【完結】今日 パパを辞めます(作品230528)

菊池昭仁

今日 パパを辞めます

第1話 家族との訣別

 厨房ではオーダーの怒号が飛び交っていた。


 「ハイ、#炒場__いたば__#さん! 酢豚イー、青椒イー、それから天津飯リャン、五目リャン!

 麺場さんは担々麺ウー、酸辣湯リャン、それから中華ウー!

 点心さーん! 餃子ウー、小籠包スー! それから胡麻リャンでお願いしまーす!」

 「かしこまりー!」

 「あいよ!」

 「了解!」


 給料日後の休日前の中華レストランは戦場だった。

 

 三上は点心を担当していた。

 三上の作る点心には定評があり、それを目当てに店に通って来る常連客も多かった。


 「三上さんの点心って、ホントすげーよ、まったく。

 まず、皮が違うんだよ皮が。

 餃子にしろ、小籠包や豚まんもそうだけどよ、どうやったらあんな生地が出来るんだろうな?」

 「三上さんは凝り性だからな? この店に来る前は赤坂の『青龍閣』にいたらしいぜ」

 「へえー、あんな一流店にいたのに、何でこんな店で働いてんのかね?」

 「さあな? 何かやらかしたんじゃねえの? 店のカネを使い込んだとか?」

 「仕入業者からバック貰ってたとか?」

 「女じゃねえの? 三上さん、結構イケメンだし。

 オーナーの奥さんに手を出したとか?」


 三上は他の従業員たちからそんな風に陰口を叩かれていた。



 三上は2年前、青龍閣を辞める時、家族も同時に辞めた。

 父親として、夫としてもだ。

 


 離婚を女房の美佐枝に告げた時、


 「別にいいけどお金は貰うわよ、私と凛花も生きていかなきゃならないから」

 「もちろんだ、この家はお前たちにやる。

 それから慰謝料として500万円と月々10万円の仕送りは約束する。

 収入が増えたらまたそれに上乗せするつもりだ」

 「しょうがないわねー、 あなたにも生活があるしね? いいわよ、それで」

 「それと、ひとつお願いがある。

 凛花とは月に一度、一緒に食事をさせて欲しい」

 「私は構わないけど、凛花に聞いてみるわ」



 凛花は私の申し出を承諾してくれた。


 毎月第三水曜日、それが私が娘の凛花と会える唯一の楽しみだった。


第2話 娘との食事

 月に1度の娘との食事の日、私は凛花を街の小さな焼肉屋に誘った。

 煙が立ち込める店内で、私は凛花のために七輪の上の肉を慎重に焼いていた。



 「大学、どうするんだ?」

 「行かない、勉強嫌いだし」

 「大学なんて勉強しに行くだけじゃないだろう? 色んな友だちや彼氏も出来るだろうし」

 

 凛花は不機嫌そうに黙った。

 すぐに感情が露わになるのは私譲りだった。

 本当は大学に行きたい筈だが、この頼りない父親の不安定な状況では、それを諦めるしかないと考えているようだった。

 私は程良く焼けたハラミを、凛花の皿の上に乗せた。


 「お母さんは元気か?」

 「元気だよ、彼氏も出来たみたいだし」

 「彼氏? そうか、お母さんは美人だからな?」

 「イヤじゃないの? お母さんに彼氏が出来ても?」

 「そりゃあ嫌だよ、でも仕方がないじゃないか、もう別れたんだから」


 私は動揺を隠すためにビールを飲んだ。


 「この前なんかさー、学校を早退して家に帰ったらお母さん、彼氏とよろしくやっててさ、なんかがっかりした・・・」


 そう言って、凛花は肉を食べた。

 私は美佐枝がその男に抱かれている光景を想像してしまった。


 「ねえ、ちょっとそれ、飲んでもいい?」

 「これか? いいよ」


 私は自分のビールを凛花の前に置いた。

 昔、よく肩車をしていた娘の凛花が、私の前で生意気にビールを飲んでいる。その娘の成長がうれしくもあった。


 「お母さんと夜、晩酌しているんだ」

 「そうか・・・」


 凛花が七輪に肉を乗せながら言った。

 

 「ねえ、私、パパと一緒に暮らしてもいいかな?」


 思いも寄らない凛花のその申し出に、私は驚き歓喜した。


 (凛花と一緒に暮らせる? この可愛い娘と)


 俺はなるべく平静を装うために、店員を呼んだ。


 「カルビとセンマイ刺し、それから生ビール2つ。

 俺は別にいいけど、お母さんは何て言うかなあ?」

 「たぶんお母さんは喜ぶと思う、私に気兼ねなくあの家に彼氏を呼べるから」

 「お母さんがそれでいいと言うのなら俺は構わないよ、凛花が俺のところに来るのは。

 ただし、ひとつだけ条件がある」

 「どんな条件?」

 「俺をパパって呼ばないこと」

 「どうして?」

 「俺は凛花にパパと呼んでもらえるほど、立派な父親じゃないからだよ」


 すると凛花はクスっと笑って偉そうにビールを飲んだ。


 「そうかもね?」

 「そうだよな?」


 私と凛花は笑った。

 凛花は美佐枝を「お母さん」と呼ぶが、私の事は「パパさん」と呼んでいた。

 パパではなく、「パパさん」と。

 その「さん」付けには、私と娘の間に微妙な親子の隔たりがあった。

 

 凛花が生まれた時から美佐枝は自分のことを「お母さん」、そして私のことは「パパ」と呼ばせていたからだが、どうも私には「お父さん」というイメージではないと、美佐枝は笑っていた。


 「遠慮しないでどんどん食べろよ」

 「遠慮なんてしないよ、親子だもん。

 ねえ、パパって呼んじゃダメなら何て呼べばいい?」

 「そうだなあ、オジサンでいいよ、オジサンで」

 「ヘンなオジサンだね?」

 「そうだな? 俺、ヘンなオッサンだからな?」

 「じゃあオジサン、ハラミをもう1人前追加して」

 「すいませーん、ハラミと生1つ、追加して下さい」


 私と凛花の楽しい時が、あっという間に過ぎて行った。






 「ねえ、ママ、私、あの人と住むことにしたから」

 「ダメよそんなの! 凛花はママとここで暮らすの。

 あんな人、もう凛花のパパじゃないんだから!」

 「もう決めたから、来週、引っ越しするからよろしく」

 「お母さんは許さないわよ! あの人と一緒に暮らすなんて!」

 「だってその方がいいじゃない! お母さんはここであの彼氏と暮らせばいい!」

 「凛花・・・」

 「私はもう高校生だよ? 卒業したらどうせここを出るつもりだったから同じことだよ。

 とにかく、もう決めたことだから!」


 凛花は家を出て、父親の悟と一緒に生活することになった。


第3話 共同生活

 「荷物はこれだけか?」

 「そうだよ」


 私は凛花に申し訳なく思っていた。

 おしゃれがしたい盛りの娘の荷物が、あまりにも少なかったからだ。


 「相変わらず狭い部屋だね?」

 「凛花と暮らすなら、もう一部屋広いところに引っ越すことにするよ」

 「いいよここで、お金が勿体ないから」

 「頑張って働くよ」

 「いいよ、「オジサン」が無理するとロクなことないから」


 凛花の言う通りだった。

 私は少しでも家族にいい暮らしをさせようと、無理をした結果がこの有様だったからだ。


 転職などせずに我慢して働いていれば、女房子供にもこんな苦労を掛けずに済んだ物を。

 娘の凛花は私をよく観察していた。


 「凛花はこっちの部屋を使うといい、どうせ俺は荷物がないから」

 「ホント、何もないね?

 あんなにたくさんあった本はどうしたの?」

 「処分したよ。一度読んだ本は読まないから。

 俺の本は書き込みだらけで、ブックオフでは売れないから全部捨てたよ」

 「私が読んだのに勿体無い」

 「まさか凛花と暮らせるとは思わなかったからな?

 ごめんな、捨ててしまって」

 「ううん、いいよ、図書館で借りて読むから」


 私のアパートは殺風景だった。

 テレビとコンポ、テーブルとパソコンしか置いていなかった。

 ベッドはなく、小さなソファで仮眠をしていた。



 「引っ越し蕎麦でも食べに行くか?」

 「いいよ、私、有る物で何か作るから」

 「そうか、じゃあお願いするかな?」


 私は内心、とてもうれしかった。

 凛花の作る手料理が、どんな物なのか楽しみだったからだ。


 凛花が冷蔵庫を開けると、


 「野菜とお肉かあ、野菜炒めでもいい?」

 「ああ、まかせるよ」

 

 エプロンをして台所に立つ凛花は、どことなく女房の美佐枝に似ていた。

 凛花は意外と慣れた手つきで料理を始めた。



 「さあ、出来たよオジサン」


 この家に来た女は凛花だけだった。

 私は娘とささやかな食卓を囲んだが、それはどんな高級料理よりも旨かった。

 私は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出し、一本を凛花に渡した。


 「お前も飲むか?」

 「うん」


 凛花は照れ臭そうに笑った。

 自分の子供と酒を飲むのは父親としての夢でもある。私と娘は一緒に乾杯をした。


 「どう? 美味しい? 料理人のオジサンみたいには上手く出来ないけど、私はオジサンの娘だから、少しは素質があるかな? ねっ、#オジサン__・__#? うふっ」

 オジサンは一流の料理人だもんね?」


 私は凛花のその言葉に、迂闊にも思わず泣いてしまった。

 私は素早くティッシュボックスからティッシュを抜き取り、目頭を抑えた。


 「泣くほど美味しいの? オジサン馬鹿みたい」


 凛花は嬉しそうに笑ったが、凛花も涙を浮かべて大きな目が潤んでいた。

 想えばそれだけ私たち親子の距離は遠くなっていたのだった。






 店に出勤するとすぐに、オーナーに呼ばれた。


 「三上さん、ちょっといいですか?」

 「はい」


 事務室の応接コーナーに座ると、言い難くそうにオーナーが言った。


 「三上さん、あなたの作る点心は実に素晴らしい。お客さんの評判も凄くいい。

 でもね、原価が掛かり過ぎているんだよ。もう少し、何とかならないもんかなあ?」

 「つまり、質を落とせと仰る訳ですか?」

 「質を落とさずに、原価を抑えて欲しいと言っているんだよ」

 「無理ですね。私の作る点心は師匠から受け継いだ物です。食材に妥協することは出来ません。 

 寧ろもっと良い食材にしたいくらいです」

 「確かに三上さんの作る点心は旨い、でもね? 所詮、点心はメインじゃない、脇役なんだよ」

 「脇役?」

 「ウチの中華のメインは麺と炒め物だ。点心はその「添物」だということだ」

 「わかりました。つまり点心を作っている私も脇役だということですよね?

 構いませんよ、私は」

 「そうは言っていないよ。君はウチの大切な料理人だ。今度、新しく駅ビルに出店する店の総料理長にと考えているんだ。だから頼む、原価を下げてくれ」

 「勘違いしないで下さい。「わかりました」と私が申し上げたのは、この店がダメな店だと分かったということです。

 今月でこの店を辞めさせていただきます。お世話になりました」

 「おいおい、そんな困るよ急に」


 オーナーは狼狽えていたが、私は店を辞めることにした。


第4話 よく出来た娘

 私は凛花に仕事を辞めたことを言わなかった。娘に心配を掛けたくなかったからだ。

 

 「オジサン、最近、洗濯物が油臭くないけど・・・。

 もしかして、また辞めちゃったの? お仕事?」

 「ごめん凛花、先月で今の店、辞めたんだ。  

 黙っていてすまなかった」

 「別にいいよ、いつもの事だから。

 またオーナーと喧嘩しちゃったの?

 大丈夫だよ、心配しないで。私、今日、バイト決めて来たから。

 私も働くよ」

 「バイトなんかしなくていいよ、俺が頑張るから凛花は受験に専念すればいい」

 「オジサンにばっかり頼るわけにいかないよ、もう18歳になるんだよ、私。

 それに高校出たら就職するつもりだし」


 私には返す言葉が見つからなかった。



 「バイトって、何のバイトだ?」

 「そんなのどうでもいいじゃない、オジサンには関係ないよ」

 「今、新しい仕事を色々と探しているんだ、来週には決めようと思う」

 「オジサンもツイてないよね? 実力はあるのに全然活かされてないもん。

 英語にフランス語、スペイン語に韓国語だっけ? 元商社マンでさ、いろんな資格もたくさん持っているのにね?」

 「凛花。俺は器用貧乏なんだよ、短期間ですぐに何でもマスターしてしまう。

 すると飽きちゃうんだな?「こんなもんか」って。

 人の一生は短い、だから1つのことをコツコツやることでその道のプロになれるんだ。

 だが俺の場合、人が10年かかるところを1年でやってしまう。

 それはけっして自慢出来ることではない。

 無能でエゴイストな経営者は、社員を自分の召使か奴隷だとしか思っていない。

 所詮、会社には社長より有能な奴はいないのさ。

 仮に有能な奴がいたとすれば、そいつはその会社になんか留まってはいない。

 もっとすばらしい会社に転職するか、独立するからだ。

 今度の店のオーナーも、ただのアホな奴だったから俺は見切りをつけたんだ」

 「オジサンより優秀な人っているの? 早稲田を出て、ロスのUCLAに留学してさ、それ以上の経営者なんていないんじゃないの?」

 「学歴なんてなんの役にも立たないよ。100個の計算問題を35問解ける奴と、89問解ける奴に大きな差はない。世の中で成功するには交渉力と忍耐力なんだ。

 俺は交渉は得意だが忍耐力がない。だからいつも双六ゲームのように「振り出しに戻る」となるんだろうな?」

 「他の大人たちは上手くやってるよ。ちゃんと本音とタテマエで生きている。

 アホな奴だ、下劣な奴だと思ってもそれには目をつぶる。その場は笑顔で切り抜け、腹の底では舌を出して笑ってるんだ」

 「オジサンもそうすればいいじゃないの? その方がラクだよ、絶対に」

 「凛花の言うとおりだよ、俺はガキだな?」

 「ガキがガキに説教されてどうすんのよ。

 まあ、オジサンにそれをしてなんて思ってないよ、私。

 そんなオジサンは絶滅危惧種だもんね?

 お腹空いたね、牛丼でも作るね?」


 凛花はそう言うと台所に立ち、夕食の準備を始めた。


 私は娘にこんな心配をさせる自分が情けなかった。


第5話 自閉症の策士

 とにかく収入を得ることが先決だった。

 私は人材派遣会社に登録し、ようやく職を得ることが出来た。


 「三上さん、アイス工場で資材を搬入するフォークリフトの運転手を募集していますので、先方の担当者の面接を受けて下さい」

 「わかりました。よろしくお願いします。それで面接はいつですか?」

 「今日です」

 「今日ですか?」

 「はい、すぐにお願いしたいそうです」


 私は派遣会社の社員さんと一緒に工場へ出掛けた。



 面接担当者は私を見るなりすぐにこう言った。


 「三上さん、では本日からお願いします」

 「今日からですか?」

 「あれ、そういうお話しでしたよね? 本田さん?」

 

 どうやら派遣会社の担当者は、それを私に隠していたらしい。


 「三上さん、大丈夫ですよね?」

 「これから何時までですか?」

 「翌朝の6時までです」

 「急ですね?」

 「すみません、時給は少し上乗せしますので、よろしくお願いします」

 

 凛花もバイトをしてがんばっている、何でもやるしかないと私は腹をくくった。


 「わかりました」




 このアイス工場は主に氷菓子を作る工場だった。

 まだ3月ではあったが、夏場の出荷準備のために、工場は24時間フル稼働していた。


 フォークリフト要員という話だったが、実際には工場のラインへ氷菓子を入れるカップ容器を届けるのがメインの仕事だった。

 カップ倉庫に行くと、20歳くらいの男の子がいた。


 「能登君、今日から君と一緒に手伝ってくれることになった三上さんだ。仲良く頼むよ」

 「はい、よろしくお願いします、三上さん」

 

 担当者は私に耳打ちをした。


 「彼は自閉症だから、よろしくね」


 能登君は自閉症だった。


 彼は計算が出来ない。

 いつも電卓を持ち歩き、それを叩いていた。

 現場サイドからオーダーが入った。


 「カップを8,000個、お願いします」

 「わかりました。能登君、8,000個だってさ、どれを持って行けばいいの?」

 「じゃあ、この箱に2,000個入っているから、えーと、えーと」

 

 彼は電卓でやっとその答えを導き出し、嬉しそうに叫んだ。


 「4つ、4つだ! その箱を4つです!」


 すべてがこんな調子だった。

 どうやら前任者が辞めた理由は彼だったのかと私は理解した。




 そうして一週間が過ぎた頃、社内の部門別対抗の野球の試合が開催されることになった。

 猫の手も借りたい忙しさなのに、これも社内の仕事の一環なのだと言う。

 人数合わせのために、私と能登君もユニフォームを着せられ、ベンチ入りしていた。



 「あーあ、このままじゃ1回戦敗退だよ。

 だいたい総務はズルいよ、高校球児だった奴が3人もいるんだから」

 「よかったら、私が投げましょうか?」

 「三上さん、野球出来るの?」

 「少しだけですけど」

 「じゃあ、頼むか? 打たせてくれればいいからさ、後は俺たちが守るから」


 私はピッチャーマウンドに立つと、キャッチャーに言った。

 

 「ミットを構えたら動かさないで下さいね」

 「おー、言うねー。中々じゃないの?」


 だが、投球練習に投げたチェンジアップにキャッチャーは落球をした。


 「何なんだよアイツ、甲子園レベルだぜ!」

 「いや、プロだよ。速さだけじゃなく、球質もコントロールも完璧だ!」

 

 スピードガンは時速140kmのスピードを表示していた。


 「凄いね三上さん! プロ並みじゃないの!」

 「甲子園では1回戦敗退でしたけどね」



 結局、私の所属していた製造2課が優勝し、私は課長から、


 「三上さん、うちの社員にならない?」

 「私が社員にですか?」

 「仕事は出来るし、野球も上手いしね? 君がいれば社内野球はいつもうちの課が優勝間違いなしだからね?」

 「ありがとうございます」


 だがそれを快く思っていない男がいた。能登君である。

 彼は嫉妬する目で私をじっと見ていた。


 


 社員食堂で私が弁当を食べていると、総務の野際さんが能登君に声を掛けた。


 「どうしたの? 能登君、元気がないみたいだけど?」

 「僕、いじめられているんです」

 「いじめられてるって、誰に?」

 「三上さん・・・。

 僕の事をバカバカって、いつも見えないところで僕を叩いたり、蹴ったりするんです」

 「まあ、それ、本当なの?」

 「はい、誰も信じてくれないんです、僕、バカだから」

 「わかったわ、課長に言っておくから安心して」



 私は早速課長に呼ばれた。


 「三上さん、能登君のことを虐待しているって本当なの?」

 「何の話ですか? そんなこと私が能登君にする理由がありません。

 彼は自閉症ですよね? そんな子を私が虐めるわけがない!」

 「だが現に能登君はそう言っているんだ。「三上さんに虐められている」と、アザまで見せてくれたんだよ。そしてタバコの火を押し付けたりしたそうじゃないか? タバコの火傷の痕もあった。

 会社としてはそれを見逃すわけにはいかないな。君には失望したよ。彼は病気なんだからさあ、労わってあげないと」

 「病気? 彼は自閉症ではなく「策士」ですよ。

 わかりました、短い間でしたが今日で辞めさせていただきます。

 どうせ彼をクビにすることは出来ないでしょうから」

 「残念だよ、君には社員になって欲しいと思っていたからね?」



 私がクリーンルームから出て、ロッカールームで着替えていると、能登君は私を見てニヤけていた。


 どうやら彼は計算は出来なくても、そういう「才能」には優れているようだった。


 私は人材派遣会社から登録を抹消された。


第6話 幼い頃の凛花

 「凛花ちゃん、どう? これから僕の家に来ない?」

 「ごめんなさい、明日からテストだから勉強しないといけないの、また今度ね?」

 「しょうがないなあ、そろそろいいだろう? もう3回も会ってるんだからさ」

 「だって吉本さん、一緒に食事とかしてくれればいいって言ったじゃないですかあ。

 そんなことまで考えてないよ、私」

 「ごめんごめん。この話は無かったことにしてね? じゃあこれ、今日のお小遣い」


 男は凛花に3万円を渡した。


 「ありがとう、吉本さん。でももし、#そういうこと__・__#がしたいなら、友だちを紹介してあげようか?」

 「いや、いいんだ、いいんだよ。僕はこうして凛花ちゃんと一緒に食事が出来ればそれで幸せだから」

 「じゃあ今度は来月、楽しみにしてるね」


 吉本は寂しそうにファミレスを去って行った。


 凛花は内緒でパパ活をしていた。


 コンビニやマックでのアルバイトでは、到底目標額には追いつかなかったからだ。

 凛花は医学部進学の資金を貯めようとしていた。


 凛花はどうしても医者になりたかった。

 国境のなき医師団に参加するために。


 学力的には自信はあったが、問題は学費だった。

 とても今の両親に頼るわけにはいかなかった。


 「ごめんね吉本さん、お金は必ずお返しします」


 凛花はそう言って吉本の背中に頭を下げた。




 その頃私は、夜のマクドナルドで100円珈琲を飲んでいた。


 (凛花も今頃、ここの女の子たちみたいにバイトしているんだろうな。イヤな店長から怒鳴られたりして・・・。

 それなのに俺はまた仕事を辞めてしまった。

 俺は一体何をしているんだ)


 私の斜め前の席で、幼稚園児の女の子と若い母親がハンバーガーを食べていた。


 「サエちゃん、おいしい?」

 「うん、サエちゃんとってもおいしいよ。ママは?」

 「ママもとってもおいしいわ。後でパパにもチーズバーガーをおみやげ買って帰ろうね?」

 「うん。パパはね、チキンナゲットのバーべキュー味も好きなんだって」

 「えー、それはパパじゃなくてサエちゃんが食べたいんでしょうー?」

 「ちがうよ、パパが好きなの!」

 「はいはい、じゃあナゲットも買おうね、バーベキュー味のやつ」

 「うん!」

 

 女の子はうれしそうに足をぶらぶらさせていた。

 私はその女の子と、幼かった娘の凛花を重ね合わせた。



 「パパーっ! いっしょにお風呂入ろう! りんかちゃん、パパがおウチに帰って来るの待ってたんだよ!」

 「そうかそうか、じゃあ一緒に入ろうか?」

 「うん、またミニーちゃんにしてね」

 「わかったよ」


 その頃の私の家にはジェットバスが付いていて、娘の凛花と風呂に入ると、いつも泡風呂にしてその泡を凛花の髪につけてミニーマウスの耳のように形を作ってやっていたのだ。


 「パパどう? りんかちゃん、ミニーちゃんみたいでしょ?」

 「ホントだ、ミニーちゃんみたいだね?」

 「うん! りんかちゃん ミニーちゃんだよ」


 そう言って凛花は大きな声で笑っていた。


 私はいつから人生の道を踏み外れてしまったのだろう。

 私は斜め向かいの親子から目を背け、店を出た。


 外は梅雨の名残雨が降っていた。


 私は雨の中を傘も無く、濡れながら家路を辿った。


第7話 ひとつのハムエッグ

 「ずぶ濡れじゃないの? 傘、買わなかったの? 100均でも売ってるのに」

 「英国紳士は傘を持っていても傘を差さない、俺も同じだ」

 「オジサン、また仕事辞めちゃったんだね?」


 私は返す言葉がなかった。

 凛花は私の頭をタオルで拭いてくれた。


 「風邪引くよ、温かいシャワー浴びなよ」

 「ごめん、凛花。お前もバイト、がんばっているのに・・・」

 「気にしないで、私は大丈夫だから。

 オジサンはオジサンのやりたいようにすればいいよ。

 それがオジサンだから」

 「でもそれじゃあ凛花に迷惑が掛かってしまうよ」

 「もう慣れたから平気だよ。そんなのどうでもいいからさ、早くシャワーを浴びて来なよ、捨てられたワンちゃんみたいだよ」

 

 私は洗面所で服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びた。

 私の情けない涙がシャワーの湯と混じり、流れて行った。

 悔やむのはもう止めよう、もう終わってしまったことだ。



 シャワーから出ると、350mlの発泡酒とハムエッグがちゃぶ台の上に乗っていた。


 「お疲れ様、オジサン。乾杯!」

 「何の乾杯だ? こんなダメな俺に・・・」

 「ダメじゃないよオジサンは。オジサンが周囲に理解されないだけだよ。

 今まではリハーサル、これからが本番だよ。

 オジサンは実力はあるんだからさ、そのお祝いだよ、お祝い」

 「凛花・・・」

 「おつまみはハムエッグしかないけどさ。オジサンは頑張らなくていいからね? 私が頑張るから」

 「バイト先で苛められたりしてはいないのか?」

 「大丈夫だよ。私、オジサンと違って要領いいから」


 凛花は笑って見せた。


 「イヤならいつでも辞めていいんだぞ、俺が何とかするから」

 「ありがとう、オジサン。その時はよろしくね」

 「どんなことをしても凛花のことは俺が守るからな」

 「流石はオジサン、頼りにしてるね?」

 

 私はタマゴが1つだけのハムエッグの皿を、凛花の前に置いた。


 「オジサンは食べないの?」

 「俺はこれがあればいいよ」


 私は缶ビールを掲げた。


 「駄目だよオジサン、何でも半分こだよ、私たち」


 凛花はそれを箸で半分にした。

 卵の黄身が流れて行った。


 私はこの時のハムエッグの味を、一生忘れないと心に誓った。


第8話 不幸中の不幸

 仕事を探すため、私はパソコンで求人情報をチェックしていた。

 だが、中々条件に見合う仕事は見つからなかった。

 今度は凛花のためにも正社員として、じっくりと腰を据えて働きたかった。

 凛花を希望の大学に進学させてやりたい。


 凛花は進学校の中でもトップの成績だった。

 勉強したいことは沢山あるはずだし、私には言わないが、もちろん夢もあるはずだ。

 それにはカネが必要だった。


 私がパソコンの画面に齧りついていると、突然、目の前に墨汁が流れるように見えた。

 私は最初、疲れ目かと思い、パソコンから目を離すと、それは徐々に周りを曇りガラスで覆い始めた。

 すぐに私は近所の眼科医の元へ、手探りをしながら歩いて行った。

 するとかつて、大学病院では助教授だったというその老医師は言った。



 「糖尿性の網膜剥離だな、こりゃ駄目だ。両目を失う事になるなあ、あはははは。

 手遅れだとは思うが、時間のある時にでも大学病院に行きなさい、紹介状を書いてあげるから」


 その老医師は地元の眼科クリニックでは人気があり、「診察の予約をするための予約」が必要なほどだった。


 「両目が失明?」

 「仕方ないね、取り敢えず行って見なさい、どうしてそうなるまで放置していたの? ははははは」


 院長はまた、そう言って笑った。

 この医者には心がなかった。大学で助教授止まりだったのは、おそらく人望がなかったからだろう。

 私はタクシーを呼んでもらい、すぐに大学病院へと向かった。




 様々な検査が終わり、診察室で40位のドクターは言った。


 「三上さん、緊急オペが必要ですので今日はこのまま入院してもらうことになります。

 それから明日の手術のために、眼球に注射をしますので、処置室の方でお待ち下さい」

 「目に注射するんですか? 睫毛が入っただけでも痛いのに?」

 「大丈夫ですよ、すぐに終わりますから。

 それからご家族の方に、説明がありますのでご連絡をお願いします。

 携帯は見えますか?」

 「はい、うっすらとですが・・・」


 

 処置が終わり、私は携帯のSiriに凛花へ電話するように命じた。


 「凛花さんに電話をかけています」


 凛花と電話が繋がった。


 「どうしたの?」

 「すまん、入院することになった。

 大したことはないが、悪いが大学病院の眼科病棟に来てくれないか?」

 「えっ、眼科? 大丈夫? 眼科で入院なんて」

 「ああ、明日、ちょっと切るだけだから、悪いな、忙しいのに。

 バイトは大丈夫か?」

 「うん、バイトは大丈夫だけど、着替えとかいるよね?

 持って行くから待っててね。他に欲しい物はある?」

 「着替えと洗面用具だけでいいよ、どうせ本や雑誌も読めないから。

 ゆっくりでいいから、慌てないで気を付けてな」

 「オジサンもしっかりね」

 「ああ」


 私は電話を切ると、佐藤医師にお願いをした。


 「先生、私は妻と離婚して今は娘と二人暮らしなんです。

 娘には心配を掛けたくありません。どうかその点を御察し下さい」

 「わかりました」




 凛花は大きなスーツケースと紙袋を持って、病院に不安そうな面持ちでやって来た。


 「目、大丈夫?」

 「ああ、明日、こちらの先生が執刀して下さるそうだ」

 「担当医の佐藤です。明日、網膜剥離の手術をします。とにかく早い方がいいので、この書類にサインをお願いします」

 「先生、ウチの父をよろしくお願いします」


 娘の凛花が他人に頭を下げている姿を私は初めて見た。


 「わかりました、全力を尽くします。とりあえず、明日は左目を手術しますが、2週間後、今度は右目を手術します」

 「両目をですか!」

 「ええ、ただし、右目はレーザーで何とかなるかもしれませんが、それは左目の状態を診てから判断します」

 「そうですか、なんとか父を助けて下さい。父は災難続きなので・・・」


 凛花は嗚咽していた。



 

 翌日、午後一番でオペになった。私は内心ドキドキしていた。

 入院することも、手術を受けるのも初めてだったからだ。

 もしも両目が失明してしまったら・・・。

 考えただけでも気がヘンになりそうだった。


 もしそうなったら凛花はどうなる? 進学どころか、大変な苦労を背負わせてしまうことになる。

 その時は女房の元へ帰るように話すつもりだった。


 私は思った。これがガンで死ねるなら、保険金で凛花を大学へ進学させられるのに。よりによって失明とは・・・。



 看護師が車椅子で私を迎えにやって来た。


 「では三上さん、この手術着に着替えて下さいね、着替えが済んだら行きましょうか?」


 私は出来るだけ明るく振舞おうとしたが、駄目だった。

 凛花は今にも泣きそうな顔で私を見ていた。


 「じゃあ凛花、行って来るよ」


 せめてもの救いは、看護師さんの笑顔が私たち親子に希望を与えてくれたことだった。


 「がんばってね、オジサン・・・」

 「ああ、がんばって来るよ。でも頑張るのは俺じゃなくて佐藤先生だけどな? あははは」


 私は力無く笑って見せた。




 初めて車椅子に乗った。目線が低くなり、不思議な感覚だった。

 人に押されて車椅子で移動するとは、こういうことなのかと気が滅入った。


 手術室に向かう間、その若い女性看護師は、私と凛花の不安を少しでもやわらげようと、色々と話し掛けてくれた。


 「2時間位の手術ですから安心して下さい。佐藤先生はウチの大学のエースですから。

 良かったですね三上さん、佐藤先生に執刀してもらえてラッキーでしたよ。先生はすごく人気があるんです。

 手術の予約は半年待ちなんですよ、ミシュランの三ツ星レストランみたいに」

 「ドラマとかだとストレッチャーで手術室に運ばれて行くようですが、車椅子なんですね?」

 「目の手術は局部麻酔なんですよ、ですから歯医者さんみたいな感じで座ってオペをするんです」


 私は益々不安になった。

 全身麻酔ではなく、局部麻酔・・・?




 手術室の前に来ると、モスグリーンの手術着を着た看護師と、研修医が出迎えてくれた。


 「凛花、行って来るよ」

 「うん、がんばってねオジサン。待合室で待ってるからね?」


 そう言って凛花は私の手を強く握ってくれた。



 「はーい、これから目の手術になりますので、確認の意味で生年月日とお名前をお願いします」

 「昭和47年、8月15日、三上悟です」

 「はい、では参りましょうか?」

 「それでは三上さん、がんばってね」


 本当は難しいオペなのだろう、気の毒そうな目で、連れ添ってくれた看護師が私を見送ってくれた。

 私は思った、


 (これ以上、何をどうがんばればいいんだ?)


 と。

 私は無言のまま、苦笑いをするのが精一杯だった。




 手術室に入ってそれは驚きに変わった。

 そこにはたくさんの手術室が診察室のように並んでいて、各々色んな音楽が流れていた。


 レッドツェッペリンにビートルズ、北島三郎に中森明菜・・・。

 そして凛花たちが聴くようなアニソンも流れていた。

 考えてみれば長時間にも及ぶ、気の遠くなるような緊張感を伴う「作業」にBGMは必要だ。

 決して失敗は許されない。



 そこには歯科医院のような椅子があり、私はそこへ座らせられた。


 「じゃあこれから始めます、三上さん、抗生剤の点滴をしますね?」


 見習いの看護師らしく、点滴の針を刺すのに手間取っている様子だった。

 何度も針を刺され、やっとそれが達成されるとその看護師も私も安堵した。



 様々な処置が施され、眼球を固定する特殊な金具を装着し、手術が始まった。


 「先生、バイタルが220です」

 「筋弛緩剤を入れてくれるかな?」

 「わかりました」


 手術の内容は、主に剥離した網膜を抑えるために、眼球のなかのゼリー状の出血により混濁した硝子体を除去し、代わりに生理食塩水を注入し、剥離した網膜をレーザーで焼いて、合わせて白内障の手術も行うという物だった。



 2時間のオペは4時間にも及んだ。

 途中麻酔が切れかかり、私はそれを佐藤医師に伝えた。


 「先生、麻酔が切れて来た気がします」

 「わかりました、追加しますね?」




 手術は終わったが、佐藤医師の表情は暗かった。


 「三上さん、手術は終了しましたが、これからが大変です。

 今日から2週間、うつ伏せで安静にして下さい」

 「うつ伏せですか?」

 「はい、結構大変ですが頑張って下さい」


 まさにそれは拷問だった。

 眼圧が上がり、頭が割れるように痛み、吐き気もした。

 目が見えないので雑誌や本も読めず、ラジオと音楽だけが楽しみだった。



 「オジサン大丈夫?」


 不安そうに話し掛ける凛花。

 

 「大丈夫だ」

 「大丈夫じゃなくてもオジサンはいつも「大丈夫だ」なんだからー。

 お母さんもよくそう言ってたもんね?」

 「凛花、後は大丈夫だから家に帰っていいぞ。戸締りはきちんとしろよ」

 「うん、じゃあまた来るね?」

 「いいぞ、毎日は大変だから」

 「心配しないで、私たち親子なんだから」


 「親子」という言葉が重かった。

 私はまた、大切な娘の凛花に苦労を掛けてしまった。また父親失格だ。


 凛花は女房の美佐枝にも連絡してくれていた。


 

 「今更会ってもしょうがないから、あとはお願いね?」

 「お母さん、パパは目が見えなくなるかもしれないんだよ」

 「しょうがないでしょ、病気なんだから。そしてそうなったのも自業自得よ」


 凛花はそれ以上何も言わなかった。

 母親の気持ちもわからなくもなかったからだ。


 凛花は病院を後にした。


第9話 職場復帰

 手術の結果は#芳__かんば__#しくないものだった。


 「三上さん、左目を再手術することにします。よろしいですね?」

 「そうですか? よろしくお願いします」

 「今度は硝子体に生理食塩水ではなく、シリコンオイルを入れてみましょう。大変ですが、がんばりましょうね?」

 


 2回目ともなると、少し気持ちもラクだった。

 右目の出血も収まり、少しずつではあるが、奇跡的に見えるようになって来ていた。



 手術は終わったが、うつ伏せ寝は辛かった。

 今度は眼圧も低くなり、頭痛や吐き気は起きなかった。



 ついに左目の包帯を取る日がやって来た。

 視力は0.01くらいには回復した。


 「先生、少し見えるようになりました!

 ありがとうございます!」


 佐藤医師は休日を返上し、経過観察してくれた。

 手術痕の消毒や処置も、ナースに任せず、先生自らがしてくれた。

 


 「三上さん、右目は「ラスト・アイ」ですので、手術はせずにレーザー治療で様子を見ましょう」


 ラスト・アイ。嫌な言葉だ。

 最後の目。


 佐藤医師は網膜の70%以上をレーザーで丁寧に焼いてくれた。

 それはまるで点描画を描くように緻密な作業だった。

 気を抜けば失明しかねない、危険を伴う高度な技術を要するものだった。

 普通の症状なら数点を焼くだけだが、私の場合は一度に100以上もレーザーを当てるため、その痛みには脂汗が出るほどだった。


 「先生すみません、少し休んでもいいですか?」

 「痛いですか? なるべく多く焼く必要がありますので、今日はここまでにしてまた明日、続きをやりましょう」


 レーザーを当てた後は、皮肉にも周りがバラ色に見えるのだ。笑ってしまう。これが「バラ色の人生」なのかと。




 1カ月後、ようやく退院の日を迎えることが出来た。

 

 「後は毎週1回、外来を受診して下さい。そして何か異変を感じたら、いつでもすぐに来て下さいね」

 「なんてお礼を言ったらいいのか、本当にありがとうございました、佐藤先生」


 医師はガンの余命宣告も辛いだろうが、眼科医の場合はさらに過酷だ。


 「目が見えなくなります」


 これは「あと3か月の命です」と言われるよりも悲惨だ。



    「目が見えなくても生きなさい」



 どうやって生きろというのだ? それを告げる想いとはどんなものなのだろう?

 仕事も出来ず、金もない。頼れる家族も親戚も、女もいない。

 そんな私にとって、それは「死刑宣告」よりも重い。


 「オジサン、退院出来て本当に良かったね?」

 「迷惑をかけたな? 凛花」

 「全然。でも凄いよね? 眼科医って。

 人の情報認識の90%以上は目からの情報だもんね?」

 「医者は凄いな?」

 「そうだね、お医者さんは凄いね」


 凛花は自分も医者になりたいとは言えなかった。

 それは父親を苦しめると知っていたからだ。




 退院して1カ月後、左目は光を失い、完全に失明してしまった。

 だがその代わり、右目はかろうじて眼鏡使用で0.7まで回復したので、クルマの運転はまた出来るようになった。


 私はやむを得ず、不動産会社を経営している奥村に相談することにした。



 「奥村社長、私を御社で雇っていただけませんか?」


 奥村はタバコに火を点けると、


 「いいですよ、三上さんなら大歓迎だ。

 ただし、私のやり方に口出しをしない、それが条件です。守れますか?」

 「わかりました、仰る通りにいたします」

 「それでは明日から来て下さい。取り敢えず、肩書はお好きな物をどうぞ。社長でも何でも構いません。

 所詮、肩書は社外の人間が決めることですから、渾名のような物です」

 「何の役職もいりません。よろしくお願いします」

 「流石は三上さん、自信がお有りだ。「無冠の帝王」という訳ですな?」


 奥村社長はニヤリと笑った。

 暴力団からも一目置かれる奥村には、黒い噂が絶えなかった。


 私は以前、奥村のヤクザを使った土地買収等に嫌気がさし、奥村とケンカ別れになっていたのだった。

 右目だけになった今、もう仕事を選べる状況にはなかった。

 私は悪魔に魂を売ることにした。



 私は猛烈に働き、歩合を稼ぎ、少しずつではあるが、貯金も増え始めていた。

 そんな時、奥村から北沢組長を紹介された。


 「三上君、こちらは北沢さんだ、君の力を借りたいそうだ」


 鋭い眼差しで北沢組長は私をジロリと一瞥した。


 「ヤクザもシノギが大変でね? 競売物件をいじろうと思うんだが、よろしく頼む。

 報酬ははずむよ」


 裁判所から発表される競売物件を落札し、それを高値で転売するのが私の新しい仕事になった。

 だが、競売になるような代物には必ず因縁がある。


 自殺や殺人、夜逃げや破産など、そんなゴミ物件の処理に私は奔走した。


 現場に行くとまだ血痕が残っていたり、腐乱臭が取れずに悪臭が立ち込め、吐き気がする物件もあった。

 ヤクザが立て籠もっていたりすることもあり、それが競売物件だった。

 それを浄化して売るのが私の仕事だった。

 


 ある時、北沢組長から田所というヤクザの組長と話をつけて来てくれと頼まれた。


 「あの町工場は街金から金を摘まんでいたんだが、どうも田所の若いのがそこにへばり付いているらしい。

 悪いがこれで話をつけて来てくれ」


 北沢は100万円の札束を私に投げて寄越した。


 「それで何とかしてくれ。あそこから田所の若いモンを出せれば、その金はお前がどう使おうが構わねえ。

 何なら100万全部をおめえがババしてもいいんだぜ。じゃあ頼んだぞ」




 私は田所組の事務所を訪ねた。


 

 「なんの用だ?」


 西日の当たる部屋に田所はいた。


 「北沢の親分さんから頼まれて参りました。

 あの町工場から手を引いて下さい」

 「イヤだね」

 「わかりました、ではまた出直します」

 「おい、舐めてんのかてめえ?

 ただで帰すわけにはいかねえなあ」


 周りの組員たちが笑っていた。


 「どうすれば渡してくれますか? あの工場」

 「自分で考えろ」

 「いくらならいいですか?」

 「おめえも頭が悪い男だなー、だから考えろって言ってるんだよ。

 ガキの使いじゃあるまいに」

 「今回の場合、強制執行を掛けるには70万円で済みます。でもそれではこちらさんにメリットがありません。

 これでなんとか、お願いします」


 私は100万円の札束を田所のところに静かに置いた。



 「この100万の半分は組長さんへ、そして残りの30万は他の関係者さんへ。そして残りの20万で持ち主を説得して下さい、お願いします」

 「イヤだと言ったら?」

 「県警の捜査一課、中向井課長は私の先輩です」

 「たいした奴だな? アンタ。俺を脅そうって言うのか?

 ヤクザをゆする気か?」

 「いえ、これを機に今後とも組長さんとお付き合いしたいからです」

 「わかった。北沢によろしくと伝えろ」

 「ありがとうございます」

 「これはお前の取り分だ、納めておけ」


 田所は帯封を解き、10万円を数えて私に渡した。


 「ウチの塩漬物件も捌いてくれねえか?

 アンタの取り分は売価の1割だ、よろしく頼むぜ」

 「いいでしょう。では物件資料をいただきましょう」



 そんな緊張感のある日々が続いていた。



第10話 凛花の秘密

 ヤクザとの仕事はカネになった。

 私は徐々に彼らと同じ色に染まっていった。

 「郷に入っては郷に従え」とはよく言ったものだ。

 最近では言葉遣いもそれらしくなっていた。


 

 「三上、中々やるじゃないの? あの団子屋のオヤジ、震えてたぜ」

 「ちょっとやりすぎちまったかな?」

 「いや、あれぐれえで丁度いい。あの団子屋がどかねえと、マンションが建たねえからな?」

 「あそこは借家だ。だが団子屋は借地借家法によって守られている。

 それで多額の立退料が団子屋に入るんだ。あそこの団子は旨い、他でも十分やっていけるだろうよ」


 私は相棒の若頭、田嶋とそんな話をしながら歩いていた。

 何気なく覗いたファミレスに、凛花を見つけた。

 凛花は男と一緒だった。


 凛花も高校生だ、ボーイフレンドのひとりやふたり、いても不思議ではない。

 だがその相手は40歳くらいの小太りで、頭の薄くなったメガネオヤジだった。


 「悪いが野暮用が出来た、先に帰ってくれ」

 「女か? いいご身分だな?」


 そう言うと、田嶋は子分を連れてコインパーキングへ去って行った。



 物陰に隠れて見ていると、なんと男が凛花に3万円を渡しているのが見えた。

 私は頭をハンマーで殴られたような気がした。


 (凛花が援交?)


 すると、凛花と男が店を出て来た。

 私はふたりの後をつけた。



 ラブホの前に差し掛かると、男が娘の凛花の手を引き、ホテルに連れ込もうとしていた。

 それに必死に抵抗する凛花。



 「おう、俺の娘に何してんだコラ!」


 凍り付く男と凛花。

 私は男の顔面に2発、そして腹に蹴りを入れた。

 男のメガネが飛び、男は蹲った。

 私はそのメガネを踏みつけて割った。


 「出せ、免許証。それから名刺も」

 「も、持っていません」

 「そうか、じゃあ思い出させてやるか? どこにあるか」

 「ひっ、だ、出します、出しますから乱暴は止めて下さい!」


 男は渋々私に運転免許証と名刺を差し出した。


 私はいつものスーツではなく、地上げ用の黒いシャツ、エルメスのネクタイと、下品なグラサン、そして髪をヘアワックスで固め、オールバックにしていた。

 どう見ても堅気には見えまい。



 「娘はまだ未成年だ。お前、何をしようとしたのか分かるな?

 動画もしっかり撮らせてもらったから言い逃れは出来ねえぞ。

 青少年育成条例って知ってるか?」

 「お金は払います! ですから会社と家族には黙っていて下さい!」

 「お金は払います? 俺が頼んでもいねえのにか? 俺に寄付してくれると?」

 「は、はい。ですから免許証を返して下さい! お願いです!」

 「じゃあ、寄付してもらおうか? 養護施設に」

 「養護施設にですか?」

 「そうだ、どこでもいい。お前の好きな養護施設に10万円を寄附しろ。

 免許証はその領収書と引き換えだ」

 「わ、わかりました!」

 「分かっているとは思うが、万が一、警察にタレ込めばお前の人生も終わることを忘れるな。

 俺が捕まれば、今度はお前の家族も酷い目に遭うかもしれねえからな?

 明日の17時に領収書を持ってさっきのファミレスに来い、いいな?」

 「はい!」


 私は自分の財布から3万円を抜き取り、男に渡した。

 男はその金を握り締め、走ってその場から逃げて行った。


 

 「ごめんなさい・・・オジサン」

 「凛花が謝ることはない、悪いのはあのエロオヤジの方だ」

 「だって私・・・」

 「もう辞めろよ、こんなことは。カネは俺がなんとかする。

 ごめんな凛花、お前にこんなことまでさせて」

 「オジサン・・・」

 「ケーキでも買って帰るか?」

 「うん」


 凛花は私と腕を組んで言った。


 「オジサン、助けてくれてありがとう」


 私はそんな自分を恥じた。

 娘にこんなことまでさせていた自分が情けなかった。


 私はこの仕事から足を洗うことを決めた。


第11話 医学部受験

 地上げ屋を辞めた私は、若頭の田嶋の紹介でキャバクラの支配人の仕事に就くことが出来た。


 「よう三上、中々似合っているぜ、そのタキシードに棒タイ」

 「若頭、色々ありがとうございました」

 「止せよ、そんなのお前のガラじゃねえぜ、巨乳の姉ちゃん、頼むぜ」



 私は誰よりも早く店に出て、汗が滴るくらいに掃除をし、グラスを磨いた。

 客が嘔吐したトイレも、率先して片付けた。


 すると、最初は挨拶すらしてくれなかったキャバ嬢たちも、少しずつ私に心を開いてくれるようになっていった。



 「お父さん、あのお客、苦手なんだ。今度、触って来たら注意して」

 「わかった」


 私は彼女たちから支配人とは呼ばれず、「お父さん」と呼ばれていた。

 彼女たちの殆どは、本当の父親の顔を知らずに育った娘たちだった。

 そんなこともあり、それがいつの間にか、私の「#渾名__・__#」になっていた。



 マドカのお客が彼女の太腿を触り始めた。

 私はマドカのテーブルへ近づいて行き、そのエロ客に言った。



 「お客様、キャストへのお触りはお止め下さい」



 私はフロアに跪いてやさしく声を掛けたが、客は酔っていたせいもあり、逆切れして来た。

 客は店に何度か訪れていた、30代半ばの鳶のヤンキーだった。


 「何やオマエ? この店は女に触わっちゃいけねえ店なのかよ!

 高いカネ取りやがって!」


 若頭が笑ってコチラを見ている。

 私がどんな対応をするのか、楽しんでいるようだった。


 「仕方がありません。では、出禁にさせていただきます」

 「出禁? 上等じゃねえか! ワレ!」


 そのヤンキーは私の胸倉を掴んだ。

 店が水を打ったように静まり返った。


 その男はグラスの水割りを私に浴びせた。


 「一旦、外へ出ましょうか?」

 「お前、ええ度胸しちょるじゃないの? これでもワシは三回戦ボクサーやで。えへへへへ」

 「そうですか?」


 私と男は店を出た。

 店の直ぐ脇にある暗い路地に連れて行くと、いきなり殴られた。

 男は唾を吐き、その場を立ち去ろうとした。


 「ボクサーのパンチは軽いな? 腰が入ってねえんだよ、拳に回転もねえし」

 「何だおめえ? まだやられてえのか? オッサンよおっ!」

 「お釣りを忘れているぜ」


 私は男の太腿にローキックを振り下ろし、崩れた男の顎を蹴り上げた。

 そして左頬に正拳を入れた。

 歯の砕ける感触があった。俺はそいつの髪を鷲掴みにした。


 「ゆ、許してくれ!」

 「ここは竜聖会のシマだ。文句があるならウチの事務所で訊かせてもらおうか? 警察でもいいぜ?」

 「すいませんでした・・・」

 「お会計は5万円になります」

 

 男は財布からカネを抜き出し、私に差し出した。

 

 「ヘンな真似するなよ、今度はお前の家まで行くことになるからな? 血も涙もねえ連中が大勢でな?」

 「わ、わかりました」


 男は逃げるようにアーケードをフラフラになりながら帰って行った。

 マドカたちが心配してやって来た。


 「お父さん、大丈夫だった? ごめんなさいね、私がいけなかったの、我慢すればよかったのに」

 「大丈夫だ、話せばわかるお客さんだったから」


 するとそれをずっと見ていた田嶋が言った。


 「あはははは 三上、ホント、「#話せばわかる奴__・__#」だったな?」





 家に帰ると凛花が受験勉強をしていた。

 先日のこともあり、凛花は私に将来の夢を打ち明けてくれた。


 「私ね、医者になって貧しい国の人たちを救いたいの」

 「いいじゃないか、凛花ならなれるよ、必ず。

 お前は頭がいいから」

 「オジサンに似たのかな?」

 「いや、お母さんだと思うよ」

 「奨学金とか、いろいろ調べてみるね? あとはコンビニとかでバイトするから」


 私はタンスの引き出しから通帳と印鑑を出し、凛花にそれを渡した。


 「こんなにたくさん!」


 凛花は刻印された数字を見て驚いていた。


 「医大は6年間だ、まだ全然足りないけどな?

 出来ればなるべく国立にしてくれよ」

 「うん、そのつもり。

 自治医大か防衛医大にしようと思っているの」

 「そこなら間に合うかもしれないな?

 自分のやりたいことをやりなさい、俺はいつでも凛花の応援団長だからな」

 「ありがとう、オジサン。がんばるよ、私。必ず医者になってみせる!」

 「ああ、あまり無理してカラダを壊さない程度にな?」

 「うん! ありがとう、オジサン」


 医学部受験の一番の障害だったお金の悩みは消え、凛花は一層勉強に集中することが出来るようになった。




 そんなある日の事、朝方、仕事から戻った私は、左の肩甲骨のあたりに鈍痛を感じた。


 「お帰りなさい、今、朝ごはんを作るね?」

 「いいから勉強していなさい、俺が自分で作るから」

 「ごめんね、疲れているのに」

 「お互い様だ」


 東の窓が明るくなって来た。


 今日もまた、一日が始まろうとしていた。


第12話 無情

 凛花は父親の悟から貰った、預金通帳を眺めていた。


   30-09-16 ATM   ¥2,588   ¥ 9,258,886

   30-09-22 ATM   ¥3,251  ¥ 9,262,137

   30-09-30 ATM ¥150,000   ¥ 9,412,137

   30-10-02 ATM    ¥829 ¥ 9,412,966

   30-10-11 ATM  ¥15,680 ¥9,428,646 

              ・

              ・

              ・


 その、ゆうちょ銀行の通帳には、多くの小銭が入金されていた。

 おそらくこれらのお金は、父親の悟が凛花のためにと缶ジュースやタバコ、昼食代を節約して貯めてくれたお金だったはずだ。

 凛花はその通帳を抱き締めて泣いた。


 「パパ・・・、ありがとう・・・」


 凛花は受験勉強が辛くなると、その通帳を見て、再び気合を入れた。

 





 「三上さん、この調子なら医学部の合格ラインまでは来たわね? よくがんばったわ」

 

 凛花は担任の白石紀子にお墨付きを貰った。


 「ありがとうございます、先生のご指導のおかげです」

 「ううん、お家のことで色々と大変だったでしょうけど、本当によく頑張ったと思う。

 どこの医学部にするつもり?」

 「防衛医科大と自治医大を考えています」

 「どちらも難関だけど、防衛医科大は勉強しながらお給料も貰えるしね?」

 「はい、父も協力してくれているので、本命はそちらを考えています」

 「そう、良かったわね。三上さんがお医者さんになったら私も診て頂戴ね?」

 「任せて下さい!」


 担任の白石と凛花は笑った。






 その日は給料日前の平日で雨も降っており、キャバクラは暇だった。

 私は店のシャンデリアを脚立を使って磨いていた。

 シャンデリアのクリスタルガラスはタバコのヤニでかなり汚れていた。


 「お父さん、かなり汚れてたんだね? 眩しいくらいに明るくなったよ!」

 「たまにはこうしてシャンデリアも可愛がってやらないとな?」

 「お父さん、今度は私も磨いてね」

 「マドカは大丈夫だ、十分輝いているよ」

 「お口だけは上手なんだから」


 その時、突然、私は激しい胸の痛みに襲われ、脚立から床に転落してしまった。


 「お父さん! お父さん大丈夫!

 救急車、救急車を呼んで!」





 私は病院のベッドで目を覚ました。


 「どうですか三上さん? わかりますか? ここは病院ですよ」

 「ああ、病院ですね? ここは・・・」

 「心臓発作を起こして、こちらに搬送されたんです」

 「それでどうなんですか? 私の容態は?」


 中年のベテラン医師は顔を曇らせた。


 「三上さんの心臓は、現在30%しか動いていません」

 「つまり、心筋梗塞ということですね?」

 「そういうことになります」


 私は全身から力が抜けて行くようだった。


 「そうですか・・・。それで私は後どのくらい生きられますか?」

 「それは私にもわかりません。症状が穏やかなまま、5年生きられた方もいらっしゃいますし、そうではない方もいらっしゃいます。

 病気の進行を抑える薬や、詰まった血管のプラークを溶かす薬もあるのですが、残念ながら三上さんには使えません。糖尿により腎臓の機能も低下しているので・・・」

 「そうですか、わかりました」

 「一日入院されてから退院されますか?」

 「問題がなければこのまま帰ります。ありがとうございました」

 「そうですか、なお、他に異常はなかったようです。

 特に骨折も、脳に損傷もありませんでした」




 処置室を出ると、店の女の子たちが心配そうに待合室で私を待っていてくれた。


 「心配を掛けたな? ただの過労だそうだ」

 「そう、なら良かったー。

 お父さんが死んじゃったらどうしようかと思っちゃった」


 マドカもみんなも喜んでくれた。


 私は凛花には何も言わなかった。

 救急車で病院に運ばれたことや、病気のことも。


 受験を控えた大切な時期に、凛花に余計な心配を掛けたくはなかった。


第13話 ライスカレー

 私はいつものように、店の売上金を持って会長室に向かった。

 

 「今日の売上です」


 会長はカネを確かめると、満足そうに笑った。


 「今日はまたよく頑張ったな? ご苦労さん」

 「マドカが太客を持っていますから、助かります」

 「マドカは今、週3だったよな? これからは週5で店に出せ、あの女ならもっと稼いでくれるはずだ」

 「マドカは昼の仕事もしています。病弱な母親の面倒も看て、小学生の娘もいます。週5は無理です」

 「だからなんだ?」


 会長は椅子に深く座り直すと、愛用のハバナ産の葉巻に火を点けた。


 「三上、そこに座れ。

 お前は優秀な男だ、それは認める。

 だがなぜ、そんなお前が仕事をすぐに辞めてしまい、いまだに自分の会社すら持てずにいる。

 お前ほどの男がどうして成功しないかわかるか?」


 私は黙っていた。

 そんなことは言われなくてもよく分かっていたからだ。


 「答えろ、三上」

 「自分に酔っているだけだからです。俺はやれば何でも出来るんだと」

 「違う、そうじゃない。

 お前は俺にはない物を持っている、そしてお前は俺にある物を持っていない。

 俺には「やさしさ」はないがお前にはある。だが、お前に「やさしさ」はあるが「非情」がない。

 俺がこの暗黒街でのし上がってこれたのは、「鉄の非情」があったからだ。 

 だが、お前にはそれがない。

 俺はカネがなくてなあ、コンビニで100円のコッペパンを70円分くれと言った男だ。 

 そして俺は思った。強くならんといかん、信じられるのはカネだけだと。

 俺たちの商品は女だ、人間だと思うな、商品だと思え。

 マドカをもっと稼がせろ、いいな? これは命令だ」


 この佐田源蔵という男は昔、ある大手飲料メーカーで、最年少で課長に昇りつめた男だった。

 大学ではセブンイレブンが卒論のテーマだったらしい。

 単なる武闘派ではなく、緻密な理論に基づく絶対的な実行力があったからこそ、ここまでこれたのも事実だ。

 この街で佐田の名前を知らない者はいない。


 確かに佐田会長の言う通りだった。

 私には非情がなかった。

 カネは力だ、カネのない奴の話など誰も聞きはしない。

 今までの私であれば、すぐにその場で辞表を叩きつけていた筈だ。

 だが、今の私にはもう時間がなかった。


 「失礼します」


 私は会長室を後にした。





 「オジサン、お帰りなさーい。

 今日はカレーだよ。ちょっと待っててね? すぐに温めるから」

 「悪いな、受験勉強で大変なのに」

 「全然平気、寧ろいい気分転換になるよ、お料理をしていると」



 私が冷蔵庫から瓶ビールを取出し、コップに注ごうとすると、凛花がそれを私の手から奪った。


 「注いであげるよ、今日も一日お疲れ様でした」


 凛花にビールをコップに注いでもらい、私がそれを飲むと、


 「美味しい?」

 「うん、ウマい」

 「小さい頃、よくオジサンにビールを注いであげたよね? 丁度良く泡が出来るようにと、慎重に慎重に注ぐんだけど、ビール瓶が重くてコップが泡だらけになっちゃって」

 「そんなこともあったな?」

 「ねえ、覚えてる? オジサンと一緒に寝る時は、いつも絵本を読んでくれたこと」

 「ああ、『100万回生きた猫』とかな?」

 「そうそう、それでオジサンが感動して泣きながら読んでくれた」

 「忘れたよ、もう昔の話だ」

 「オジサン、ありがとう」

 「それはこっちのセリフだ。苦労を掛けたな? 凛花。ごめんな」

 「私、オジサンの娘に生まれて本当に良かった」

 「なんだよ急に、気持ち悪いなあ」


 私は照れ隠しをした。危うく泣きそうになったからだ。



 「はい、ライスカレー。ご飯が多いと「ライスカレー」だったよね?

 よくオジサンがそう言ってた。 オジサンの大好きなラッキョウもあるよ」


 今日のカレーは少し塩っぱい味がした。


最終話 パパと呼ばせて

 共通一次も終わり、いよいよ受験当日がやって来た。


 「忘れ物はないか?」

 「うん、大丈夫」

 「これ、合格弁当。持って行きなさい」

 「ありがとう、オジサン。もしかしてトンカツとか?」

 「さあな、開けてからのお楽しみだ」

 「じゃあ、行ってきます!」

 「ああ、気を付けてな? 今夜は俺も休みを取ったから、一緒に焼肉でも食べに行くか? 合格の前祝いに?」

 「そうだね? まだ合格出来るかどうかわからないけど」

 「凛花が合格しないで誰が合格するんだ?」

 「オジサンって、本当に親バカだね?」

 「親はみんな「親バカ」だよ」


 振り返り、振り返り、何度も手を振る凛花。

 私は頼もしく成長した娘の後姿を、愛情を持って見送った。





 受験会場に着くと、凛花は身の引き締まる思いがした。

 流石に医学部の受験だけあって、みんな賢そうな顔をしている。


 (大丈夫、私は必ず合格する!)


 凛花は試験が始まる直前まで、勉強して来たノートを見直していた。



 「それでは答案用紙をお配りしますので、筆記用具以外は仕舞って下さい」


 いよいよ試験が開始された。



 

 午前の試験が終了し、昼食休憩になった。

 試験は上々の出来だった。

 凛花は悟の作ってくれたお弁当の包みを開けた。

 そこには手紙が添えられていた。


 お弁当は料理人だった悟らしく、彩も良く、ブロッコリーやソーセージ、ニンジンのグラッセに海老フライ、それから凛花の大好きな、イチゴとキュウイも入っていた。


 そして小さなおにぎりがふたつ、凛花と悟の親子のように細工がしてあった。

 凛花はそれを見て、クスッと笑った。


 朝、仕事から疲れて帰って、自分のために一生懸命にお弁当を作っている、父の悟の姿を思い浮かべ、凛花は涙が溢れて来た。

 手紙を開くと、こんなことが書かれていた。



   凛花へ


   ダメな父親でゴメン。 

   どんなにダメでも、情けなくても、俺はいつも凛花を応援

   している。

   さっさと答案を書いて、早く帰っておいで。

   今日は焼肉パーティだからな!


                 オジサンより


 「わかったよ、オジサン。

 さっさと片付けて帰るからね!」



 午後の試験も終わり、試験会場を出た凛花は、大きく背伸びをした。


 「終わったー!」


 合格の手応えは十分に感じていた。

 凛花は悟に電話を掛けた。


 「オジサン、今、終わったよ」

 「そうか、その感じだと上手くいったようだな?」

 「まあね。じゃあ、これから帰るね?」

 「気をつけてな?」

 「はーい」





 焼肉屋には、楽しそうに食事をする、凛花と悟の親子がいた。


 「凛花、どんどん食べろよ」

 「オジサンも食べなよ、さっきから焼いてばかりだよ」

 「俺は食べるよりも焼くのが好きなんだ。ほら、旨そうに焼けたぞ」

 「そんなに食べられないよ、もうお腹いっぱい。

 今度はオジサンが食べて。

 ビールのお替り頼む?」

 「今日はいいよ、もう十分飲んだから」

 「そう?」


 


 店を出ると、すっかり辺りは暗くなっていた。



 「あー、美味しかったー。牛一頭、食べた気分」

 「美味かったな? 今度は合格発表の時、お母さんと三人で来ような?」

 「うん、そうだね?」


 とても月が綺麗な夜だった。

 私たち親子は最高にしあわせな気分だった。



 「オジサン、ありがとうね。お弁当、凄く美味しかったよ」

 「そうか? それくらいしか俺には出来ないからな?

 やっぱりトンカツの方が良かったか?」

 「ううん、あれがいい、私、写メ撮っておいたんだ、ほらね」


 私たちはお弁当の画像を見て笑い合った。


 「このおにぎり、オジサンと私にそっくりだね?」

 「当たり前だ、俺たち、親子だからな?」



 その時、激しい痛みが私の左胸を貫いた。

 どうやら来るべき時が来たようだった。

 私はその場に倒れ込んでしまった。


 「どうしたの! 胸が苦しいの! 救急車、今、救急車を呼ぶからね!」


 私たちの周りにはすぐに人だかりが出来た。


 

 「どうしたんですか?」

 「父が、父が急に倒れてしまって・・・」

 「取り敢えず、服を緩めましょう」

 「おい! 救急車はまだかよ! 何してんだよ!」


 次第にサイレンの音が近づいて来た。



 救急車に乗せられ、私のカラダには様々なセンサーが取り付けられているようだった。

 

 「ここから一番近い、日赤病院に向かいます!」


 救急隊員が、そう私に話し掛けた。

 凛花が私の手を強く握っている。


 「すみません、父の手が、手が、どんどん冷たくなってるんですけど!」

 「お嬢さん、もうすぐです、もうすぐ病院ですから!」

 「り、凛、花・・・」

 「何? どうしたの、しっかりして! もう少しで病院だからね!」

 「いい、医者に、なれ、よ・・・」

 「うん、うん。必ずいい医者になって、パパを診てあげる、だから頑張って!」

 「・・・ごめんな、最後、まで、迷惑、掛けて・・・」

 「パパ! 死んじゃやだよパパ! パパーーーーーーーっ!」





 初七日も終わり、凛花は魂が抜けたようになってしまっていた。

 外にはちらちらと雪が舞っていた。

 

 「凛花、あの人からの手紙よ」


 母親の美佐枝は凛花に悟からの手紙を渡した。



   美佐枝、凛花へ


   まずはごめんなさいからだな?

   先日、店で倒れて救急搬送された。

   どうやら俺は心筋梗塞になってしまったらしい。

   もう俺の心臓は、30%しか動いていないそうだ。

   お前たちにはたくさん迷惑をかけてしまった。

   今更詫びても遅いけどな。


   俺はしあわせだったよ、お前たちとの思い出は、いい

   思い出しか浮かばない。

   お前たちは大変だっただろうけど、少なくとも俺は

   しあわせだった。

   いろんなことで苦労もかけたし、心配もさせた。

   本当にすまなかった。

   財産はないが、俺の保険金は多少は役に立つだろう。

   美佐枝、凛花を助けてやってくれ。まあ、言われな 

   くともそうするだろうがな?


   凛花、必ず医者になって自分の夢を叶えてくれ。

   学費の事はもう心配しなくても良くなっただろうから、

   安心して勉強して下さい。

   凛花ならきっといい医者になれると思う。

   じゃあね、さようなら。

 

                   三上 悟




 「パパのバカ・・・、ありがとう、パパ・・・」


 凛花と美佐枝は抱き合って泣いた。

 がらんとしたアパートに、やっと家族が揃った。


 仏壇にある、悟の小さな遺影が笑っていた。

 

 凛花は防衛医科大学に合格した。

 入学式には桜が満開になっていることだろう。


    

              『今日、パパを辞めます』完


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【完結】今日 パパを辞めます(作品230528) 菊池昭仁 @landfall0810

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