8.ダリア
時、すでに夜半。
ふたりの対局は互いに拮抗しながら無難に序盤を過ぎ、中盤に差し掛かっていた。
否、無難、とそういい切ることはかならずしも正確ではないだろう。アルリオットはあいての指し手のひとつひとつに、恐るべき力量を感じ取っていた。
奇をてらうところのない、いたって正統で端正な指しかたではある。
しかし、それにもかかわらず、かれは、いままで一流の指し手をあいてにしたときにしか感じ取ったことがない言葉にならない迫力のようなものを感じ取った。
じっさいに対局してみなくてはわからない、一手一手の威圧感に似たもの、それをこのダリアという少女から感じたのだ。
油断するな、とかれは内心で自身にささやきかけた。
見た目に騙されたらいっきに持って行かれるぞ、この子は、きっとただ者じゃない。王国公認の〈戯士〉に匹敵するつよさだ。
しかし――その一方で、アルリオットは一手、また一手と慎重に局面を進めながら、ある鮮烈な違和を感じ取ってもいた。
何か違っているところがある、何かがおかしいという、うまく言葉にはならない
いままで何千となく〈黒金〉を指してきて、およそ感じ取った憶えのない感覚だった。
自分よりはるかにつよいあいてと戦ったことはいちどではないが、そのときにもこのような感じを受けることはなかった。
何か違う、何か――具体的にここがそうだと指摘できるわけではないのに、はっきりと受け止めることができるその「感じ」をあえて言葉にするのなら、どこかちぐはぐな印象、ということになるだろうか。
この少女の指しかたはおそらくはアルリオットに匹敵し、あるいは上回るかもしれない圧倒的な力量を感じさせながら、どこかで未完成の未熟さを残しているように思えるのである。
あいての年齢を考えれば、それはべつだん、ふしぎなことではないのかもしれぬ。
だが、一方で極度の洗練と成熟を感じさせながら、他方ではいたって未熟で不安定な彼女のその〈黒金〉は、じつに奇妙なものだった。
まるでふたりのまったく力量の異なる指し手が交互に指してでもいるかのよう。
極端に鋭い一手と、どこか甘い、つけいるところがありそうな一手とが、連続して来る。
それはかれの立場から見れば幸運なことであるはずだったが、ただ、あいての弱点と見て済ませるにはあまりに大きな〈穴〉だった。
その〈穴〉は、かれの精密に研ぎ澄ました感性を微細に狂わせていくようですらあった。
たとえば、とアルリオットは考える。この〈永劫なる奴隷〉を〈金〉の陣地へと進めた手だ。これは〈永劫なる奴隷〉をまったくむだにした、ほとんどただで捨てているようにすら思える。
いったいこの手にどのような意味があるのか、アルリオットの戦歴をふり返ってみても説明がつかない。
これでは、まるで――しかし、そのとき、かれはひとり、大きく首を振ってその発想をしりぞけた。
否。
そのようなことはありえない。
他の局面ではこの少女は的確きわまりない手を指しているのだ。
そう、ありえるはずもないことだ、まさか、このダリアという名の可憐な少女が〈黒金〉の基本のところについてまったく無知だなどとは。
けっして気を抜くな、油断してはならない、とアルリオットはふたたび己自身に囁きかけた。
じっさい、局面はここまで互角に進んでいるが、わずかにかれの陣営が悪いとも見える。
ここまで、アルリオットはこの少女が時折かいま見せるその〈穴〉をうまく突くことができていないのだ。
かれとしては、むろん、〈穴〉を狙ってはいるのだが、そのたびに少女はおどろくべき受けの巧みさを見せ、その〈穴〉をふさいでしまう。
それはあたかも長久の月日を思わせるほど練達の技量であり、そもそも〈穴〉を見せたことが信じられないほどだった。
まさか、手加減してみせているのだろうか、とかれは考えた。
いや、そんなはずはない。そのようなことをして何の意味がある?
もっと勝負に集中しろ、アルリオット。あいての力量は戦っているうちに自然とわかる。いまはまず、勝つことだ。
ダリアの手はいずれかといえば端正で防御的で、リリスのようなひとを驚かせる才能の閃きを感じさせるわけではなかったものの、おそろく精緻で正確だった。
アルリオットはしだいに一手ごとに考え込む時間を取られるようになった。
読んでも、読んでも、その先を読まれているかのような錯覚。自分より上手のあいてと対局したときにしばしば覚えるものだ。
この少女は、ほんとうに、紛れもなくつよい。あるいは、あのリリスにすら比肩するかもしれない。
いったい、かれより年下であろうこの年齢で、どのようにしてこの実力を身につけたのだろう?
アルリオットが、ふと、その顔をのぞき込むと、少女は、上等な黒曜石のようにひかるひとみを大きく見ひらいて、じっと盤面を見つめていた。
しずかな――まるでまわりの音をすべて吸い取ってしまうかのような静謐な指し手だ、とアルリオットは感じた。
いつのまにか雨が降ったあとの閑雅な森のなかにいるかのよう。
そう――かつて、かれの母のいのちを無惨に奪い取った、あの森のなかに。
かれは自分のまわりに樹々が生え、枝葉がのび、しずかな森がひろがるところを幻視した。
そのふしぎで奥深い、しかしどこまでも
ダリアが指す。すると、しいんと静まりかえった森の大気が、
そのけしきが、かれにはありありと見えるかのように思われた。
このようなことは、じっさい、いままでもめったになかった。
しかし、とアルリオットは極度の集中のなかでなお、考えるともなしに考えた。
あるいは、自分はずっと、この森のなかにいたのではないか。優しかった母を喪失したあの日から、いちどもこの森を出ることができずにいたのではないだろうか。
そして、ひとり、〈黒金〉を指すことで壊れてしまった世界を修繕しようと試みてきた。そういうことなのかもしれない。
それは、奇妙なことだった。いままで、そのように考えたことなどなかったからだ。
〈黒金〉を憶えてから、かれは母の死を乗り越えたはずだった。
じっさい、まわりに対し心をとざして接していたのはたった一年ほどだけのことで、それからはむしろひとなつこい子供だといわれるようになっていたのだ。
おのれでは、幼い頃の傷はもうとうに癒えたように感じていた。だが、そうではなかったのかもしれぬ。
かれの心のいちばん深いところは、いままだなお、この森のなかにあって、そこから出て行くことができていない、どうやらそういうことであるらしい。
だから、いまでも、このように森のなかに在るように感じてしまうのだ。このダリアがまとったあまりの静けさが、その感覚を、明瞭なかたちで幻視できるまでにしてくれた。
自分は、いま、雨上がりの森のなかで指している。
ここが、こここそが、自分の戦いの原風景だ――アルリオットは、目の前の手に丹念に心を配りながら、不思議にそのようにも考えていた。
まるで、かれじしんが冷静沈着な指し手と、それをうしろから観察するべつの人物に分裂してしまったかのように。
その観察者のかれは、かれらふたりを取り囲む森のけしきを眺めながら、冷静に告げてもいた。
どうした、アルリオット、もうずいぶんと押されているぞ、と。
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