7.アルリオットの過去

 イスヴァラーンを主都とするルーン王国は大陸の北方、わりあい寒冷な土地に位置する。


 しかし、その土地は肥沃で、作物に恵まれ、黄金や銀といった貴重な鉱物を産出することもあり、まず豊かな大国といって良かった。


 この国で最も盛んな遊戯が即ち〈黒金盤戯〉である。


 少なくともルーンにおいて、〈黒金〉は単なる遊びではなく、ただのゲームですらない。


 それは人々の王朝への誇りと国家への帰属意識の象徴であり、王が国を束ねるにあたってきわめて重要な役割を果たしているひとつの国民文化であるのだ。


 その規則には、じつに建国神話が組み込まれており、ルーンの民はみな、幼い頃、〈黒金〉を通して建国王アーチャー一世の事績を学ぶのである。


 いまから数百年前、〈黒金戦役〉と呼ばれるその大戦の勝利によって黄金王アーチャーは漆黒王カルラオーネを撃滅し、ルーン王国にかれの王朝を築き上げたのだった。


 アーチャーはこの戦いを元とした〈黒金盤戯〉を国戯として奨励し、このゲームを究めた者ひとりを〈盟主〉として称揚することと決めた。


 結果、〈黒金〉はひとつ国を越えて大陸じゅうにひろまっていった。


 爾来じらい、幾百年が経つ。


 公に十の階級が整備され、〈盟主〉の地位は最高階級である〈一角獣〉のもち主、十三人の〈達人〉たちによって争われる決まりとなった。


 いまとなっては〈盟主〉は単なる象徴的地位を超えてじっさいに巨大な権力を有するまでになっており、貴族の争闘や国家の枢密に関する事柄が〈黒金〉の代理試合の勝敗で左右されることすらあった。


 それらの対局をすべて管理するのは、通常、ただ〈協会〉とだけ呼ばれる〈黒金盤戯協会〉である。


 先日、リリスが訊ねた〈公館〉はその建物だ。また、〈黒金〉はルーン一国で完結するものではなく、いまでは国際的に広まって、国際大会がひらかれてもいる。


 だが、いずれにせよ、ルーン国がこの文化の中心であることはまちがいない。


 〈黒金〉を指すにあたっては、次のような美しい見た目の駒を使用する。


 まずは〈金〉の陣営――


 〈意思ある歩兵〉。


 〈正義なる黄金騎士〉。


 〈泉の乙女〉。


 〈守護の聖獣〉。


 〈太陽の黄金竜〉。


 〈光の魔法使い〉。


 〈善良なる司祭〉。


 〈黄金の大君主〉。


 そして、〈黒〉の陣営――


 〈永劫なる奴隷〉。


 〈彷徨する暗黒騎士〉。


 〈幽魂の娼姫〉。


 〈奈落の怪物〉。


 〈月影の暗黒竜〉。


 〈影の魔術師〉。


 〈悪辣なる司教〉。


 〈冥府の大暴君〉。


 この両陣営合わせて十六種、四十四個の駒を動かして互いの〈王〉をねらい合うのだ。


いま、さいが振られて、アルリオットは〈金〉の陣営を取り、あいてのダリアという少女は〈黒〉の陣営を取った。


 第四回戦突破をかけた勝負が、始まる。


 〈黒金〉では〈黒〉から攻めはじめることが規則だ。ダリアはまずは右側の〈永劫なる奴隷〉をひとます進めた。


 ごく当然の手筋である。アルリオットもつづけて〈意志ある歩兵〉を動かした。


 まずは順当なオープニング。


 アルリオットは指しつづけながら、内心、あいてのようすに驚いていた。


 初めはどうにもおどおどと落ち着かないようだったダリアの態度が、一転して静かに変わったのだ。


 その漆黒のひとみは美しく澄み、ただ、盤上の駒だけを凝然と見つめている。


 すでに極度の集中の状態にあることが、その静けさから伝わってくるかのようだった。


 これは、とアルリオットは気をひき締めた。


 ここまで勝ちあがってきたことは、決して偶然やまぐれではない。まちがいなく実力のある指し手だ。


 もしあなどってかかれば、食われかねない。あくまで対等の指し手と見て、真剣に挑まなければならないだろう。


 アルリオットは〈黒金〉の戯士となることをめざして、この王都にやってきた。


 この大会だけですべてが決まるわけではないが、それにしても敗北は大きな後退を意味する。


 あいてにもあいての事情があるにせよ、決して負けるわけにはいなかった。


 かれが〈黒金〉を知ったのは、六歳のときのことだった。かれはある田舎町に生まれ、まず、幸福といって良い幼年時代を過ごした。


 寡黙でたくましい父と口やかましくはあるが優しい母、何不自由ないとまではいえないにしろ、十分に満ち足りた生活がそこにあった。


 いま思い返せば、あの頃はなんとしあわせだったことだろう、とかれは思う。


 あたかも生活そのものがミルクと干し草のかぐわしい匂いに包まれていたかのような記憶がある。


 それは、何とも素朴で当然のような――しかし、かぎりなく得がたい日々だった。


 アルリオットがそのことをはっきりと自覚させられたのは、ある事故によって森のなかで母を喪ったときのことである。


 あるとき、幼いかれは近郊の深い森のなかに迷い込んだ。どうしてそのようなことになったのか、アルリオットはいまでは憶えていない。


 ただ、気づくとかれは自分の背丈より遥かに高い木々に囲まれて泣いていた。そこへかれを探しに母がやってきたところまではほのかに記憶に残っている。


 しかし、その先――どのようにして母が森のオオカミに噛まれて亡くなったかということは、はっきりと憶えていなかった。


 おそらく、あまりに忌まわしい記憶であるためにそれを思い出すことを拒んでいるのかもしれない。


 ともかく、アルリオットは幼くして母を亡くし――そうして、かれのミルクいろの日々、幸福な幼年時代はあっけなく幕をとじたのだった。


 それから先、アルリオットの生活はまさに一転した。父は仕事で忙しく、かれのことをあまりかまっている暇がなかった。


 周囲の人間も、かれのことを腫れもののように扱うようになった。何より、かれじしんがみずからかいこがつくるまゆのような小世界に入り込んで、まわりを拒んでしまうようになったのだった。


 その、ひとの目には見えない繭のなかだけが、かれにとって安全で安心に思える場所なのだった。


 だが――どれほど人間を拒絶し、全世界を遮断したつもりでいても、時は経ち、状況は変わるものである。


 母の死によって一転していちめんのくらやみのような孤独が続くこととなった暮らしのなかで、かれが見いだしたたったひとつのものが〈黒金〉だった。


 いつの頃からかアルリオットはひとり、〈黒金〉の駒をいらって遊ぶようになり、だれに教わるでもなく自然と指しかたを覚えていった。


 べつだん、不思議なことではない。ルーンにおいてはたくさんの〈黒金〉の教本が出ており、それで指し方を覚えたのだ。


 かれはひとり、美しい見た目の〈黒金〉の盤と駒を父の棚からこっそりと取り出し、ひとり並べて、プロブレムを解いた。


 その黒と金の整然とした世界にひたっているときだけが、狂った現実世界の理不尽さを忘れていられる時間だった。


 気づくとかれは一日じゅう、幾たびも幾たびも盤のまえに座って駒を動かしていた。ひとと対戦しようという気にはならなかった。


 それは、かれのその完璧な世界を壊すだけのことに思えたのだった。だが、いたって自然なことに、あるとき、父はかれのその行動に気がついた。


 そして、盤上に麗々しく彫刻された駒をならべ、不愛想にいった。

「一局、指すか」



 アルリオットはそのとき、なぜ自分がうなずいたのかはっきり言葉にすることはできない。


 ただ、そのひとことがかれのとざされた完璧な宇宙をわずかにそとに向かって破綻させたのだった。


 じっさい指してみると、父にはまったく歯が立たなかった。


 くやしかった。くやしいという、その感情が新鮮で、いまさらに滾々と涙があふれ出してきた。


 父は何もいわず、かれを力づよく抱き締めた。


 そうして、母の死から一年ほどあと、アルリオットはこの世界へ還ってきたのだった。

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