section 10 恋人の約束

 バッキンガム宮殿で衛兵の交代式を見た後、手をつないでテムズ川に沿って幾度も往復してパブに寄った。カウンターにはビアポンプがいくつも並んでいた。地ビールと名物のフィッシュ・アンド・チップスを頼んで、ずっと話した。

「グチャグチャのとき父に電話したんです。すぐ帰って来いと心配してました。そして叱られました。子供を教えるピアノ教室を開くのが夢だったのを忘れたか? 何を考え違いしているか! 世界的なピアニストの娘なんか見たくない、無理するなって。私は幼い頃に何度も死にかけたそうです。助けられた命を無駄にするなって怒りました。自分の手足と心にちょうど合う夢を目指しなさいって。父はわかってたんですね、電話の向こうの父は泣いてました」


「そうだな、お父さんは正しい! 僕のことを話していいか? 僕は小学生からサッカーに夢中で、どこへ転校してもエースストライカーだった。推薦で大学が決定した11月、その日は冷たい雨が降りしきる朝だった。何だか体が重だるかったが、ろくろくウォームせずにフィールドへ出た。負けられない試合で気が急いていた。

 チャンスボールを蹴り上げてゴールだと確信した途端、激痛で意識を失った。診断は腰椎の慢性疲労が招いた椎間板ヘルニアだが、腰椎疲労骨折と分離症も判明した。今から思えば、太ももや脛(すね)の外側に痛みや痺れを感じたが、高校生の僕はまったく気にしなかった。プロになって活躍したいという夢がたった5秒で消えた瞬間だ。

 治療すれば治ると誘ってくれた大学に、父は推薦入学を辞退した。なぜ相談せずに勝手に辞退したかと、僕は怒り狂って暴れた。急変した現実を呪って自暴自棄になり何も考えられなかった。君ほどではないが、絶望のカケラぐらいは知っている。

 そんな僕に父はこう言ったんだ。「お前はもうすぐ19歳だ、いくらでも道は選べる。故障を抱えてサッカーするな。周囲に迷惑をかけてお前がダメになる、違う道に進め。サッカー選手よりも確かな道を選べ、これが父の願いだ」と。


 涙を堪えた由紀は瞬きもせずに聴いていた。ふあーっとため息ついて「蒼真さん、ありがとう」と微笑んだ。

「悪いな、湿っぽい話で。もっと飲めるか、乾杯しよう。僕はそろそろ帰らなくてはならない。大学で代返がバレそうなんだ。5日後に帰る予定だ。もう一度会いたいがどうだ?」

「うーん、ちょっと無理かも…… そうだ! 風邪ひいたことにして学院をズル休みます。明日ではミエミエなんで、明後日の朝7時に学院の正門で待ち合わせしましょう、みんなが授業に出る前にどこかに消えましょうよ」

「へーっ、けっこう悪知恵が働くなあ、いいよ」

 この子は少しは元気になったかと1ミクロンの幸せに浸った。

   

 凍える寒さの朝、由紀は鼻の頭を真っ赤にして正門の陰に隠れていたが、蒼真を見ると飛びついた。

「見たい所ってありますか、どこへ行きましょうか?」

「君はどうだ? ロンドンは詳しいんだろ」

「いいえ、有名な所はサラーッと行きましたけど、たくさん話したいので私の部屋に来ませんか」

「いいのか、女子寮だろ、男が入っても大丈夫か? 君が困らないか」

「ふふっ、日本とは違ってオープンです。そうだ、食べ物がなかった。あそこの M&S Simply Foodに寄りましょう」


「どうぞ、狭いけど入ってください。ここが気に入ってるんです」

 赤レンガ壁のずいぶん昔の建物で、エアコンはなくてスチーム暖房だが、コンパクトなキッチンとバス・トイレがあった。

「蒼真さんだけに弾きます。でも今日は少しだけです。最初はショパンのポロネーズの中から“英雄”、次は“幻想”です。ショパンのポロネーズは全部で16曲もあるので、東京に戻ったら残りを聴いてくれますか」

 由紀は両手でスカートを持ちあげて、プリンセス・スタイルのお辞儀をしてピアノに向かった。

 よく聴く有名な曲だが、由紀が弾くと流れるように軽やかで、まったく違う曲かと錯覚した。ピアノにド素人の俺がそう感じた。これかあ、吉田先生が言ったのは……

「スゴイ、最高だよ! こんなに上手いとは思ってなかった」

「わっ、私のファースト・ファンです。嬉しい!」


 たくさん話をしたが時間は止まってくれなかった。夜が更けるにつれ、ふたりは言葉を探して見つめ合い、涙を隠して微笑んだ。

「帰りたくないけど帰るよ、元気で戻って来いよ、わかったな」

「あの~ これを吉田先生に渡してくれませんか、お土産です。あれっ、蒼真さんに何も用意してなかった。ぼんやりでごめんなさい」

「なに言ってるんだ、君が元気に帰って来るのが最大の土産だ、わかったか。そして東京に戻ったら恋人だぞ、約束してくれないか」

 頰を染めた由紀を力いっぱい抱きしめてキスして離さなかった。終わりがないキスに苦しいと喘いだ由紀を、蒼真の十字は包み込んだ。


 東京へ戻るフライトで蒼真は夢を見た。大勢の人の拍手の中央にあのおっさんと由紀が立っていた。「これからアキヅキソウイチ院長とニシザキユキコさんの結納の儀を始めます」と進行係らしき男が言った。アキヅキソウイチ? あの男はソウイチ? 知らない名前だ、どこの誰なんだ?

 そのとき「Please return your seat and table to their original positions and fasten your seatbelt」のアナウンスが流れた。ああ、乗り継ぎかと蒼真は気づいた。 

 東京に戻って毎日メールした。生活の時間差があって返信が遅いときもあるが、泣き言は言わなくなった。どうやら、現実を受け止めたようだ。とにかく早く戻って来い、俺は恋人だぞ! 早く抱きたいと思った。

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