section 12 母のカンは鋭い!
ヤバイ、しつこい女だ! ゾッとした。引っ越そうとすぐ決心した。直ちにアパートを引き払い、同じ市内だが羽衣町のワンルームに移転した。幸いなことに親父から借りた金がまだ残っていた。両親に転居理由をデッチあげて新住所を報告した。1週間ほどバタバタしたがやっと落ち着いた矢先、母が楽しそうにやって来た。
「お父さんが見て来いってうるさいから偵察に来たのよ。まあ、カーテンもないの! ひゃあ、臭~い、アンタはこんな不潔な毛布と布団なの! しょうがない、買ってあげるわ」
さっさと母は駅前の大型スーパーで何やら抱えきれないほど買物して、タクシーで戻った。カーテンや新品の寝具が揃ったスウィートルームに変身した室内で、久しぶりに母と向き合った。
「この前ね、ソウイチって人を知らないかと言ったわね。それで思い出したけど、アンタが生まれて名前を付けるとき、お父さんはヨウイチにしようと言ったの。あの人は海が好きだから太平洋の洋よ。でも私は空が好きで、どこまでも広がる青空が大好きなの。それで大海原と天穹の青をイメージする“蒼”を提案して、“蒼一”に決まりかけたんだけど、イチをつけると長男だとわかるから、キラキラネームっぽく蒼真にしたのよ。もうお父さんはすっかり忘れているけど、そういうことよ」
蒼真は予期せぬ展開に衝撃を受けた。俺は蒼一だったのか、あのおっさんなのか…… やっと謎の半分が解けた。
「母さん、ありがとう、よくわかった。今夜は泊まってくれよ、僕は床に寝るから」
「あらあら、まだ甘えたいの、しっかりしてよ。そうだ、ちょっと待って、寝る前に確かめたいわ。アンタがロンドンまで追いかけた相手は、仙台の石原医院の子でしょ?」
「えっ? いや、人違いだ」
「ダメ、ウソはなしよ。あの子はちっとも変わってなかった。メールの画像でわかったの。いつもピアノを弾いて、時々、窓を開けて空を見上げて泣いてたわ。とっても上手で、何度も聴きほれたことがあったのよ。とっても哀しいメロディだった…… あの子でしょ! アンタの顔にそうだって書いてあるわよ」
母は愉快そうにケラケラ笑った。ふーっ、俺は観念するしかなかった。
「よく聞きなさい! 女を泣かしちゃダメよ! お父さんは転勤する度に女がいたわ。イエスとノーをはっきりしないからよ。そのうちややこしい仲になって大変だったの。ノーとはっきり言えば女はショックで混乱するけど、女ってそんなヤワじゃない、次の男を見つけるわ。アンタにお父さんのような男になって欲しくない。グズグズ煮え切らない男はサイテーよ!」
何を言い出すかと思ったら親父の浮気か。そう思えばよくケンカしてたなあ、あれは不倫で浮気か、初めて知った。
「今はどうなんだ? まだやってるのか?」
「5年前かな、終わったみたい。世間サマには息子の仕送りだと言ってるけど、手切金のローン返済でパートしてるのよ」
はぁ?? 親父が手切金か。まさか俺に弟や妹はいないだろうな? 母に悪いが愉快に思った。
「アンタはあんなことがあって進路変更したけど、そろそろ気が緩みそうだから、お父さんの情けない姿をちゃんと教えたのよ。父親似で背があって頭と顔もマアマアのアンタが、女を不幸にするサイテー男にならないようにカツを入れに来たのよ。わかったか!」
あーあ、返事のしようがなかった。しかし母のカンは鋭い! 親父に苦労させられてカンが研ぎ澄まされたのか、おかしくて仕方がなかった。
母は喋るだけ喋って、部屋中をピカピカに掃除して帰った。母さん、ありがとう。走り去る新幹線に手を振った。
待っていた声がやっと届いた。
「明日、東京に戻ります。会ってくれますか?」
「ずっと待ってたんだ。どこへ行けばいい? 君の部屋か?」
「4時に国立のあのお店に来てくれますか?」
「わかった、待ってる」
俺は嬉しくてどうしようもなかった。会えると想像しただけで全身が熱くなった。ダメだ、今夜は抑えよう、ガマンだ。そう自分を納得させたが、アレは勝手に顔を出して大暴れした。
3カ月ぶりに会った由紀は見違えるように輝いて見えた。頰が少し丸くなって、耳には小さなピアスが光っていた。こんなキレイな子だったか? ロンドンの由紀は暗い眼をしたガリ勉中の受験生に見えたが、苦しみから這い上がって一皮剥けたのだろうか。しばらく見とれていた。
「どうしたんですか、怖い顔で。なかなか帰って来なかったから怒ってますか? はい、お土産です」
「急に君がキレイになったんでびっくりした」
「はあ、きっと眼が悪くなったんでしょ、ねえ、首を出して」
蒼真の首にふんわりした濃紺のマフラーを巻いた。
「ありがとう、暖かいよ。でも最大の土産は君だよ、忘れたか?」
由紀は真っ赤になって下を向いた。
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