していれば、本来混ざり合わないはずのものが熱によって変形して繋がることができるはずだった。
いや、わたしが失ったのは温度だったのか、はたまた本来持ち合わせているべき水分だったのか。
そう、水分といえば"濡れる"ということは"溶け合っている"ということと同義になる。
乾いたもの同士はどうやってもその物質と物質の接触でしかない──油と水のように、ただそこに存在していて、ただ隣り合っているだけなのにわかり合うことを強要されているような。
けれど、そのあいだに水が、水分が、ある種の化学反応が存在している、ということだけで、これまで交わることのなかった物質たちが交わるための通路が形成される。
目には映らないほんのわずかなそれらの溶け合いが織りなすそれらに、なにもできないまま一方的な期待をずっと抱いている。
わたしは手のなかにある死んでしまった花を見つめる。
わたしと、わたしがいま手にもっているこの花は、いつの間にかそのあいだにあるべきものを失ってしまった──おそらく、お互いに。
花から目を逸らし、視線をあげた先にぼんやりと内から光を放っている看板が見えた。その看板は、周囲の水たまりに反射して増幅された光でとてもまぶしく見える。
転ばないように足元に気をつけながら、そこにふらふらと近づいていったわたしは、まだ開いているであろうその喫茶店に入ってみることにした。
ドアに手をかけ、扉を押すとちりん、と鈴の音がした。
中をのぞくと落ち着いた照明と暖かな空気を感じる──雨上がりの街は、わたしが思っていたよりも気温が下がり、どうやら身体が冷えていたことにそこで気がついた。
「お好きな席へどうぞ」
静かに響いてきた声は低く、しかしたしかな品格を感じさせた。
その言葉に甘え、わたしはとくに深くは考えず、窓際にある、真ん中の円形のちいさなテーブルをはさみ、ひとり用のソファがふたつ向かい合っている席を選んだ。
ソファに座ってみると、それは見た目よりもいくぶん柔らかく、ふかっとやさしくわたしの身体を迎えた。
「お決まりになりましたらお声がけください」
ほっとしているわたしのすぐそばで、先ほどの声の持ち主がお冷とおしぼりをちいさなテーブルにそっと置いた。
ちらりと視線をあげると、壮年の、声の印象に劣らない風貌の紳士のウエイターがいた。
わたしの視線に気づいたウエイターは、ふっと視線を綻ばせる。
「ブレンドコーヒーを、お願いします」
メニューに目を通してもきっと、わたしは知らないものには手を出さない。だったらいつもと同じでいい。それにいまは、なにか温かい飲み物が飲みたかった。
「かしこまりました」
そう言ってウエイターが立ち去ろうとして、足を止めた。
わたしは不思議に思って視線を上げると、ウエイターはわたしの手のなかにある死んだ花を見ていた。
「失礼ですが、それをどうされるつもりですか?そのまま手に持っていたら、はやくに枯れてしまうと思うのですが」
落ち着いたままの低い声が、頭上から降ってくる。
「いえ、この花はもう、わたしには必要ないものなので」
「──捨ててしまう、と?」
「捨てる」と言われ、わたしはその言葉の意味を逡巡する──たしかにわたしにはもうこの花は要らないものだけれど、捨てる、ということはあまり考えていなかった。
そして、わたしにとっては死んでしまったこの花が、やはりわたし以外のひとからは生きているように見えている、ということを再確認する。
「わたしは要らないので、もしご迷惑じゃなかったら受け取っていただけませんか?」
突然やってきた客に、要らないからこの花をもらってくれ、なんて言われたって迷惑以外のなにものでもないであろうことは、わかっていた──それでもわたしは脊髄反射のような速度で、ウエイターにそう言っていた。
ウエイターはすこしのあいだ、黙ったまま死んだ花を見つめていた。
「要らないのでしたら、いただきましょう」
そういってウエイターはわたしに向かって無防備に手を差し出す。
わたしはその差し出されたウエイターの手に触れてしまわないように、死んだ花をそっとのせる。
「ありがとうございます」
ウエイターは死んだ花をそっと手で握りしめ、そう言って去っていった。
わたしは死んだ花を、なんの未練もなく、ウエイターに渡した。大事にされますように、とも思わなかった。
窓の外を見やったけれど、夜の喫茶店の前を通るひとはすくない。雨だったから、みんな外に出るのを嫌がったのかもしれない。
またひとつ、またひとつ、と雨の名残りの水滴が落ちる外の景色を、わたしはぼんやりと眺めていた。
やがて静かな店内に、こぽこぽとコーヒーを落とす音とかちゃかちゃと食器とカトラリーが触れ合う音が聴こえる。
ふわりとコーヒーのいい香りが漂ってきた。
「おまたせいたしました」
わたしの目の前のちいさなテーブルに、ウエイターがコーヒーをそっとおく──そしてなぜか、そこに添えるようにことり、とちいさな花瓶をおいた。
さきほどわたしがウエイターに渡した死んだ花が、ちいさな花瓶に活けられていた。
「活けてみたら、きれいなその花を捨てようと考えたあなたの気が変わるかと思いまして。余計なお世話だったらすみません」
わたしはぱっと顔をあげてウエイターを見る。
ウエイターもわたしを見る──けれどわたしは、その視線が合ってもなにも言葉が出てこなかった。
「もしほんとうに要らないのでしたら、お別れだと思って眺めてあげてください」
そう言ってウエイターは静かに去っていった。
わたしのもとに温かいコーヒーと死んだ花を活けたちいさな花瓶を、ちいさなテーブルのうえに残して。
わたしは活けられた花を見つめる──活けられていても、わたしにとってその花はもう死んでいる。どこからどう見ても。
それにもう、これはわたしのものではない。
わたしとこの花の関係は終わった。
花が、死んでしまったから。
死んだ花 ルリア @white_flower
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