section 11 ついに吉報届く
まもなく、由紀から預かった小箱を持って吉田の帰宅を待った。
「あれまあ! どうしたの? しばらく見ないからロンドンに行ったのかと思ってたけど、違ったの? まったくだらしないわね!」
「行きました。これを先生に渡してくれと預かりました」
「ひぇーっ、本当に行ったんだ! 見直したわ。あらら、ロイヤル・ウースターだ! さあ、入りなさいよ、話を聞かせて」
「ロンドンに10月30日に着きました。最初に会ったときは驚いたようでしたが、すごく喜んでくれました。心細さと寂しさを我慢してたみたいです。だけど次第に元気がなくなって、ケイタイやメールも返事がない日が続いて、次に会ったときは死にたいと泣きました。自分のピアノはダメなんだと苦しんでいました。僕は慰めることすら出来ず、何もしないと約束して朝まで一緒にいました。ここで彼女を帰すと本当に死んでしまうと思ったんです」
「やっぱりねぇ、私が心配してたのはそこなのよ。それでどうなったの?」
「ギリギリまで追い詰められて、父親に電話したと聞きました。多分、別れの電話だったと思います。父親は、世界的なピアニストよりも、身の丈に合ったピアノを目指しなさい、辛かったらいつでも帰って来なさいと伝えたそうです。それから彼女は変わりました。ヘタでもいい、子供たちを教えるピアノ教室を開くのが夢だったのに、忘れてたと笑ったとき、僕はほっとしました。自分が出来ることをやろうと少しわかったようです。ピアノなんかで死ぬな! ピアノだけが人生か? 君の心と体と将来が大事なんだ! 僕は偉そうに説教しました」
心配顔で聞いていた吉田は、
「石原さんは、お子さんを教えるのがぴったりかも知れないわ。東月くん、石原さんを支えてくれてありがとう。飲めるんでしょ、絶望の淵から立ち上がった石原さんに乾杯しよう、飲も! 飲もう! それでさ、東月くんは恋人になれたの?
「うーん、ハーフ恋人ですかね」
蒼真の言葉に吉田はビールを喉に詰まらせ、胸を叩いていつまでも笑っていた。
数日後、蒼真は父に本を送った。本好きな人に有名なチャリング・クロス街で見つけた古本だ。それは19世紀のアジアの海を支配した大英帝国艦隊の本だった。ネルソン提督の地中海艦隊やナポレオンの野望を退けたトラファルガー海戦などが詳しく載っていて、親父が大喜びしそうだと土産にしたものだ。
送られた本に父は相好を崩したが、添えられたメモには「父さん、これを利息の代わりにしてくれないか」と書かれて、大笑いした。何はともあれ、女を追いかけてロンドンまで行って、無事に帰国した息子に安堵した。
2年度が終了した蒼真は、2月初めに神戸の実家に帰省した。逞しい立派な成人男子になった息子に両親は目を見張った。正月さえ帰って来ない息子がどういう風の吹きまわしかと不思議がる父に、息子は意外な質問をした。
「ソウイチという男を知ってますか? 親戚にもいませんか?」
「ソウイチ? そんな男は知らないがどんな字を書くんだ? 母さんは知ってるか?」
怪訝な顔をした。翌朝、
「母さん、僕の胸の十字の傷痕は生まれたときからあったのか?」
訊かれた母は視線を宙に泳がした。大きな産声をあげて誕生した息子の胸を見て、衝撃を受けた日を思い出した。胸にくっきり刻まれた十字架に仰天したが、十字架だから悪魔の子ではない、神様の祝福と考えようとした日を…… まだあれは残っているのか? なぜそんなことを訊くか、返答に困った。
「あの傷痕みたいな痣は、生まれたときからあったわ。神様の祝福だと気にしなかったけど、今頃になってどうしたの、何かあったの?」
「何でもない。ずっと不思議に思ってたんだ。気にしないで」
2月10日、帰国のメールが届いた。
「14日のフライトでやっと帰れます。みんなが送別会やパーティに誘ってくれるので、とっても忙しいです。羽田への直行便ですが、そのまま仙台に帰省します。ごめんなさい、東京へ戻るのはそれからです。父は青葉神社に毎日お参りして私の無事をお願いしていたそうです、親不孝な娘です。必ず連絡するので少し待ってくれますか。ヘタはヘタなりに半年間やりました。ロンドンで蒼真さんと会えなかったら、私はいなかったかも知れません。会いたいです」
跳び上がって喜んだ蒼真は「ずっと待っていた! 連絡くれ」、すぐ返信して慌ただしく東京に戻った。
アパートの部屋に戻ったが不思議な気がした。室内はきれいに片付けられていた。そうか、恵子だ。俺がメーターBOXの隙間に鍵を置いているのを知ってたか? まさか、合鍵を?
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